布石
青海屋の手代は、隆正の顔を覚えていたようだった。黒羽織の影を見るなり駆け寄ってきた焦りように、にこやかすぎる笑みの端に見える緊張と不安。隆正のさほど鋭くない目にも見て取れるようでは、やはりますます疑いを深めざるを得ない。
「これは御同心様、手前どもにまだ何か……?」
「いや、大した話ではないのだが」
何を隠している、と問い質したいのは山々だが、それをしたところで白を切られるのは分かり切っている。だから隆正は憤懣は呑み込み、努めて何気ない風を装って切り出した。薄雲花魁に、言い含められた通りに。鈴のため、信二を無事に探し出すためなら、あの女の糸に操られる人形にだってなってやろう。
「先日言ったことに、少し間違いがあるのに気付いたのでな。信二なる奉公人に金を貸した者がいると言ったであろう? あれは実は話が逆で、預かり物を返したいという話だったのだ」
「あの、こちらにはいない者と申し上げましたが……」
「うむ。そう伝えたところ、あちらも困惑していたようだったが。手元にあっても仕方がないので某が預かろうということになった。よって青海屋が気に懸けることはないだろう。それだけ、念のために伝えに来たのだ」
隆正が述べたのは、無論嘘だ。鈴が信二から何かしらを預かっていたなら、彼に伝えないはずがない。そもそも、金の貸し借りの話だって、隆正が先に青海屋を訪ねた際に拵えたものに過ぎないのだ。
(信二は店から何かを盗んだのか……? だが、何を……?)
薄雲は鎌をかけようとしているのだろう、とは朧げながら察せられる。青海屋から消えた何かが公儀の手に渡ろうとしていると仄めかして、何らかの反応を引き出そうとしているのだろう、と。だが、それが何か分からない。信二が店から金なり物なりを持ち出したなら、堂々と奉行所に訴えれば良いのだろうに。第一、鈴の願いは信二を見つけ出すこと、だ。青海屋は信二の居場所を知っているのかいないのか、そもそも信二の失踪に青海屋が関わっているのか――隆正から聞いただけの話から薄雲がどれだけ多くの事柄を読みとったのか、全くあの女は雲のように掴みどころがない。
「……預かり物とは何なのでしょう。なぜ、手前どもの店と勘違いなさったのでしょうねえ」
「知らぬ。まだ見てもいないのでな。とにかく、騒がせてすまなかったな」
ともあれ、薄雲の思惑の全てを把握していないのは幸いだったかもしれない。探るような目を向けてきた青海屋の手代に、迷うことなく知らぬと言い切ることができるのだから。馬鹿正直な隆正のこと、策の全貌を知らされていたなら、素知らぬ顔の演技を続けるのは難しかったかもしれない。
そして、彼が本心から首を振ったからこそ、青海屋の不審と混乱は深まっているだろう。何せ、彼らは信二という奉公人などそもそもいなかったと主張している。詳細を隆正に問おうにも、かえって不審に思われてはならないとの計算も働くはずだ。にこやかな笑顔を保ちつつも、ひと言ひと言を口にする前に、焦りや苛立ちを押し殺して言葉を入念に吟味しているような微妙な間が感じられた。そして――「預かりもの」の中身を知らぬと述べた時には、目に奇妙な光が宿りはしなかっただろうか。
「その、預けられたっていうのはどこのどなたなんでございましょう?」
「日本橋の栄屋という料理屋だ。そこの鈴という娘でな。こちらと取引があるというから、それで間違えたのだろうな」
青海屋の手代の顔色を見極めようと相手を凝視していると、隆正の方も目が回るような気分になった。お仕着せの青海波紋、その波紋状の円の連なりが自ら動いて回転して、彼を惑わそうとしているかのような。無論、それは埒もない想像に過ぎない。余計なことに考えを割くのではなく、相手の一挙一動に神経を尖らせなければならないのだが。
「栄屋さんのお鈴さんですか……」
「働き者のしっかりした娘だが、若いゆえな。うっかりということもあるのだろう。いや、本当に気にするな」
青海屋の手代が栄屋と鈴の名を聞き取ったのを、隆正は確と見届けた。わざとらしくともしつこくとも、絶対に名を伝えよ、それに鈴の年頃も、というのが、薄雲花魁が彼に与えた台詞なのだ。
先の訪問の際に鈴の名を出さなかったのは、彼女や栄屋に累が及ぶのを恐れたためだ。だから、薄雲の筋書きを聞いた隆正は最初眉を顰めたし、あの美しい微笑みを詰りもした。鈴が役人に訴えたのを知られれば、青海屋がよからぬ手段を採る恐れもある。それくらいは承知しているだろう、と。しかし薄雲はこともなげに言い放ったのだ。
『相手はたかだか器屋、それにただの町娘ひとりでありんしょう。主さんが何としても守りなんせ』
そんなこともできないのか、と言われれば発奮せざるを得ない。男としても武家としても同心としても。挑発も交えて相手を思いのままに操るのは、さすが花魁の手練手管といったところか。だが、昨晩は歯噛みしながら言い包められたと思っていた隆正も、今では心持ちが多少異なっている。
(やってやろうではないか……!)
籠の鳥と薄雲が自ら言う通り、お歯黒溝の内側に閉じ込められた遊女の力などそもそも当てにするものではないのだ。頭で考えただけの理屈と言うのも意地悪などではなくもっともな事実、ならばその理屈の真偽を確かめてやろう。そのために荒事が必要だというならば、それも良い。理屈を捏ねて思い悩むよりは、よほど彼の性に合っている。
「……わざわざお心を割いていただき、御礼の申し上げようもございません」
「うむ。商いに励むと良いぞ」
「はい、それはもう」
後ろ暗くない真っ当な商いを、との含みは届かなかったか、多分聞こえていない振りをされたのだろう。青海屋の手代はごく滑らかに頭を下げてみせたが、青海屋が本当に信二のことなど知らぬというなら、そのような男からの預かり物の中身や預け先について、細かく尋ねる必要など毫もないのだ。
* * *
青海屋への疑念をますます確かなものにした隆正は、その足で岡っ引きの猪之助を訪ねた。四谷御門のほど近く、寺社が寄り集まる界隈に居を構える亥之助は、父がよく頼みにしていた男だ。勇ましげな名前は亥年生れだからというだけ、見た目は大人しそうな小男だ。だが、その分というか目端は利くし、話しやすそうな見た目だからか人脈も厚い。隆正にとって夏目が第二の父なら、猪之助は叔父くらいにあたる存在とも言えるだろう。若輩の身で父の役を継ぐことができたのも、経験ある者たちの後見が受けられるだろうから、という酌量が働いてのことなのだ。
「随分と無理を言ってくださいますねえ、若旦那」
よちよち歩きの頃から遊んでもらった関係、父の後をついて見廻りに加わってからも何かと面倒を見てもらった間柄とあって、猪之助が隆正に対する時は、教え諭すような調子がしばしば感じられる。いつまでたっても、この男にとって隆正はまだ坊ちゃん、という感覚なのだ。無論、未熟者にはその扱いが妥当であるのは重々承知しているが。
「大江戸から人ひとりを探すのに比べたら、大分簡単な話になったと思うが。青海屋の場所は知れていて、自ら動きはしないのだから」
猪之助は生計の足しに籠細工を作っては売っている。だから住まいには様々な太さと長さに整えられた竹材が乾かされていた。隆正にとっては見慣れた光景、幼い頃には竹とんぼを作って与えられたこともある。かつてよく遊んでくれた小父ちゃんと、今は主従として向かい合う気分には、未だに慣れない。
「そうは言っても、相手は結構な大店なんでしょう。証拠がある訳でもなし……これじゃ、難癖つけるようなもんですよう」
「その証拠を集める手助けをして欲しいのだ」
猪之助の目には、隆正が功を焦っているように見えるのだろう。それか、子供がひとりで遣いに行くと張り切ってみせているような危なっかしさ、だろうか。若い娘に頼られて嬉しいのは分かるが、落ち着け、というようなことを、この男は遠回しに隆正に伝えてきていた。
大の男がひとり、しばらく姿が見えないくらいでは騒ぐには当たらない。探しているのが赤の他人では、立ち寄りそうな場所の当てもない。そんな探し人に人手を割いて、その横で盗みだの放火だのが起きればそれこそ隆正の不始末となる、云々。猪之助なりに彼のことを案じての苦言とは理解しているが――隆正は、彼には珍しく賭けに打って出たい、と思っていた。薄雲の言葉に頼り切っている、というのとは違う。むしろ、誰に知恵を借りようとも動くのは自分でなければならぬのだ、と気付かされたのが大きい。
「俺の縄張りの外の店ですよ。あの辺の仕切りは――佐吉といったかな、他所の者がうろちょろしたら、そいつも面白くないでしょう。そういう大店なら、あちこちにつけ届けも欠かしてないでしょうしね。若旦那の思うようにはいきませんって、絶対」
「あからさまに絡みに行けということではないのだ。ただ、青海屋に張っているだけで良い」
だから、今回ばかりは隆正も父親と同年配の男に対して食い下がった。薄雲に授けられた策が猪之助の言い訳を封じるものだったのも彼にとっては都合が良い。当てもなく人を探すのでもなく、縄張り違いの大店に踏み込むでもなく。薄雲は、ただ見ているだけで良い、と言っていたのだ。それだけならば、隆正の酔狂と諦めてくれる目も十分にある。
断る言葉を探しあぐねている様子の猪之助に、隆正はぐいと身を乗り出して畳みかけた。
「何日もかかりはしない。たまたま通りすがった時に怪しい人影を見たからと、そういう体裁にはできないか?」
「だけどね、若旦那――」
「今夜だけで良い。多分、それで片がつく。」
薄雲の考えていることの全ては分からないままに、それでも隆正は渋る相手にあえて強気に断言してみせた。あながち空手形ということでもない。あの女ほどの頭の冴えはないとしても、彼にだってそれくらいは考えられる。
「青海屋から不審な人の出入りがないか、見張ってくれ――頼む」
青海屋は、信二からの預かり物が隆正の――役人の手に渡ると知らされたのだ。それが何だか見当もつかないが、きっと青海屋にとっては不都合なことになるのだろう。ならば、手を打つとしたら寸時の暇も許されない。奴らは、そう考えていることだろう。




