吉原、暮六つ
暮六つの刻になると、吉原には三味線の清掻が鳴り響く。それぞれの見世が競うように奏でる音が、夜見世の始まりを告げるのだ。折しも桜が満開の季節、三味線の音が散る花びらを再び舞い上げ、花の吹雪を舞わせるかのよう。
ひとりの者、同輩と連れ立って歓談しながら歩く者。芸者や幇間を引き連れた大店の主人と思しき者もいれば、ここしばらくの稼ぎを握りしめてやって来たような職人風の者もいる。それぞれ異なる身代と生業の男たちの、ひと夜の夢への期待に緩んだ表情だけが似通っていた。
吉原は堅気のそれとは別の世界、とはよく言ったものだった。大門を潜った途端に鼻をくすぐる伽羅や麝香や白粉の香も、耳に入る廓訛り、禿や振袖新造の高いきゃらきゃらとした笑い声も。何もかもが遊馬隆正には物珍しく、味わったことのない美酒のように彼に奇妙な酔いをもたらした。
「旦那は、吉原は初めてですかい?」
「う、うむ」
正気を保とうと首を振ったのが目に入ったのか、先導していた男が振り返ってにやりと笑った。引手茶屋の鶴美屋の――松吉と言ったか。一見の、それもがちがちに固まっていた隆正を不審がるでもなく、どもりながら告げた見世と女の名に何度も頷いていた。気安い質だというのは、今も短く首肯するしかできなかった隆正にも滔々と語りかける様子からもうかがえる。
「お腰が軽いんでしょう、さぞ落ち着かないとは存じますが。ま、これも吉原の倣いということで。お侍様の中にゃあ、武士の命を手放せるかと、聞き分けのない御方もまあいらっしゃいますすが。そこへいくと、旦那は道理を分かっていらっしゃる」
腰の軽さも、確かに戸惑いの理由のひとつだった。隆正はぎこちなく腰を探る。普段差している大小がそこにないというのは、ひどく落ち着かない感覚だった。とはいえ、これも吉原が世間とは違う理で動いていることのひとつ。廓の中での刃傷沙汰がご法度なのも理解できる。茶屋の者たちに、それこそ命に代えてもお預かり申し上げますと頭を下げられれば、隆正には否とは言えなかった。
腰の代わりに懐に手を落ち着かせてから、隆正は松吉に応えた。
「郷に入らば、と申すであろう。その場所に倣いに従うのは当然のこと」
「さすがは八丁堀の旦那ですなあ。薄雲花魁には、どんなご用がおありなんで?」
隆正の役職を匂わせるにあたっては、松吉もさすがに声を低めた。八丁堀と言えば、町奉行の与力同心が屋敷を拝領するあたり。遊郭通いは何の罪でもないとはいえ、吉原にも番所はあるとはいえ、近くに役人がいると分かれば、居心地が悪い思いをする者もいるだろう。
隆正としても、余計な人目を惹きたくはない。好奇の目はもちろんのこと、今まさに松吉から寄せられるような称賛でさえ、彼には真っ直ぐに受け止め難いものなのだ。数えで二十四の若輩の身、本勤の同心として抱え入れられたばかりの身とあっては、旦那などと持ち上げられるのは面はゆい。だから隆正は、ひっそりと松吉の追及を躱そうとした。
「それは、易々とは口外できぬ。知らぬ方が良いこともあるだろう?」
「いやあ、確かに! 旦那、お願いですから何も言わないでくださいよう」
「頼まれたところで言えんよ。さあ、後は早く案内してくれ」
「へへえ、合点承知の助……!」
鶴美屋の紋が入った提灯を掲げると、松吉は今度こそ余計な口は叩かずに道を急ぎ出した。その背について歩きながら、隆正も内心で安堵している。ひとつは、似合わぬ尊敬の念などを向けられなくて済んだことに。もうひとつは、吉原の倣いではあり得ぬようにことが進んでいることに。
初心な隆正だとて、一見でひょいと花魁に会うことなどできない、ということくらいは承知している。折しも向かいからは、禿や振袖新造を引き連れたどこぞの見世の花魁が艶やかに外八文字を踏んで練り歩いてきている。よくも転ばぬものだ、というような高下駄で、足さばきを見せつけるかのように。何かと倹約倹約とうるさい――と、彼が言うのもなんだが――ご時世に、目が眩むほどの華やかな衣装に、山のような髪飾り。客を茶屋まで迎えに行くための花魁道中という奴だ。そう、本来ならば、このように大仰な手順を踏まねば花魁の客になることはできないのだ。それも、初回はろくに目を合わせることはできず、「裏を返した」二度目も同様、三度通ってやっと床を共にすることができるのだとか。
(だから、女と遊ぶということではないはずだ……)
人波の中、松吉の背を見失わないようにしながら、隆正は自身に言い聞かせた。同時に、彼の耳に目上の同心、夏目剛信の声が蘇る。
『藤浪屋の薄雲花魁に会いに行きな。あいつならお前の助けになるかもしれねえ』
真剣な相談をしたはずが吉原行きを勧められて、隆正は最初目を剥いたのだ。夏目は彼が第二の父とも慕う相手、決して女遊びで憂さを晴らせなどと言ってくるような男だと承知してはいたのだけれど。それでも、委細を問うても笑うだけで答えてくれぬとなれば、隆正の裡で不安が募る一方だったのだ。
(何かの符丁ということなのだろうな)
夏目ならば、吉原に子飼いの手先のひとりやふたりを持っていてもおかしくはない。藤浪屋だの薄雲花魁だのは、その手先を呼び出すための合言葉という訳だ。不甲斐ない若輩を見かねて、こっそりと伝手を貸してくれるということではないだろうか。それならば、夏目の紹介で、と述べた時に鶴美屋の者たちが訳知り顔で頷いたのにも得心が行く。
引き合わされるのが百戦錬磨の遊女ではなく、連れて行かれるのが場違いにもほどがある遊郭でないのなら、何ら尻込みするには及ばない。だから隆正の足取りも心持ちも大門を潜った時より遥かに軽かった、のだが――
(これは、どういうことだ……!?)
「藤」の字を染め抜いた暖簾を潜り、総籬にずらりと居並ぶ遊女たちの横を抜け、藤浪屋の二階の座敷に通された隆正は、掌を濡らす汗を懐で拭った。
絢爛な金銀の模様が施された襖。衣桁には、とろりとした艶めかしい光沢の黒の綸子に、金糸で雲を縫い取った仕掛が掛けられている。床の間には、薄闇に唐風の庭が沈む画が。すぐに春の夜を描いたものだ、と思うのは、蘇軾の詩が浮かぶからだ。
春宵一刻値千金
花有清香月有陰
歌管楼台声細細
鞦韆院落夜沈沈
桜は香らずとも確かに座敷には清らな香が焚かれ、三味線の音もここでは遠く微かに聞こえるばかり。絵の良しあしは分からないながらに、漢詩の「春夜」を題にした雅な趣向の部屋なのだろうと察せられた。
ここまで来れば、隆正も認めざるを得ない。これは、紛れもなく花魁の座敷、なのだろう。下引きの類に会う心づもりのはずが、一体どうしてこのようなことになったのか。ここに至るまでに、やっぱり止めたと言う機会は幾らでもあったはずなのだが、ついに言うことができなかった思い切りの悪さが恨めしい。くるりと引き返しては、茶屋や見世の者の恥になりはしないかとの気遣いが隆正の舌を凍らせたのだ。だが、このまま行けば恥をかくのは他ならぬ彼になりはしないだろうか。
「薄雲花魁、お出でなんす」
そこへ響いた少女の高く澄んだ声に、隆正は背筋をしゃんと伸ばす。赤い地に、これまた桜の花びらを散らした着物の振袖新造だ。可愛らしい模様の割に、それを纏う本人の表情はつんとして生意気げだ。稚いながらに、姉花魁の矜持を真似ているかのよう。
いや、それは大した問題ではない。隆正がより気に懸けるべきは、振袖新造の口上の意味するところだろう。とはいえ心構えをする暇もない。さやさやとした衣擦れの音が聞こえた、と思った次の瞬間には、絢爛な輝きが隆正の目を射った、気がした。
「お初にお目にかかりいす。わちきに何の御用でありんすかえ?」
頭上から浴びせられる声は、振袖新造のそれにもまして驕慢で、かつ涼やかで美しかった。目の前を過ぎる仕掛は、白地に銀で細やかな文様が描かれている。生地自体が光り輝くように眩く、流れる雲に舞う鶴の模様がこれも空を模していると伝えてくる。その煌きに目を細めながら、隆正はふと何かが腑に落ちるのを感じていた。
(ああ、月か……)
花の香りに、夜空を模した黒の綸子。しかし春の夜を描くならば、この部屋には月が足りない。女主人が現れて初めて、一刻にして値千金の春宵が現れる。そういう、趣向だったのだ。
しなやかな所作で隆正の向かいに座した薄雲花魁、その艶やかな微笑みは、欠けたところのない月のように美しかった。