10 『魚心』あれば水心
今回は愛魚視点からスタートして、本編第1話以前の出来事の回想に触れた後、ベルリネッタ視点に切り替わります。主人公視点はありません。
了大くんとお付き合いを始めて、最初の週末。
なのに、あのベルリネッタさんが、了大くんを遠くへ連れて行ってしまった。
「真魔王城……」
行き先はわかってる。
本当は自分だって、遠くの……向こうの住人なんだから。
思えば、了大くんに出会ったのは、父さんが仕組んだこと。
最初は、父さんに言われて見張ってるだけだった。
さんざん厳しくされて、あれもこれもと勉強させられて、やっと《形態収斂》を習得して、これで一人前の仲間入りができたと思った途端、言いつけられた仕事は子供の見張り。
その時はすごくガッカリした。
子供の学校に通って、子供の初歩的な勉強に合わせながら、父さんに言われた特定の子を見張っておくだけ。
なんでこんなことをさせるんだろうって、父さんに聞いてみたこともある。
「いずれ、時期が来れば教える。今はまだ、その時期ではない」
何度か聞いてみても、答えはいつも同じだった。
それで言われた通りに見張っていると、彼の周囲にはいつも敵対的な子供がいた。
嫌がらせをして困らせたり、暴力を振るって傷つけたり。
助けなくてもいいのかって、父さんに聞いてみたこともある。
「必要ない。それで潰れるならそれまでのことで、将来の為に必要なことだ」
彼は信じることを恐れる子に育った。
受けてきた悪意や敵意を鏡に映すように、敵になる者に対しては人が変わったように粗暴になる面を隠し持つ子になってしまった。
こんな子を私に見張らせて、父さんはいったい何がしたいのか。
そんなふうに思うようになりながら中学生になった最初の秋、学校の行事の中で演劇をやろうとクラスの中で決まって。
「お姫様役は、真殿な!」
私を除いたクラスの大多数がグルになって、演劇のお姫様役を了大くんにやらせることにしてしまった。
なんて幼稚な。
あんまりな仕打ちに憤った私はつい、言ってしまった。
「私が、王子様を演る」
父さんは反対しなかった。
「お前が本心から、自分がそうしたいと思ったのなら……それでいい。好きにしてみなさい」
クラスのみんなは何を考えているんだろう。
彼を傷つけて、笑いものにして、それで自分たちが面白ければいいのか。
幼稚で無自覚な悪意に、気分が悪くなる。
そんな中で始まった練習。
所詮は子供のお遊戯。
見張り役としてはいつもより少し近くに行くだけ。
そんな風に思ってた。
「深海さんは大丈夫?」
演劇の台詞や打ち合わせではない、了大くんとの初めての会話。
「大丈夫。台本は全部頭に入ってるし、体調も悪くないよ」
こんなお遊戯でも、彼は成功させたいと思うんだろうか。
そう考えていた私に対する、彼の言葉は。
「劇なんか別にいいんだけど……僕と一緒にいたらさ、深海さんまで変なこと言われたり、されたりしてないかなって」
なんてことだろう。
彼は自分の逆境より、私に害が及ばないかを心配していた。
「ほら、僕ってぼっちでさ、みんなも……アレじゃない? だから、深海さんにも何かしそうで」
《魚心あれば水心》とはよく言ったもので。
彼は自分が傷つくより、自分に味方する者が傷つくことを恐れる子に育っていた。
受けた善意を鏡に映すように、自分の心配よりも先に、自分に善意をくれる者を心配する子になっていた。
「深海さんはいい人なのに、僕なんかのせいで迷惑したら嫌だなーって」
本当はこんなにも優しい子に育っていたんだ。
父親には厳しくされて、周囲は幼稚で無知な子供ばっかりで。
そんな中で、彼の優しさを知ってしまった途端。
「私は、真殿くんの味方だから」
私は彼が……了大くんが、たまらなく愛おしくなった。
了大くんを好きになった途端、昨日までと変わらないはずの学校が一変した。
行くのも面倒だったはずなのに、了大くんに会いたくて、喜んで行くようになった。
なのに、了大くんは毎日のように何かしら嫌がらせを受けていて。
前よりもずっと、それを目にするのがつらくなった。
それでも、私がいることでほんの少しでも了大くんの気持ちが楽になればと。
そう願わずにはいられなくなっていた。
そして少しずつ、了大くんに対する嫌がらせが減るように働きかけるようになった。
「深海さん、ありがとう」
了大くんは、私にだけは可愛らしい瞳で微笑んでくれる。
厳しかった父さんも少しずつ甘くしてくれるようになってきて、結局は好きにさせてくれた。
私に、彼を好きになってほしくて、ずっと見張らせていたんだよと。
そう言ってもらって、次の学校も了大くんと同じ所を選んだ。
今の学校でも、ずっと了大くんを見て過ごしてきた。
見張り役を父さんに命じられたからじゃない。
私が、彼を見つめていたい。
彼にも、私を見つめてほしい。
だから、交際の申し込みをしてもらえて、最高に嬉しくて。
「……やっと、言ってもらえた」
だから、今週は最高に幸せ……な、はずだった。
なのに。
「わたくしはりょうた様だけのモノです」
あのメイドが。
ゲームの中のキャラクターじゃない、了大くんに話しかけて、側に近寄る、あの女が。
「りょうた様がそれをお望みになるなら、いつでも応える所存ですよ」
後から現れて何も知らないくせに、肉欲すらちらつかせて彼を誑かし、美味しいところだけを盗ろうとする。
嫌だ。
取られたくない。
彼は私の恋人だ。
あの可愛い瞳の輝きも、遠慮がちなあどけない微笑みも、私のモノだ。
誰にも渡さない。
醜い気持ちが渦になって、頭の中が大荒れになる。
頭を抱えていると、父さんが部屋のドアをノックした。
「いつかお前には『時期が来れば教える』と言ったな。その『時期』が来た。すべてを教えよう」
父さんは何を考えているんだろう。
その考えの先に、この大荒れを抜け出す道があるんだろうか。
父さんが用意した場に、あのメイドが――ベルリネッタさんが――一緒にいた。
すべてを教えると言った父さんは、本当に全部出し尽くすように話し始めた。
了大くんが魔王だということ。
ベルリネッタさんは魔王の軍団の中でも父さんと同格で、手出しがしづらいこと。
魔王の証である魔王輪が発現した了大くんに、魔王としての教育が始まったこと。
そして……
了大くんの愛はたくさんの女が欲していて、私が一人占めはできないということ。
「彼もそろそろ、色を知っていい年頃だろう……そして、お前もな」
父さんは最初から知っていた。
知っていて私を見張り役にさせて、私が了大くんを好きになっても反対しなかった。
挙句に今、私に体を使わせようとする。
要するに政略結婚のつもりだったんだ。
私は利用されていた。
「まななさん。彼はあなたを裏切りたくないと言って、誰にもお手をつけようとしません……わたくしにも」
ベルリネッタさんはそう言うけど、それは彼が誠実だという意味よりも……
「つまり、手をつけさせようとはしたんですね」
ベルリネッタさんが彼を誑かそうとしたという意味の、自白でしかなかった。
「そこで、だ……」
父さんが用意した筋書きが、私とベルリネッタさんに語られる。
やはり私は、父さんの道具なんだろうか。
それでもいい。
たとえ私が道具でも、父さんに仕組まれて生まれた気持ちでも、私は了大くんを愛してる。
それだけは絶対に譲らない。
二人して私を利用するなら、私だって二人を、用意された筋書きと環境を全部利用してでも、了大くんの側から離れない。
私は……
《水に棲む者の主》の娘で……
それ以前に、了大くんの恋人なんだから!
最初、あの少年に出会ったことは、本当にただの偶然でした。
ただの通りすがり、道すがら美味しそうな林檎をもいで、その場で食べようと。
「はぁ、素敵……ほんの少々頂戴しただけで、こんなに……とっても濃密……♪」
その程度の、軽い気持ち。
偶然の出会いに別の偶然が重なって、探し物が姿を現して。
「これは……魔王輪!?……まさか、こんなことって……」
勇者との戦いで、刺し違える形で引き分けに終わった時、次元と次元の間へ……
暗黒ですらない、何もない『虚無』の中へ消えていった先代の魔王。
その魔王が消えたことで、長らく失われていた魔王の力の源。
それが、次元の向こう、こんな少年の中にあったなんて。
「ベルリネッタ様が年下趣味に転ばれたとは、意外でしたわ」
「幻望さん、こちらはそういうお方ではありません」
最初は、そんなつもりではありませんでした。
魔王と言えども、女に興味津々な年頃の少年。
色香で惑わし、体を使って誑かせば、いくらでも好きなように操れると。
「わたくしではご不満でしょうか?」
「不満だなんてそんな! とんでも……でも、や、あの……」
初心で晩生な子供なら御しやすいと、内心ではほくそ笑んでさえいました。
そうなれば《不死なる者の主》として、軍団の発言力は大きく増し、自分の地位は安泰と。
利用するつもりで、誘惑しました。
「……ごめんなさい。僕は、愛魚ちゃんを……あの人を裏切る訳にはいきません。すぐ……帰ります」
でも、強い意志と意地には通用しませんでした。
あの少年はわたくしを拒み、誘惑を断ち切りました。
こんな子供と高をくくっていたわたくしの慢心も、拒まれるはずがないと思っていたわたくしの自尊心も、バラバラに引き裂かれました。
何も言えず、帰りたいと言う少年に《門》を開けて、見送ることしかできませんでした。
「信じられない! ベルリネッタ様のお誘いを断っちゃうなんて、もったいないじゃないですか!」
「……そういうこともありますよ、黎さん」
憎らしくて、悔しくて。
でも、それでいて、それ以上に……
妬ましくて、羨ましくて。
その日はもうどれだけぶりか、久しぶりに泣きました。
自分はあんなふうに本当に愛してもらったことはない。
あんな強い気持ちで想ってもらったこともない。
それを思い知らされて、寂しくて、悲しくて。
泣きやんだら、あの瞳が心から離れなくなりました。
あの幼くてもまっすぐな気持ちを、もし自分に向けてもらえたら。
可愛らしい瞳に込めた誠実な心で、もし自分を愛してもらえたら。
わたくしは変われますか。
歴代のさまざまな魔王に保身や計略で股を開いてきた、この穢れた体も。
股を開いて男を言いなりにさせながら、その裏で男を見下してきた、この虚ろな魂も。
全部洗い流して、生まれ変われますか。
それが疑念から『変わりたいという願い』に変わった時、わたくしは気づきました。
あの少年に……
りょうた様に、恋焦がれていると。
世界と世間の狭さに驚いたのは、その後でした。
深海阿藍こと《水に棲む者の主》であるアランさんが、前々から手下の者にりょうた様を監視させていたこと。
その手下が、アランさんの実の娘であること。
そして、その娘こそが、りょうた様が裏切りたくないと言ったまななさんであること。
胸が苦しくなりました。
りょうた様が使い慣れた暦で十年以上、都度同じ学び舎を選んで過ごしてきたまななさんの方が、自分よりずっと強く想ってもらえるのは当然。
後から来た自分は所詮、泥棒猫程度の存在でしかないと。
でも。
他の女の後ででも、二番手や三番手でも……
いいえ、たとえほんの一度だけでも。
りょうた様に愛してもらえるなら。
あの瞳で、あの心で、わたくしを見つめてもらえるなら、それでもいい。
だから、この期に及んでまだ政略にこだわるアランさんが、まななさんにいよいよ体を使わせようという時に。
「僭越ながら……」
一つだけ、状況を利用させてもらうことにしました。
わたくしが手に入れられない物を持って生まれて、わたくしがとうに失った純粋さを失わずに生きてきたまななさんに、わたくしがせめて『負けない』でいるために。
「やっぱり、そのつもりだったんですね。いやらしい……」
「りょうた様の前でも、申し上げましたよ。わたくしは、お二人の仲を引き裂くつもりはございません。お二人の為を思えばこそ」
嘘。
本当は自分が一番愛されたい。
でも『一番』にはなれないのなら。
「初めて同士のお二人では、何があって失敗するかわかりませんから……わたくしから、りょうた様に手ほどきを」
せめて『初めて』になりたい。
最初の思い出になって、あの人の心にずっと残る女になりたい。
たとえこの気持ちが、やっぱり届かなくても。
たった一晩だけの情愛でも。
心の中で大事な思い出にして、時々引っ張り出して、良い女だったと懐かしんでもらえるなら。
わたくしは、それだけでもいい……
◎魚心あれば水心
魚に水を思う心があれば、水も魚のことを思う。
こちらが親切にしてあげれば、相手もその気持ちに応えて親切にしてくれるということ。
本来は「魚に心あれば、水に心あり」であった。
メインのダブルヒロインそれぞれの視点から、なぜ主人公を好きになったかの回想でした。
了大本人が自覚しないところで、しかし了大自身の心でヒロインをゲットしていたということでご容赦ください。




