エスト
扉を閉め、エストは室内を見渡した。
机と椅子が一つ、その向かいにソファー。この部屋にあるのはこれだけだ。今は人の気配もない。
扉に鍵をかけ、窓から外を窺いカーテンを引いた。
魔力ランプを灯し、机の引き出しに取り付けられたいくつもの鍵を外し、大量のノートと、分厚い大きな本を取り出した。
「……」
エスト・エルフリード。本名をガトー・フェイレン。
元は魔術の研究をするために魔術ギルドの門を叩いたのだが……いつからか、坑魔戦争とそこで活躍した英雄達に魅入られ、その研究を行ってきた。
特に、坑魔戦争を指揮したとされる戦神ジークの研究に力を入れ、超が付く一流の魔術師でありながら、博士号を取得するなどその道の第一人者となりそれが本業となった。
そんな彼に、ギルドからとある書物の解読を行うよう辞令が下る。
その書物とは、デュライの小箱と呼ばれる箱に収められていた数十冊の書物で、未知の言語で記されていた。
真偽は不明だが、魔術ギルドの創設者にして坑魔戦争が英雄の一人、大賢者モーゼル・デュライが書き記したとされていた。
解読に取り掛かかって間もなく、彼はあっさりと解読に成功した。そしてその内容を発表する当日、書物の写しと研究室に火を放ち、デュライの小箱を奪って姿をくらました。
それについて魔術ギルドは、『ガトー・フェイレン博士は一方的に魔術ギルドを去った』と発表したが、それ以外は隠蔽し箝口令が敷かれた。
以降、彼は魔術ギルドに命を狙われる事となり、各地を転々とする逃亡生活を送っていたのだが……噂によると、ザシャに潜伏していた所を暗殺チームに襲撃され命を落としたらしい……。
――エストは本に取り付けた錠を外し、表紙を開いた。
パラパラと目を通し、白紙のページで手を止めた。
「間もなく坑魔戦争か……」
見た目は本であるが、まだ本と呼べる状態ではない。今、彼が執筆中のものである。
あの日――ほぼ全ての収集物を処分し、代わりに手に入れた物がこれだ。
彼にとって、このノートと本にはそれだけの……いや、あれらとは比べ物にならない価値があるのだ。
ふと――向いのソファーから声が飛んだ。
「あの女は使えそうか?」
いつの間にか……ソファーに彼が座っていた。
まるで初めからそこに座っていたかのように、見慣れぬ白い面――狐面を付けた男がソファーにもたれている。
「はい。少々手こずっておりますが……。間もなく仕上がるかと」
「そうか……」
「……」
彼との出合いは……そう、ザシャでローデック達に樽詰めにされる数日前の事だ――
ザシャ東の森に発生したダンジョン。東部ダンジョン改め壁の迷宮
エストは、魔術ギルドの討ち手をここへ誘い込んで始末する算段を整え、ウォール・ダンジョンへ潜入した――
「〈不知覚〉」
エストはポータルを潜り、ゆっくりと目を開いた。
足元に広がる緩やかな斜面。その先は焼き払われ、平原となった森が続き――彼方に作りかけの壁のような要塞が見えた。
「まさか実物に行くことが出来るなんて……」
感嘆の声を漏らし、眼前の景色に見入った。
いそいそと斜面を下り、仮設キャンプを突っ切った。
誰もエストの姿は見えていないうようで、肩が触れた者は視線を漂わせて首を傾げた。
しかし、いくら認識されないとはいえやり過ぎれば気が付かれてしまう。先程の接触も、相手が相手であればバレている。
だが、エストはどうしてもこの興奮を抑えきれなかった。残された資料が極端に少ない坑魔戦争の遺物。その在りし日の姿が目の前にあるのだ。
本来の目的さえも忘れ、エストは斜面を駆け下りた。
「〈浮力〉」
前へ大きく跳躍し、前方に魔法陣を描いた。
「〈加速〉」
リングを潜り、次々と〈加速〉を繰り返して一直線に要塞を目指した。
「これがウォール……」
絶壁のように聳え立つ外壁を見上げた。分厚い壁であり、要塞でもある。
エストは目を輝かせ、〈浮力〉と〈加速〉を使い一気に外壁上へ飛び上がった。
壁上には、この広いスペースとは不釣り合いな小振りなバリスタが並び、壁の縁に所々石落としが設けられている。
振り返ると、彼方に仮設キャンプが設置された斜面が見える。あの斜面の裏側にはザシャの街がある。
「まだカルデラがない……。これが坑魔戦争初期の景色か」
エストは鞄からノートを取り出し、スケッチを始めた。
「帰りにウォールのスケッチもしないとな……うん。決めた。これが終わったらエミリー君に転写魔法を教わろう。でもそうすると助手の仕事がなくなっちゃうなぁ……」
――スケッチを終え、単眼鏡を取り出して仮設キャンプを覗いた。
出入り口のポータルを捉え、すぐ脇の大きな看板へピントを合わせた。
(……数値が入ってない)
単眼鏡を下ろし、ボソボソと独り言ちた。
「と言う事は、まだ一度も初期化されていないのか……」
このダンジョンは発見から既に数ヶ月が経過している。
一般的に、初期化の間隔が長ければ長いほど深いダンジョンとなる。
現在確認されている最長はダーラの八年だ。次点が深淵の七年。全てではないが、初期化の間隔とダンジョンの深さは比例するいうのが常識だ。
(ここはなかなか深そうだな……)
エストは周囲を見渡し、にんまりと笑みを浮かべた。
(なら、潜るほどに時代が動いてゆく可能性も高い……。さっさと邪魔者を片付けて散策しなくちゃ)
早速、頭の中に長期潜伏に必要なものを並べながら、目的の階層を目指した。
このダンジョンは、非常に複雑な作りをしていた。一層目の入り口は正面にウォールを望む斜面の中程。二層目の入り口はウォールの中に、三層目は焼けた森の隅。という具合にポータルの位置がバラバラで規則性がない。
加えて部分的なセル――『枝』が非常に多く、攻略に時間がかかっていた。雑に置かれたマーカーに、その苦労が滲み出ている。
例えば、ウォール内の物置に発生した枝は、物置だけの空間が三層続き行き止まりとなっている。
かと思えば、馬屋を四層下りると次階層に出るといった正規ルールもあり、各階層に生えた枝を残らず調べなければならず、非常に時間がかかっていた。
エストの狙いは、行き止まりの枝だ。討ち手をそこへ誘い込んで始末するつもりだ。
入手している情報から、既に数カ所に候補を絞り込んである。後は最適な場所を選び、獲物がかかるのを待つだけだ――
――それから約二日。
ポータルを潜った討ち手は、舞い散る血飛沫を躱して飛び退いた。
先にポータルを潜った仲間の頭に、錫杖のような杖がめり込んでいた――
「――!!」
その向こうには、途中ではぐれた仲間の一人が横たわっていた。
こちらに背を向け、生気のない顔で自分を見つめている。
「魔法しか能がないと思ったかい?」
反射的に飛び退いて距離を取ったものの……虚を突かれカウンターを取り損ねた。
たしかに、魔法以外への警戒を怠ったのは事実だ。しかし、全く警戒していなかったわけではない。魔術師相手にはむしろ過剰と言えるほどに警戒していた。
「たしかに、僕は魔法の方が得意だ。でも別に肉弾戦が苦手なわけじゃない。恐ろしい姉にミッチリと仕込まれたからね、むしろ得意だ」
言いながら――素早く杖を突き出し、相手の手から剣を弾き飛ばした。
手を打たれ、顔を顰めた一瞬の隙に――懐に飛び込んだエストの一撃が喉に食い込んだ。
「ただ、魔法の方がより得意ってだけさ」
事切れた討ち手を見下ろし、魔法陣を描いた。
「〈悪食〉」
這うように黒い炎が広がり、強烈な腐敗臭が漂った。
「綺麗に消せるのはいいけど……やっぱり生モノの処理には向かないかな」
思わず口を覆い、顔を歪ませてボヤいた。
「面倒だけど……仕方がないね」
ローブで口を覆いながら、残りの二体を積み重ねて魔法陣を描いた。
「〈腐れ火〉」
死体から赤黒い炎が上がり、巻き上げられた衣服の切れ端がヒラヒラと宙を舞った。
首を回し、それを追った視界に――違うものが映った。
「――!!」
振り返ると、人が立っていた。
見慣れない白い面を付け、ジッとこちらを見ている。面に穴などはないが……その視線をハッキリと感じた。
「ガトー・フェイレンだな?」
その問に答えることなく、エストは素早く身構えた。
攻撃の為ではない。腹の奥から衝き上げる衝動――生存本能が、逃げろと告げていた。
魔法陣を描い――
「!?」
――たはずだった。
(この感覚……)
放出する魔力が逸らされるような……この感覚には覚えがある。
そして同時に、逃げろと叫ぶ本能の正しさを確信した。
「聞きたい事がある」
エストは素早く飛び退き、床に結晶スクロールを叩きつけた。
閃光と共に煙幕が発生……するはずだった。
「……なんで」
それらの魔法は発動せず……スクロールを覆う魔力結晶が砕け、封が解けたスクロールがだらしなく床を転げた。
次の瞬間――エストの体は一瞬にして氷柱に閉じ込められた。
体から、体温と共に魔力が吸い出され行くのを感じる……。
(間違いない……神殿の結界と同じ……)
当然だがここは神殿ではない。神殿の結界と全く同じ魔法を使う男……エストは駆け巡る走馬灯の中にこの男を探した。しかし……。
「お前は……何者なんだ……?」
喉の奥で……そう呟いた。
「デュライの小箱は何処だ?」
周囲の音は聞こえないのに、男の声はまるで耳元で話しているかのように聞こえた。
デュライの小箱……エストが魔術ギルドから奪った遺物だ。しかし、この男が魔術ギルドの人間とは思えなかった。
魔術ギルドは、長年に渡り各神殿が用いる魔導回路や結界をひっそりと研究している。しかし、まるで成果は上がっていない。事、結界についてはお手上げ状態だ。
そもそも、神殿の結界と全く同じ魔法を使う。そんな人物がギルドに所属していれば、どれほど隠そうとも何らかの噂ぐらいは耳にしているはずだ。
「……箱を手に入れて……どうする気だ……?」
その時、男に何か迷いのようなものを感じた。
「……」
「……お前はどうする気だったんだ?」
「焼き捨てる」
「何故だ?」
「お前には関係ない」そう言いかけて……エストは口をつぐんだ。
氷柱が溶け、エストは水に押し流されるように床を転げた。
「答えろ。何故だ? 貴様にとっては貴重な研究資料ではないのか?」
朦朧とする意識の中、ぼやけた視界に男を捉えた。
「……誰しも、人には知られたくない事の一つや……二つあるだろ。君は……それらが資料という名目で、不特定多数の目に晒されて平気かい?
……研究者としては……失格なのかもしれない。でも、この世界を守ってくれた彼らの……尊厳を守るのは僕らの役目だ」
そこで、エストの意識は途切れた――
目を開くと――紅く染まった空が見えた。横たわる雲が、空と夕陽を吸いその境界を曖昧にしている。
「……」
身を起すと、鋸壁の向こうに湖が見えた。湖面に弾かれた夕陽が、昼の眩さを取り戻している。
「お前に選択肢を与える」
少し離れた石落としに、男の姿があった。紅く染まった背を向け、手には面が握られていた。
「箱を渡し、今日この場の記憶を失い今まで通りの日常へ帰るか、俺の配下となり人々から英雄達の記憶を消し去るか、戦って死ぬか、選べ」
「英雄達の記憶を消す……?」
「英雄など存在しなかった。英雄譚は、ただの御伽話である。実在を証明する証拠や資料を消し去り、御伽話の英雄譚を広める」
「……命がけで彼らを追い求める僕に持ちかける話じゃないね」
「その代わり、求めるものをくれてやろう」
「……?」
「旧世界の文明とその終焉。お前達が二次と呼ぶ坑魔戦争は、少なくとも三次以上であること。何故、古の文献にダークエルフと鬼族が登場しないのか。神殿とは何か、龍神教とは何なのか……」
男はゆっくりとエストへ向き直った。
「俺は何と何のハーフなのか……」
浅黒い肌と、細く長いエルフの耳。微笑んだ口元から覗く、牙のように長く鋭い犬歯……。
「そんな……まさか……」
「俺が掲げたエンブレムを、何故冒険者ギルドが掲げているのか……」
それらの特徴が合致する人物を、エストは知っている。
ジーク・ヴァル二。坑魔戦争が英雄、戦神ジーク……。
「飛空艇は何処から湧いてきたのか、ダンジョンとは何なのか……。お前だけが、全てを知る事ができる」
「ぼ、僕は彼の専門家だ……ありえない。本当は何者なんだ? 何を企んでいる……?」
ふと、男は顔を崩し彼方の湖を指した。
「見てみろ」
歩み寄ったエストの眼前に巨大な氷柱が現れ、湖めがけて撃ち出された。
呆気に取られるエストの前に、今度は巨大なレンズが現れ湖を大きく映し出した。
やがて……湖に水柱が上がった。
次の瞬間――湖面が盛り上がり、巨大なゴーレムが立ち上がった。石の巨人というに相応しい、ずんぐりと粗々しい巨体……一歩踏み出す毎に、地を伝う微かな揺れを感じた。
それに呼応するように、焼けた森全体が蠢いた。石や土、焼けた木々を吸い寄せて次々と小型のゴーレムが立ち上がった。
「ここは三〇八階層。ニ五〇階層から続くセルの最深部だ。あれがこのセルのガーディアン。所謂、中ボスだ」
「三〇八階層……?」
「正規の攻略チームは六〇階で足踏み中だ。律儀に中ボスを倒しながら進んでいるようだが、ここまでのガーディアンは全て無視する事が可能だ。俺は無視する事を推める。厄介な仕掛けが動いてしまうからな」
「……」
「まあそれよりも……、これが何を再現しているのか、お前には分かるだろう?」
「ザシャ奪還戦……」
坑魔戦争の行方を決定づけ、そして――
「アイツは形を模しているだけだが、本物には苦労した。リリスが勝手に負けを認めて俺が勝ったが、あのまま戦いを続けていたら俺は勝てなかった」
ジークがリリスを下し、彼女を手に入れた戦い。
「……あの湖は……どうやって?」
「あのデカブツを潰すのに無理矢理地面を噴火させた」
「……神殿は?」
「連中にも神殿の結界は破れなかった。あの結界は、魔族の進行をも止めた。おかげで――」
彼は手を広げ、周囲をぐるりと見渡した。
「これだけの準備をする時間が稼げた」
一層目に比べ――建物は堅牢さを増し、バリスタはより大きな物へ置き換えられている。石落としの数も増え、間には火砲が設置されている。
「……」
「こんな事でいいのか? 俺がお前と同じレベルの資料を目にしていればいくらでも答えられる事だ。
……と言っても、他に証明する術はないがな」
男はコツコツとエストへ歩み寄り、ゆっくりと手を伸ばした。
「信じるか否かはお前次第だ。ここで死ぬか、俺の駒となるか、このチャンスを忘れるか……。さあ、選べ」
男の指が、額に触れた――
――先程まで見えていた夕陽はかき消え、立ち込めた雲の中を稲妻が駆けた。
雲は限界まで水を吸い、押し潰された大気が重くのしかかった。
(これは……一体何が……)
周囲を見回そうとするも、体はまるで言う事を聞かない。
景色は流れ、屋上を埋める完全武装した兵士達を映した。
振り返り、敬礼をする彼らの間をゆっくりと進んだ。
(これは……何だ? 幻覚を見せられているのか……?)
幻術をかけられたのかと思った。しかし……。
水中を歩いているような……重く張り詰めた緊迫感、突き刺さる視線、内から湧き出す緊張、昂り……。このリアルな感覚は、作られたものとは思えなかった。
ぐるりと見回すように流れた景色の中に、数種類の旗が見えた。
屋上に詰める兵達と、その下に待機する大群の中に翻る旗――
見慣れない旗に交じり、馴染みのある物が幾つか見えた。
ヴァルネ、エナン、キュスラ、ノーキス、ザシャ、ドワーフ王国、各エルフ族の紋章。
そして……冒険者ギルドのエンブレム。ジークが掲げたとされる紋章……。
その下に、二人の巨人族が見えた。間に立つのは――
(モーゼル・デュライ……)
そしてその周囲には様々な種族が集まっていた。
人族、エルフ、ダークエルフ、ドワーフ、獣族、獣人、鬼族……。
真っ直ぐにそこへ向い、不意に空を見上げた――
風と共に、槍を手にした天人族の女がフワリと舞い降りた。
(これは……ジークの記憶……?)
「リリスが進軍を始めました。号令を」
ぐるりと周囲を見渡し、刀を抜いた。
突くように彼方のゴーレムを指し、切っ先に現れた巨大な魔法陣がかき消え――現れたレンズに拡大されたゴーレムの姿が映った。
映る像は更に拡大され、頭に座る小さな人影を映した。
真っ白いのっぺらぼうの面を付け、過剰に装飾された服と、白く長い髪の毛に押し潰されるように座っている。
(リリス・オーデュ……?)
「今日こそ、ヤツの首を取りザシャを奪還する!」
鬨の声が上がり、更に言葉は続いた。
「ここで敗れれば後は無い! 皆ここで死ね!!」
刀が天を突き、勢いよく振り下ろされた。
「放て!!」
各バリスタが一斉に矢を放ち、火砲が火を噴いた――
フッと、景色が元に戻った。
「ガトー・フェイレン。答えを聞かせてもらおう」
引き戻される手を見送ると同時に――先程まで感じていた緊張と昂りが一気に体を駆け巡り、エストは崩れ落ちるように膝を突いた。視界は暗く小さく縮み、手を突いて倒れ込む体を支えた。
呼吸は乱れ、心臓は激しく脈打ち額から吹き出した汗がボタボタと床を打った。
しゃくり上げるように何度も嘔吐きながら、遠ざかる意識をなんとか繋ぎ止めようと試みた。しかし――
「……それどころではないか」
◆
――どの位経っただろうか。
目を覚ましたエストは、ゆっくりと身を起こした。
動き出していたガーディアン達は消え、ただただ美しい黄昏に戻っていた。
あの男は――相変わらず背を向け、彼方を見つめている。
「……」
一瞬、全て夢だったのではないかと思った。しかし……消耗した体が、それを打ち消した。自身の重量を、これ程意識したのは初めてだった。
エストは口を拭い、ヨロヨロと男へ歩み寄った。
「決まったか?」
「僕……。私を、あなた様の下僕としていただきたく存じます」
跪き、頭を垂れた。
「二言はないな?」
「その時は、この命をもって……」
「いいだろう」
そう言ってエストの頭に手を伸ばした。
(魔力が戻って……)
それだけではなく――消耗した体が、急速に回復するのを感じた。
「ここの医務室に脱出ポータルがある。後で箱を受け取りに行く、準備しておけ」
「はい! 直ちに――」
そして、興奮に任せて振る舞った結果……樽詰めにされたのである。
「……」
「どうした?」
何か尋ねたそうな気配を、彼は見逃さなかった。
「いえ、何という事でも……」
「何か痼を残したまま事を進め、それが元で失敗するような事態は避けたい。聞きたい事があれば何でも聞け。ただ、全てに答えるとは限らん」
額面通りに受け取ってよいものかと暫しの間思案したが……。恐る恐る、ずっと抱いていた疑問を口にした。
「あなた様のお力を持ってすれば、我々に任せるよりも素早く、確実に事を為せると思うのですが……。どうして我々を使おうと?」
「ようやく人々の記憶が薄れ、俺の存在が曖昧なものになったんだ。それを台無しにするリスクは極力避けたい。仮に何かに気が付く者が現れたとしても、この件をどれだけ掘り起こしても辿り着く先はお前だ」
「なるほど……」
「尤も、お前の忠誠が本物である限りだがな」
ふと、面の下で彼が笑ったような気がした。
「……それに、お前達に任せた方が面白そうだからだ。エロジジイの遺物は片けた。後はゆっくりと楽しみながら進める」
「……」
「どうした? この答えでは不満か?」
エストは跪き、頭を垂れた。
「私の忠誠が本物である証を、存分にご覧いただきたく存じます。ジーク様」
「名は呼ぶな。閣下と呼べ」
「ハッ、そのように。閣下」
「それで――何処までだったか……。モーゼルが男湯を覗いて発狂したあたりか?」
「……いえ、ヴァルネ独立の報を耳にしたと」
「ああ、そうだったな。その続きからでいいか?」
「はい――」
その頃――
ザシャ、エルフリード商会。
バインダーを手に、荷をチェックするエミリーの隣にローデックが立った。
「あ、お疲れ様です」
「言われた通り、神殿に預けてきやしたよ」
「ありがとうございます」
ローデックは積み上げられた荷を眺め、しみじみと溢した。
「しっかし……出入り禁止だった人が、神殿の流通網を使えるようになるなんて、いってぇどういう事なんですかね」
「色々と……複雑でして……」
と、エミリーは顔を伏せ、バインダーにペンを走らせた。
「そいや、結局あの樽詰めの時社長どうなってたんですかい?」
「えっ……と、そっちもちょっと……」
エミリーは更に顔を伏せ、申し訳無さそうに呟いた。
「……その……。ごめんなさい……」
「いえいえ、滅相もねえ。言えね事は、ただ言えねえと言っていただけりゃ、あっしらはそれで納得できやす」
ローデックはエミリーの前へ回り、跪くように身を屈めた。
「あっしら全員、社長が死ねと言や死ぬ覚悟はできておりやす。たとえどんな事になろうとも、あっしらは社長に付いて行くだけでさぁ。副社長が気に病むようなことは何もありやせん」
「……ありがとうございます」




