それぞれの 2/3
――射し込んだ月明かりが、床に横たわり煙を上らせる女と、その向かいに佇むエストの姿を照らした。
「やあ、一歩遅かったね」
エストは手にした杖で床を突き、先に取り付けられた金属の輪をシャンと鳴らした。
「……」
「ろくに確認もせずに飛び込んでくるなんて君らしくないね」
エストは杖を揺らし、ジャラジャラと鳴らしながら床に倒れた女に目を動かした。
「さしもの君も、これ以上仲間を失うのは耐えられなかったかな?」
「……」
「どうだろう? これ以上無駄な犠牲を増やすより、取引しないかい?」
男に声をかけながら、エストはジャラジャラと耳障りな音を鳴らし続けた。
「……」
室内は強烈に漂うエナの香に満たされ、獣族の持つ優れた嗅覚を惑わした。加えてジャラジャラと鳴る金属音が、聴覚を惑わす――
エストは先手から彼の鋭敏な耳と鼻を塞ぎにかかった。その理由は一つしか思い浮かばない。
(仲間は何処に潜んでいる……)
男は油断なくエストを注視しつつ、慎重に周囲の気配を探った。
「聞こなかったかい?」
「断る」
にべもない男の返答に、エストの目が鋭い光を帯びた。
「ふ~ん。取引を持ちかけるくせにこっちの話は聞かない……そういう一方的なのは嫌いだな」
エストは再び床を突き、シャンと杖を鳴らた。
暫くの間……睨み合う二人の間に、ジャラジャラと耳障りな金属音が流れた。
――やがて、男が口を開いた。
「デュライの小箱を渡せ。それさえ戻せば追跡は終りだ。お前の復職も検討するそうだ」
「復職ね……。まぁいいや、物はこの奥にある」
そう言って、エストは奥に見える資料室の扉を指した。
「取引に応じるのであれば渡してもいいよ」
「……言ってみろ」
「僕は死んだと報告してくれないかな?」
「……それだけか?」
「うん。ただ……」
「ただ……?」
「中身は無いんだ」
「なんだと……? 箱を開けたと言うのか?」
「まあ、開けたのは僕じゃないんだけどね」
「……」
デュライの小箱とは、抗魔戦争が英雄の一人、賢者モーゼルが残したとされる遺物の一つだ。
中には未知の言語で書かれた文書が収められており、長年魔術ギルドが解読に挑んできた。しかし、手違いで箱が閉じられてしまい、以来今日まで箱は閉じたままとなっている。
一見すると何の変哲もないだだの木箱だが、未知の魔法で封が施されており開ける事は叶わない。往々にして、このような封が施された物は間違った手順で開封を試みると、中身が失われるばかりか、開封者を攻撃するらかの仕掛けが仕込まれている。
箱が閉じて以来、今日まで施された封の解析が行われてきたが、未だ成果は上がっていない。
「中身がそんなに重要かい? 君は箱を取り戻せと命じられているんだろ?」
この時点で、男はエストの話を時間稼ぎと断じた。つまり――これ以上彼に時間を与えてはならない。
瞳に映るエストの姿は単なる標的へ変わり、地へ沈むように込めた力は瞬きよりも早く臨界に達した。
首に狙いを定め、床板を踏み砕くほどの力を解放した――その時、パッと杖を手放したエストが耳を塞いだ。
一瞬にして間合いを詰める彼の耳が、床を突き微かにシャンと鳴る杖の音を捉えた。
(今ので三度……)
宙へ浮き上がり自身を見下ろしているような……自分でも御せぬ意識の外で、そう呟いた。
鞘を脱いだ刀は鋭い弧を描き、吸い寄せられるようにエストの喉笛に迫った――
直後、耳を貫いた轟音が男の自由を奪った。
「――!?」
壁が震え、はぜるように幾つかの床板が宙を舞った。
制御を失った斬撃が空を切り、体ごと大きく脇へ逸れた。床へ傾いて行く視界が、剥がれた床板の隙間から階下に潜む大男の姿を捉えた。
(咆哮か――!?)
床を隔てて放たれた咆哮は本来の威力には遠く及ばない。だが今は……周囲を探ろうと澄ましていた鋭敏な聴覚が仇となった。
しかし、歯を鳴らし一瞬で咆哮を乗り切った男の胆力には感嘆する外ない。
空を切った刀を瞬時に逆手に持ち替え、着いた脚を軸にくるりと体を回して鎌の様に振り下ろした。
だが、彼のずば抜けた身体能力を知って待ち構えていたエストには、彼の動きが鈍った一瞬の間は十分すぎる時間だった。
杖を合わせて刀をいなし、片足を引いて流れるように繰り出された蹴りを鼻先で躱した。
エストと向き合う形となった男は回転を止め、回りかけた半身を戻す勢いそのままに、順手に握り変えた刀を横薙ぎに振るった――
その時――男はエストの立ち姿に違和感を覚えた。軸としている右足が、まるで床に打ち付けられているかのように動いていない。不自然に踵を浮かせ、ねじるように横を向いていた。
その理由が分かったのは、床に着いた踵が何かを踏み砕いた時だった。
(魔力結晶――)
スッと引かれた足の下に、活性化した魔法陣を捉えた。
(――スクロール!)
カルアも使用していた侵入者を捕らえる魔法〈警報〉。その元となった魔法〈微塵〉だ。
撃ち出された光球が回転する紐の様に姿を変え、男を絡め取ろうと迫った。
彼は攻撃の手を止め、大きく身を反らせた。直上を通過する〈微塵〉を、体を捻り追うように見送る――その最中、視界の隅に杖を振り上げ反撃に転じたエストの姿を捉えていた。
躱す為とはいえ、この状況で敵に背を向けるのは得策とはいえない。だが、視界に捉えていても行動を起こせなければ意味はない。反らせた体を戻すより、捻る方が早く体勢を立て直せる。加えてエストが視界から外れるのは秒にも満たない一瞬だ。彼の経験と本能が、考えるよりも早くそう断じ体を動かした。
捻る勢いをそのまま腕に伝え、回る視界に先んじて床を摺り上げるように刀を走らせた――
殺った。
直前に見た、杖を振り上げるエストの姿を脳裏に浮かべそう確信を持った。
床を蹴り取り残された半身を回して、再び視界にエストを捉えた――
「――!!」
男の斬撃はまたもエストの鼻先をすり抜けた。
杖を振り上げたエストは、そのまま一歩下がっていたのだ。
二人の間には……空を切った刀の残像と、魔法陣が浮かんでいた――
男と向かい合う形となったあの時、エストは背に魔法陣を描いていた。反撃へ転じた素振りを見せつつ――視界から外れたその瞬間にくるりと身を回しその後ろへ下がったのだ。
「〈拒絶〉!」
乾いた破裂音と共に、衝撃波が男を壁に叩き付けた。さしもの彼も、これを躱す術は持ち合わせていなかった。
しかし――、壁に亀裂が走るほどの衝撃を受けながらも、男の目は鋭い光を宿していた。
体が床へ落ちるよりも早く、壁を蹴りエストへ突きかかった――が、先程発動したはずの魔法陣が男の前に立ち塞がっていた。
「――!?」
「〈拒絶〉!」
再び壁へ叩きつけられ、堪らず呻きを漏らした男の手から刀が転げ落ちた。
「残念。二段構えなんだ」
描いていた魔法陣は一つではなかった。同じものをピタリと重ねていたのだ。
エストは間合いを詰めようとはせず、膝を突いた男の前に魔法陣を描いた。
「勝ったんだし、取引に応じてくれるよね?」
「どういう理屈だ……」
楽しげに微笑むエストを睨め付け、男は顔を歪めた。
と同時に奥の扉が開き、スーツケース程の箱を持ったローデックに続いてマドックが姿を現した。
ローデックは男の前に箱を置き「いずれにしても引き際ですぜ」そう囁き、マドックと共にエストの脇を固めるように立った。
「なんとか応じてくれないかな? さすがに僕も……幼馴染を手にかけるのは寝覚めが悪い」
「……」
魔法陣を隔てて身構えるローデックとマドックに視線を巡らせ……男は背に隠して抜きかけていた短刀を鞘に押し戻した。
「君はただそれを持って立ち去ればいい。後始末はしておくよ」
そう言って、床に倒れている女を見た。
男はゆっくりと立ち上がり、刀を鞘に収め箱を掴み上げた。そのままツカツカと歩き、倒れた女の前で立ち止まった。
「必要なら遺灰と遺品を送るよ。人が集まって来る前に早く立ち去って――」
最後まで聞かず、男はフンッと鼻を鳴らして女の腹を蹴り上げた。
「起きろ!!」
「!! ガッ、テメェ――」
女の声が途切れ、ビタビタと吐瀉物が床を叩く音が聞こえた。
腹を抱えて蹲った女のフードをはぐり、耳に詰め込まれていた魔導具と思しき物をもぎ取った。
「これで聞こえるだろう? アレを出せ」
「なんの、事だ……」
嘔吐きながら切れ切れに惚ける女を無視し、胸元に手を差し込んだ。
「んだ、テメェ……そんなに飢えてたのかよ。いいぜ、払う物さえ払えば思い出を残してやんよ」
回復してきた女が抵抗を始めると、男は手を引き抜き女の首に掛かっていた何かを引き千切った。
「お前もだ。まだ持っているんだろう?」
そう言って男はエストに向き直った。
「……」
「おい、返せよ」
男は、睨み付ける女の鼻先で紐を通した小さな金属板をぷらぷらと揺らした。
「証も無しに、お前らの死をどう報告すれば良いんだ?」
「……」
「……分かったよ」
エストは、渋々胸元から何かの紋章が刻まれたペンダントを取り出して投げた。
「出来れば君もこっちに来て欲しいんだけどな」
「図に乗るな。同郷の誼だ。次はない」
窓を飛び出した男はに闇に紛れ、瞬く間に姿を消した。
「幼馴染とは言ってくれないか……」
エストはポツリと呟き、口を拭う女に目を向けた。
「ところで……、一体何を食べたんだい? 酷い臭いだよ……」
「うるせ」
「それは自分で掃除して――」
という彼の声を無視し、女は口に残っていた何かをプッと吐き捨てて部屋を出た。
「……」
エストの視線を感じ、ローデックは慌てて向き直った。
「あっしですか!?」
「床板ごと捨てちゃって良いから」
そう言うと、エストは足早に部屋を出た。
咄嗟にマドックを振り返ると、既に姿はなかった。代わりに――階段に逃げ遅れたヘッジの姿を見つけた。
「ヘッジ!」
「兄貴……そりゃねぇですよ! あっしをパシリに使っても、そういうことだけはやらねぇお人だと、兄貴だけは違うと――」
ペラペラとローデックを持ち上げて抵抗するヘッジを睨め付け、ギリギリと歯を鳴らした。
(……クソッ)
「ヘッジ!! ……桶と水を持ってこい!」
「ヘ、へい!」
駆けて行くヘッジの背を見送り、ローデックは再び歯を鳴らした。
◆
翌朝、中央広場。
リンとアイクを待つルチルナの我慢が限界を迎えようとしていた。
「遅いわね……」
メイメイの肩に座り、頬杖を突いて小刻みに足を揺らした。
ノーキスへ向かうにあたり、色々と買い揃えなくてはならない物があり、今日は皆で見て回る予定だったのだが……約束の時間を過ぎてもリンとアイクが姿を見せない。
「やっぱり宿は揃えるべきかな……」
待ちくたびれたカルアがぼやいた。
その時、通りがかった荷馬車止まり、荷台からひょいとリンが飛び降りた。
御者に向けて硬貨を弾き、小走りに駆け寄ってきた。
「わりぃ、待たせた」
と言う彼にルチルナは目を吊り上げた。
「遅い!!」
しかし、心の何処かで遅くれている原因はリンにあるのだろう思っていた彼女は、アイクの姿が見えず勢いを挫かれた。
「……アイクは?」
「便所に入ったきり出て来ねぇんだ。先に回っててくれって。昨日の晩飯に当たったらしいぜ」
「大丈夫なの?」
「一応薬渡しといたから大丈夫だろ」
と、心配そうに尋ねるカルアとは対照的に、リンの様子はとてもあっさりとしていた。
「……なに食べたのよ?」
「さぁ? 俺は途中で帰ったから。何時もの事なんだよ、町を出る間際になってこれを食べてないあれを食い損ねたって。あちこち食い歩いてたみたいだぜ」
「変なところで抜けてるのね……」
ルチルナの呟きを背で受け、リンは小さくため息を溢して歩き出した。
「ま、後で様子見に行くから、とりあえず行こうぜ」
ノーキスまではおよそ十日。天候次第で前後するが、道は整備されており宿場も点在している。それほど気合いを入れて支度をする必要はないが、用心するに越した事はない。なにより護衛対象がいるのだ。万が一があってはならない。
先ずは、必須となる防寒具から見て回る事にした。
*
――すっぽりとローブに身を包んだロイは、ふと通りがかった店先に見慣れたゴーレムの姿を認めた。
(あれは……)
歩調を緩めて中を窺うと、ローレンスと問答をするルチルナの姿が見えた。
どうやら見た目へのこだわりを捨てきれぬルチルナと、機能性を説くローレンスが揉めているようだ。
奥の方には、やたら可愛らしい刺繍が施されたフリフリのコートを手に、何やら企み顔のリンとクスクスと笑うカルアの姿があった。
(そうか……ノーキスへ発つのだったな)
昇級試験の申請が出されていた事を思い出し、ロイは足を止めてぼんやりと彼らの様子を眺めた。
(早いものだな……)
自分の時は緑の試験までどのぐらいかかっただろうか?
遠い記憶を彼らに重ね、かつての自分をそこに求めた。
「……」
ロイは微かな笑みを浮かべ、フードを被り直してその場を離れた。
「――エスト・エルフリードは居るかな?」
商会の倉庫を訪れたロイは、扉の脇に座る半裸の男に尋ねた。
男は椅子に座ったまま、上下させていた鉄アレイを止めてロイを振り返った。
フサフサのアフロヘアー。日を弾き煌めく真っ黒いサングラスに金色のネックレス。
発達した筋肉が全身を覆い、こんがりと日に焼けた肌はオイルでも塗ったようにテラテラと光っていた。
「……」
「……」
「……」
「エスト・エルフリードは居るかな……?」
「……」
ふと、男は何かを思い出したようにピクリとアフロを揺らした。
「シャチョウ……。シャチョウ、ニカイ」
「……」
「……」
(入って良いのか……?)
そう尋ねるように肩を竦めて扉を指すロイへ、男はニカッと笑みを浮かべた――
「どうぞ」
社長室の扉をノックすると、中からエストの声が聞こえた。
部屋へ入ったロイは足を止め、後ろ手にゆっくりと扉を閉めた。
「これは一体どういう組み合わせだ?」
部屋の奥――正面の机に座るエストを鋭く見つめ、中央のソファーへ視線を滑らせた。
訝しげに尋ねるロイに、背もたれに両肘を乗せ、大きく股を開いて座る女がニヤリと笑みを浮かべた。
「へぇ、あたしを知ってんだ」
長年様々なタイプの冒険者を見てきた彼は、一目見ればそれがどういった種の人間であるかはおおよそ見当がつく。
「魔術ギルドの猟犬に、ムダに美人な暗殺者が居ると聞いた事がある」
「あん? なんだ、口説いてんのか?」
「ま、彼女は味方だから気にしないでよ。そうだな……取りあえずクロエとでも呼んでおいてよ」
エストは椅子を勧め「そんな事より……」と切り出した。
「とうとう引退したそうだね」
ロイはため息を溢し、フードを脱いだ。
「正式発表はまだだというのに……耳が早いな」
そう言うとソファーに腰を下ろして二人と向き合った。
「しかし……こんな所に孫を連れてくるわけにはいかんな」
「ああ、それなんだけど……もう少し先でも良いかな?」
「……どういう意味だ?」
「ちょっぴり刺激的な老後にしないかい?」
すると……ロイは鞄から取り出した書類をテーブルに放った。例の殺人に関する報告書だ。
「それはこういう意味でか?」
「ふ~ん。ダンジョンで殺ったんだ……」
書類に目を動かし、クロエが呟いた。
「これはお前の仕業なんだろう?」
ロイの鋭い視線に、エストはバツが悪そうに頬を掻いた。
「ちょっと急いでて……後片付けができなかったんだよ」
「間抜けな連中が殺られたってだけだろ」
と、クロエに至っては何故そんな事を気にするのかと言わんばかりの口振りだ。
「……これを御せるのか?」
「まあ、心配するほどじゃないよ」
二人を交互に見つめ、ロイは大きくため息をついた。
「報告が上がった以上、捜査を行わなくてはならない。当分は目立つ事をするなよ」
「暫く町を離れる事になるから、その心配は無いよ」
「そうか……」
書類を鞄に戻し、席を立ったロイは「そう言えば……」と足を止めた。
「ルチルナ・メイフィールドとカルア・モームがノーキスへ発つそうだ」
「そっか……」
呟いたエストは少し寂しげに微笑み、彼女達への賛辞を口にした。
「駆け上るって言葉がピッタリだね」
「そうだな」
微笑み返し、部屋を出るロイを呼び止めた。
「ねぇ」
「なんだ?」
「返事を聞かせてもらえるかな?」
「……」
「冒険者とは少し違う冒険をしないかい?」
「……」
ロイは無言で受け流し、部屋を出た。
「気が変わったら何時でもおいで」
扉越しにエストの声を聞き、深くフードを被った。
――階段を下りるロイの足音が聞こえなくなると、クロエが口を開いた。
「なぁ、一人逃がしたのか?」
「一人分しか後始末ができなかったんだよ」
「ふ~ん」
その時、扉が開きティーセットを持ったローデックが現れた。
「あれ……客人はもうお帰りで?」
「気が利くじゃねぇか」
ニヤリと微笑むクロエに舌打ちを漏らし、ティーセットをテーブルに運んだ。
「テメェのためじゃねぇってんだ……テメェの分は自分でやれよ」
ブツブツとぼやきながら茶を入れ、エストの元へ運んだ。
「ヘイヘイ」
彼女は自分の分を注ぎ、ポットの下に敷かれていた小さな円盤を手に取った。
魔法具の一種で、携帯型のコンロのような物だ。魔力を込めると熱を持ち、ポットのような小さい物で湯を沸かす際に用いられる事が多い。
「ちょっと借りるぜ」
返事を待たず、彼女は円盤をポケットにねじ込んだ。
「……そんな物どうすんだ?」
ローデックの声は聞こえていないのか、クロエは代わりに取り出したエナの実を噛りながらお茶を含んだ。
独特の芳香が、彼女を中心にふわりと漂った。
「あいつと一緒の時は鼻が狂うだのなんだの煩くてよ」
などと溢しながらガリガリと実を噛った。
ちょっとだけ……上手くやっていけるかもしれない。
お茶含むクロエを見つめ、ローデックは思った。しかし――
(生で食う奴は初めて見たな……)
――ギルドへ戻るロイは、行きがけにカルア一行を見かけた店の前で足を止めた。
既に彼女達の姿はなく、数名客が店内を物色していた。
「……」
再び、彼は自身が歩んだ時間を手繰り寄せた。
綿を踏むような足取りで、しかし力強く、ギルドの門を潜った。なかなか貯まらぬ実績に歯がみしながらギルドへ通った。胸を躍らせ、ダンジョンへの切符を取りに行った……。
先に待ち受けるものに抱くのは、不安や恐怖よりも好奇心や期待が勝った。先人の言を笑い、抗い、挑んだ。そこに疑問を持つ事もなかった。
己が進む道はそこにある。足元を見ずとも分かった。ただ前を見つめ、足を動かすことに何の躊躇もなかった。
何時からだろうか……ふと足元が気になったのは、背を振り返るようになったのは、道の先に不安を覚えたのは……。
ときめきよりも、安定を求めるようになったのは何時からだろうか……。妻が子を身籠った時か……子が産まれてからだっただろうか……。
先人の言に従うようになったのは、挑む事を止めたのは、ときめいた心に背を向けたのは、何時からだろうか……。
家庭を持ち、安定と安全を求めて一線を退いた。その選択に、今の人生に後悔は微塵もない。
だが……これから町を飛び立とうと、冒険者として大きく羽ばたこうとする彼らに自身を重ねた時、在りし日を思う彼の心に芽生えた想いは『羨望』だった。
『冒険者とは少し違う冒険をしないかい?』
「……」
空を仰ぎ……雑踏へと紛れて行くロイの背は、何処か寂しげに見えた。
◆
その夜、商会の倉庫にクロエの絶叫が響き渡った。
その声は、元資料室……いや、正確には元エミリーの寝室にも届いた。
机に座りペンを走らせていたエストは、一瞬顔を上げたが直ぐに戻してペンを走らせた。
再びクロエの絶叫が響き、向かいに置かれたソファーから男の声が飛んだ。
「行かなくて良いのか?」
「……そうですね。様子を見てきます」
エストが腰を上げると同時に、慌てた様子で扉をノックするエミリーの声が割り込んだ。
「先生! すぐ来て下さい!」
小さくため息を溢し、エストは肩を竦めてノートを閉じた。
「今日はここまでのようです――」
絶叫を聞き何事かと集まった面々は、倉庫の隅で行われる彼女の奇行に言葉を失った。
クロエは赤く焼けた短剣を己の右顔へ繰り返し押し当て、足下にはボロボロに焼き崩れた例の円盤が転がっていた。
「何やってんだ……!」
人垣を掻き分けて現れたローデックが、叱咤するように彼女へ歩み寄った。
皮膚が爛れ……捲れ上がった瞼から溢れ落ちそうな目玉をギョロリと動かし、クロエは短剣を取り上げようとするローデックへ切っ先を突き付けた。
「下がれ……。針と糸を持ってこい」
「なに考えてんだ……テメェ……」
「いいから持ってこい」
ローデック目配せを受け、駆け出したヘッジと入れ替わりに、人垣を掻き分けてエストが現れた。
「これであたしと分かる奴は減るだろ?」
言うが早いか、彼女は切っ先を咥え一息に振り抜いた――
左顔から血が飛び散り、再び絶叫が響き渡った。
切り裂かれた頬から覗く血塗れの歯を見つめ、さしものローデックも顔を歪めた。
「イカレてるぜ……」
「針と糸を――」
と、戻ってきたヘッジに至ってはそのままピタリと動きを止めて硬直してしまった。
エストも呆気に取られ言葉を失っていたが、すぐに気を取り直してヘッジへ声をかけた。
「止血薬と何かを傷を押さえる物を持ってきてもらえるかな?」
エストの声も耳に入らないのか……固まったままのヘッジの手からクロエは針と糸をもぎ取った。
「神殿には入れんのか?」
返事は無かったが、地面へ突き立てた短剣と睨め付ける彼女の瞳がそれを拒否している事は分かった。
ただの縫い針でブチブチと傷を縫う彼女を見つめ、ローデックは舌打ちを漏らして顔を顰めた。
「見てるこっちがどうかしちまいそうだ」
吐き捨てるように溢し、くるりと背を向けて集まった面々を追い散らした。
「見せ物はしめぇだ! 仕事に戻れ!」
――あらかた傷を縫い終えたクロエは口に溜まった血をビュルリと吐き捨て、硬直したままじっと彼女を見つめるヘッジへ目を向けた。
「なに見てんだ?」
「止血薬と何か傷を押さえる物を持ってきてもらえるかな?」
エストが固まったまま彼の肩に手を置くと、ヘッジはようやく我に返った。
「あ、は、はい――ヘイ!」
駆けて行くヘッジの背を見送り、顔を戻したエストは「代わりにそんな目立つ特徴を作ってどうするんだい」という言葉を飲み込み、呆れたように見つめた。
「まったく……無茶をするね」
同じ頃――
カルア、ルチルナ、ローレンスの三人はデールの酒場で少し豪華な夕食を囲んでいた。
「いよいよ行っちまうのか」
デールは寂しげだが声を弾ませた。
「後々戻ってくる事にはなりますよ」
「その時はご贔屓に頼むぜ」
デールに続き、顔馴染み達が立ち替わり彼女達との別れを惜しみ、テーブルに酒や料理を置いて行った。
リンとアイクも同席する予定だったのだが、体調が回復していないアイクが宿に残り、リンもそれに付き添って参加は見送った。
明日、彼女達はザシャを発つ。例の依頼は出発はこちらの都合に合わせるとなっていたが、かといって何日も待たせるわけにもいかない。準備に使う一日だけもらい、すぐに発つ事とした。
「まぁ、見てなさい。私と面識があることを自慢できる日がくるわよ」
立ち替わり訪れる者達に、ルチルナは得意気に言い放った。
ザシャへ来た頃の彼女を知る者達は苦笑いを浮かべつつも、その瞳には彼女へ寄せる期待の大きさが見て取れた。
襲撃騒動以降、彼女の評価は大きく変わった。無論、彼女自身も大きく変わった。本人はそれに気が付いていないのか認めたくないのか微妙なところだ。
カルアとローレンスは、ルチルナの荷物からチラリと覗く『ゴーレム理論(基礎編)』に目を動かし、顔を見合わせて微笑んだ。
「何よ?」
「私も本格的にゴーレムの事を教わらないとな~と思って」
「そこは、お嬢様にお任せあれ」
「フフン」と鼻を鳴らしたルチルナは、「何でも聞きなさい」とカルアへ向き直った。
「いいこと? ゴーレムは魔導具と似てるけど全くの別物よ。かといって魔法具とも違う。魔導具と魔法具の中間にあるものと言えるわね。魔導具や魔法具の知識は通用しないからそのつもりでいなさい」
入門編で仕入れた知識を得意げに披露しつつ、ルチルナは上機嫌に料理を頬張った。
とそこへ、意外な客が姿を見せた。
「これは……」
思わず腰を浮かしたローレンスを制し、ロイがテーブルへ歩み寄った。
「明日、発つと聞いてね。ささやかながら祝いをと思ってね」
そう言うと、ロイは手にした酒瓶をテーブルへ置いた。
瓶を見た酔っぱらい共は「おおぉ」っと声を漏らし、デールは思わず口笛を吹いた。
「太っ腹だな」
「今後とも活躍を期待しているよ」
「はい! ありがとうございます」
「このようなお気遣いまで頂き……、ご期待に添えるよう精進いたします」
「私が居るのよ、活躍しないわけないでしょ?」
「そうだな」と楽しげな笑みを浮かべ、一同を見渡したロイは「それでは失礼するよ」と踵を返した。
「もう帰るのか? 一杯ぐらいひっかけて行けよ」
「いや、私が居ては白けてしまうだろう。これで失礼するよ」
そのまま立ち去ろうとするロイへデールはひょいとグラスを投げ――慌てて受け止めたそこへ、ローレンスが先程の瓶を傾けた。
周囲の者達が各々のグラスを掲げ、ロイへ向き直り彼の言葉を待った――
ロイはきまりが悪そうに微笑み、グラスを高く掲げた。
「新たな門出に」
「ギルド長に」
一息にグラスを空けたロイは、はやし立てる酔っぱらい達に揉まれながら店を出た。
「それでは失礼するよ」
乱れた服を整え、通りを歩く彼の足取りは、いつになく軽かった。
――それから暫くの後。ロイの姿は小さな造船所にあった。
一人残って作業をしていた大工が彼に気が付き、出迎えようとするのを制して中へ入った。
「遅くにすまないね。順調かな?」
「ええ。おかげさまで」
歩み寄ったロイに、大工は造りかけの小舟指した。
「こいつが仕上がったら、次は旦那の船です」
「それなんだが……少し、後に回して貰えんかな?」
「はぁ……。それは構いませんが……」
「急がせておいて申し訳ない。ただ……あまり早いと桟橋に繋いだままになりそうでね」
じっとロイの顔を窺っていた大工は、何かを読み取りふと頬を緩めた。
「何か他にも良いご趣味を見つけたようで」
「まぁ、そんな所かな……」
2020/11/02微修正 2023/01/30微修正




