最後の願い
よき伴侶と巡り合うのはある種の奇跡なのですが…
長年連れ添った老夫婦。
八十もとうに越え、今では完全介護の施設で、二人仲良くベッド
を並べている。
ここは二人にあてられた、専用個室。
就寝時間も過ぎ、部屋にはオレンジ色の常夜灯だけが灯っている。
「ねえ、おじいさん、もう寝ちゃいました?」
天井を見上げながら、年老いた妻がボソッと言った。
「ん? いや、まだ起きてるよ…」
ごそごそという寝返りを打つ音と共に、やっぱり年老いた夫はこ
うつぶやく。
「考えてみれば、貴方と出会ってからもう随分長い年月が過ぎてし
まいました」
そう言う妻の言葉に
「ん? どうしたんだい? 今更?」
夫は思わずそう訊ねた。
「いえね、ちょっと昔の事を思い出してしまいました。ふふっ、貴
方にも内緒にしてきましたが」
妻は昔を懐かしむように
「私、貴方と初めて会った時、運命を感じたんです。この人だって。
でね、どうしても一緒になりたかったから…」
妻は途切れた言葉を、思い切って繋げた。
「私ね、悪魔と契約したんです」
「え? 悪魔? 何を言ってるんだい、お前?」
予想外の妻の言葉に夫は驚いた。
「黙って聞いてください。その時、悪魔と契約を交わしたんです。
三つの願いを叶える代わりに魂を奉げるって」
「ほう」
夫はその話に興味を持ったようだ。
「でね、一つ目の願いは、貴方と結婚できますように、でした」
「うん」
夫は妻の言葉に微笑みながら相槌をうち、更にこう訊ねた。
「その願いは叶ったわけだな。で? そのあとの二つは何をお願い
したのかな?」
「ええ、ふたつ目は、あなたと人生の最後まで一緒に居たい、とい
う事でした」
妻は恥ずかしそうにそう答えた。
「フフッ、それも今のところは叶っている、と言ってもいいかな」
夫も少し恥ずかしげにそう言った。
「はい。私の人生は満足のいくものでした。で、最後の願いをした
いと思うんです」
「ん? どうしてそれが今なんだい?」
夫は素直な気持ちを妻に向けた。
「はい。私、分るんです。もうすぐ私の寿命は尽きるって。だか
ら…」
妻の言葉に驚き、
「何を言ってるんだいお前。そんなこと…」
「いいえ。私には分るんです。で、その最後の三つ目のお願いなん
ですが…」
夫はベッドから立ち上がり、
「馬鹿なことを言うなよ。それにどうしてその願いを私に…」
妻は夫の唇に指を当てると言った。
「いいんですよ。もう。じゃ、最後の願いを言いますね」
「う、うん」
夫はただうなずいた。
「最後にキスしてください」
夫は妻の言葉にちょっと戸惑ったが、妻の言う通りにキスをした。
「ああ、これで私は満足です。あなた、ありがとう、悪魔さん…」
そう言うと妻は事切れた。
「おい! お前、しっかりしろ!」
妻のその顔は言葉通りに満足にあふれ、笑っているようにさえ見
える。
「ああ、なんというコトだ。私は悪魔で、妻の願いを見届ける為
に?…」
夫は暫く妻の死に顔を眺めながら、自分の事を思い返していた。
「そうだったな。三つ目の願いをなかなかしない彼女の為に、今日
まで…」
悪魔は夫の姿から元の姿に戻って言った。
「しかし、悪くはない人生だった。貴女も、そして今回の、夫とし
ての私の人生も…」
悪魔は悪魔らしくないそんな思いに、ちょっとだけ笑う。
そしてもう一度元妻にキスをすると、その女の魂を抱えて、夜の
世界に羽ばたいていった。
悪魔はあくまで悪魔である…大先生も言っておられました。