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僕は牛乳しか食べられない

作者: 紫 はなな

「何あれ、超絶にイタいんですけど」

「ブッチされたんじゃない? かわいそう~」


 カップルで犇めく夜桜商店街。

 駅前に立つ桜の木の真下で私はチーズをつまみに一杯やっていた。

 今宵は、満開の桜にイルミネイトされる夜桜まつり。

 田舎街なもんで、いつもはいない若者が集まるは集まるは。揃いも揃って憐れな視線を投げかけてくるが、当然だ。

 街一番に電飾煌めく、恋人の待ち合わせスポットで独り宴会する女がどこにいる。


「く────っ! 仕事終わりの一杯は最高だわっ!」


 いや、嘘ついた。

 四杯だ。

 いや、正確に言うと五杯目だ。

 数が悪いからと、ついさっき開栓したんだった。

 何杯温い地ビールを飲もうと体は温まらず、ガチガチと歯を震わせ腕時計の針を見据えた。



 うん、彼との約束の時間は当に過ぎている。それも二時間ほど。



「うぜぇ、マジ消えろよ」

「──ぁあ!?」


 捨て台詞を吐きラブホ街へ消えていくチャラ男目掛け、空のビール瓶を投げつけた。


「いって、ぇ、な、なにこれ……っ、ウマ──!」


 し、しまった。投げつける手を間違えた。

 左手の自家製チーズをチャラ男のお口に放り込んでしまった。

 最後の一個だったのにぃ。



「…………お望み通り、消えてやりますか」



 そろそろ端目に建つ派出所から警官が出てきそうで怖い。 

 グスリと冷えた鼻頭を擦り重い腰を上げた。

 よっこらしょ、と尻に敷いていた信号色のビニールシートを翻したその時だ。



 まるで手品みたいに、ビニールシートから少年がひょっこり現れた。

 例えるなら、白いハンカチから鳩。


「あ、あの……、ボク?」


 呆気にとられた私の顔が面白かったのか少年はニッコリと笑い、私が座っていた生け垣に腰を下ろした。

 透けるような栗色の髪で、女の子みたいな顔の可愛らしい少年だ。イングランドな金ボタンのトレンチコートを羽織り、ブリティッシュな装い。

 いや待て、どうみても10歳いくかいかないかの少年だ。時刻は22時、子供の独り歩きには危険すぎる。


「ボク、こんな夜に一人でどうしたの? お母さんとはぐれちゃったのかな」

「ううん、ここで人と待ち合わせ」


 高級そうな編み上げブーツをブラブラさせ、私を見上げる少年の顔は変わらずニコニコと笑っている。困ってはいない様だし、もしかしたら差し向かいのケーキ屋さんで、お母さんが並んでいるのかもしれない。

 そして少年は言う。

 悪意のない笑みを溢しながら。


「お姉さんも、待ち合わせ?」

「うん。でも寒いからもう帰ろうかなぁ──、なんて……」


 言いかけて、帰り道へ向けていた爪先を戻した。


 ──お、おいてけない。


 こんなに可愛らしい少年置いていけないよお姉さん。ほっといたらすーぐ誘拐されちゃう可愛いさだよ。


「お、お姉さんももう少し待ってみようかなー、あはは」


 はぁ、と小さな少年と肩を並べた。

 なに、保護者が現れるまでの時間潰しだ。どうせ今日は実家へ帰って寝るだけなんだから。

 ここは大人のお姉さんらしく気のきいた話でもしてやるかと思ったのだが、そんな余裕はちっとも与えられず少年から質問攻めに遭った。


「お姉さん、お名前は」

高畑千依子(たかはたちいこ)、26歳独身でッス!」 

「お姉さん、酔ってるの」

「うん、酔ってるよね。君との温度差すごいけど、酔ってるから気にしない」

「それに、疲れてる。クマがすごいよ。とても26歳には見えない」

「失礼ね。仕事が忙しかったのよ」


 今日までは。


「何のお仕事してるの」

「動物のお医者さん」

「獣医さんね」

「よく知ってるわね」

「26歳ってことはインターン上がりか。過労で病んで実家に逃げ帰ってきたってとこ?」

「よく知ってるわね!」

「僕はなんでも知ってるよ」


 おおかた少年の親か親戚が獣医なんだろうが、まったくその通りで御座いまして腐った血がカチンと頭に昇った。


「言ったわねぇ? じゃあお姉さんが待ってるのは、だーれだ!」


 生意気な小学生が。と、鼻を鳴らし瓶の縁に残ったビールの泡を舐めとる。

 残念ながらこの一本で品切だ。背中向けてるコンビニでガソリンを買い足さなければ、花冷えした身体でとどまってなどいられない。

 芯まで冷えきった体に炎を点したのは、酒ではなく少年だった。





「キセキ、でしょ」



 

 

 お腹のなかで火花がパチパチと散るように、その炎は燃え拡がり指の先まで暖めていく。

 そう、例えるならば焚き火の煙で目が染みたみたいに、私の目からは涙がポロポロとこぼれでた。

 そして少年は言う。


「ねぇ、よかったら聞かせてよ。お姉さんとキセキのお話を」


 この時の少年の笑みは生意気な小学生のものではなく──、まるで天使のような無垢な微笑みだった。


「……そうね。たいした話じゃないけど」


 どうやらそのたいしたことのない話のせいで、私の時は止まっているの。



 10年前──、高校一年生のまま、ずっと。

 


「その頃には私にも、この木の下で待ち合わせするような恋人がいたのよ」

「キセキ?」

「そう、鈴原輝石(すずはらきせき)。なんてことない同級生、いや美形。かなりのイケメン」

「そんなイケメンが、どうしてお姉さんなんかと」

「なんかって、何! なぁんてツッコまないよー、家族もクラスメイトもみーんな同じ反応だったからね。お姉さんなんかが彼を射止められたのは、彼にある特異体質があったからさ」

「とくいたいしつ……?」


「彼はね、牛乳しか食べられないの」



 彼との出逢いは、学校最北端に位置する旧校舎の非常階段。新学期早々、便所飯さえ許されず校内をふらふら彷徨っていた時だった。

 思えば初めて逢ったその日も彼はまるで装備品のように牛乳パックを口にくわえていた。


 透けるような栗色の髪。

 女の子みたいな色白の肌に、ぱさぱさの睫毛。

 面影を重ねてみると案外、少年に似てるかもしれない。


 彼も少年のように悪意のない笑みを溢してた。

 失礼な話だ。

 初対面の私は雑巾しぼったバケツの水でズブヌレだったのに。


 当時、私は湿気た学園生活を強いたげられていた。

 私が通っていた学園は中高一貫の私立学園。牛とお友だちの牧場娘が「獣医になりたい」なんて胸ときめかせて畜産部から進学部へなんて転入するから、そんなことになるのだ。やる気から回りというヤツだ。

 男子には「家畜臭い」、女子には「ストーカー女」と罵られた。

 進学部にいたイケメン幼馴染みを追いかけてきやがったと思い違いをされたのだ。幼馴染みのファンクラブには毎日のように虐められた。

 あの日も四時限が終わり、トイレの指定席によっこら座った途端バシャンだ。そんな家畜臭いならぬ雑巾臭い私に、キセキはあろうことかプロポーズしてきた。

 初対面なのに。



 ──チイコは僕の総てだ。結婚してください。



 はぁ? と首を傾げたくなるが理由は簡単だ。

 前記の通り、彼は牛乳しか食べられない。

 私が家畜臭いといわれる由縁でもあるのだが、うちの実家は牧場を営んでいて、天皇陛下が直々にお飲みにやってくるほど美味しい牛乳を作ってる。彼は一口目で涙を流した。

 チイコは僕の総て。

 そりゃそうだ。

 キセキの体の組織という組織が牛乳で造られていたのだから。


 彼が惚れたのは、私ではなく牛乳だった。



「そんな憐れな目で私をみるな、少年よ。これでもちゃんと恋は実ったのだ」

「そう?」


 傷付いたような表情で私を見上げていた少年はホッと安堵の溜め息を吐いた。



「キセキは私を愛してくれた」



 キセキは進学部でもトップを誇る秀才だった。

 図々しいことに私はプロポーズを保留にして、牛乳を提供する代わりに勉強をみてもらうようになった。

 教科書と牛乳を突き合わせ、二人で過ごす毎日。

 私が彼のもうひとつの特異体質を知るまで、そう時間はかからなかった。


「私とキセキにはね、共通の友達が三匹いたの」

「三匹?」

「チー、ビー、タンていう、黒猫がね」

「三匹も(・)いたんだ」


 チビタンは元々、畜産部で世話をしていた仔猫だ。進学部は畜産部から遠く離れた隣街だっていうのに、三匹は三匹とも私についてきてしまった。私にというか、牛乳飲みたさに。どいつもこいつも、まぁいいんだけど。

 最初に感じた違和感はチビタンと彼がやけに仲良しなところ。なついているというよりは、友達。授業のノートを書き写す私の隣でプールへ膝を揃え、音もなく同じに頷いたり、顔色を変えたりしていた。


 ──まるで、会話してるみたいに。


 それだけじゃない。

 私がチビタンだけに溢した愚痴という愚痴は総てキセキに筒抜けだった。

 朝一番に「牛が更衣室入る隙間はないってしめ出された」とチーに報告すると、昼休みには「チイコは太ってない。ちょっと骨太なだけだ」と慰められた。

 全然慰めになってなかったけど。

 体育の授業中、家畜臭いからと制服を焼却炉で燃やされた時なんか、直ぐに駆け付けてくれた。授業中なのに、キセキのいた教室からは凄く離れていたのに。

 彼はビー一匹を肩にのせ、凄い形相で走ってきた。

 さっきまで私のジャージの中にいたはずの、ビーを連れて。


 ──チイコは臭くなんかない。干し草のいい匂いがするよ。

 

 そう言って、みんなの前で抱きしめてくれたんだ。

 私はそんな優しい彼の胸のなかでハッと気付いてしまった。


 彼が牛乳しか食べられない、本当の理由を。


「次の日ね、助けにきてくれたお礼に、うちの牧場へ彼を案内したの」


 案の定、彼は首をふった。

 でも私は譲らなかった。

 酷く怯えた彼の手を握り、黙々と牧場中を歩き回った。

 最後にこう訪ねたんだ。


 ──うちの牧場のみんなは、幸せ?


 彼は小さく首肯した。

 そして、こう答えを返してくれた。

 

 ──みんなチイコが、大好きだよ。



 

「キセキはね、生きる総ての声が聴こえてしまうの」



 牛も、豚も、鶏も猫もネズミも虫も。耳をすませば公園に生える雑草も、花屋の切り花の声だって聴こえてしまう。

 キセキの能力は私の想像を遥かに超えていた。

 五歳の時に親友だった軍鶏が食卓に並び肉が食べれなくなり、七歳の時にフライパン上で運悪く孵化直前の有精卵を割り、卵が食べれなくなった。十歳の時には稲刈りに遭遇、米が食べれなくなった後には絶望し、ついに食べることを諦めたと、彼はカラカラ笑った。

 静かに、涙を流しながら。



 ──どう、気持ち悪いでしょ?


 

「そんな彼に私何て言ったと思う?」



 ──すっごく羨ましい!



「この時ね、うちの家畜が私のこと好きだって聞いて、すっかり有頂天になってたのよ。目を輝かせて、鼻息荒くキセキに抱きついたわ。最低でしょ?」

「そうかな。少なくとも、彼は救われたと思うよ」

「……そう?」

「そうだよ」


 少年に慰められたようで、思わずふと笑ってしまった。

 私はこの先、この発言を一生後悔して生きていくのだけれど。



 彼に再びプロポーズされたのは、その後直ぐだ。

 僕の能力を知って傍にいてくれるのはチイコだけだ。チイコなしでは生きていけないと、泣きつかれた。

 潔くプロポーズは保留にしたけれど、私達は彼氏彼女として付き合うことになった。


「お姉さんは、キセキが好きだったの?」

「うん。そりゃあ、大好きだったさ」


 学校一のイケメンだよ?

 唯一、私を牝として扱ってくれる男子だよ。


「それにね、キセキといると、世界がキラキラしてみえたの」


 ずっと曇り硝子だった視界が、窓を開けたみたいに透き通ってみえた。

 彼と過ごす日常は、毎日がかけがえのない宝物のようだった。


 残念ながら、少女漫画みたいなポエムはここまで。

 恋人同士になってしまった後は、私もキセキも枷が外れたみたいに互いを求めあった。

 田舎だし。

 勉強しかすることないし。

 キセキのお家はお父さんしかいなくて、そのお父さんは海外で活躍するお医者様で、つまりは家を空けることが多くて。

 やることは、ひとつしかないでしょ。

 放課後だけじゃない。

 昼休みになるとチビタンの目を盗んでは、場所を選んでシてた。

 キセキは顔と胃袋に似合わず肉食だったらしい。

 いわゆるロールキャベツ男子というやつだ。

 干物と化した今、私の妄想だったのではないかと自身の海馬を疑う。

 




「離れたく、なかったんだ」



 


 少年が放った唐突なその一言に、ドキリと心臓を跳ね上げた。

 君は本当になんでも知ってるのかね。回想中のお姉さん、そんないやらしい顔してた?

 深呼吸しながら振り返ってみればなんだ、私の話に同調してくれたのかというところで落ち着く。


「離れたくなかったよ。でも私達は引き離されてしまった」


 原因は私だ。

 キセキとの時間を優先しすぎて、勉強も牧場の手伝いも怠った。成績はがた落ち、毎日帰りが遅い私に見かねた両親は幼馴染みにその事を相談してしまった。

 そして幼馴染みの源汰は、私の異常に気付いてしまったのだ。


 妊娠?

 違う。もっと禍々しいもの。

 そう、私には──キセキの能力が伝染していた。


 怖かった。

 周りに誰もいないのに、声が聴こえるの。いつもいつもいつも。

 厩舎になんかは特に行けない。

 怖かった。キセキを信じていないわけじゃなかったけど、大切に育ててきた牛や豚にどう思われているのか、第一声に何を言われるのか、怖かった。

 この時に後悔したんだ。

 羨ましい、だって?

 私は何て無神経なことを彼に言ってしまったんだろう。

 牛乳しか食べられない。

 静寂なんて存在しない。

 こんなに、こんなに世界が怖いのに。


 私は牛乳しか食べられなくなった。


 十キロも痩せた。

 源汰に言われなくったって、ずっと傍にいたキセキはとっくに気付いてた。だからこそ離れたくなかったのに。


 ──チイコ、お前のせいで死ぬぞ。


 源汰のこの一言で、キセキは離れていってしまった。私に何も告げず、父親の滞在先へ留学してしまったのだ。

 私に残った能力はキセキと別れて一ヶ月で消えた。


 静寂と引き換えに、また澱んだ世界が始まったんだ。




「別れたのに、待ってるの?」

「約束したから。十年後、またここで逢おうって」


 十年前の夜桜まつり。

 私はその年、学年トップの成績で終業式を終えた。

 両親が私にくれたプレゼントは「キセキとの再会」だった。

 一日きりのデートだったけど。

 キセキは次の日にはまた戻らなくてはならなかったから。


 キセキが戻るのは海外ではなく病院のベッドだと知ったのは、それから一週間後のことだ。

 次に逢えた時にはもう、写真たてのなか。

 10年後? ふざけんな。

 できない約束をするんじゃないわよ。

 嘘つき。最低。

 ばっかみたい。

 牛乳しか食べないから早死にするんだ。

 余命一ヶ月あったのに、デートで無茶したせいで三週間縮まっちゃった。

 全部知ってて私達を逢わせた両親にもそりゃあ、恨んだ。

 やさぐれた、やさぐれた。



 平々凡々な私がこんなにもドラマチックで悲劇的な物語に遭遇したんだ、そりゃ時も止まるさ。



 知ってる?

 時が止まった世界はね、曇り硝子に黒いカーテン敷いたみたいに、灰色にみえるんだよ。




「ねぇ君、うちに泊まりにくる?」


 腕時計の針は午前0時を過ぎている。

 周りにカップルはいても、子供を探す親は見当たらない。

 このまま派出所の警官に引き渡してもいいが、お祭りに補導だなんて、一生のトラウマになってしまう。

 それに何だか──。



「くしゅんっ──、その言葉、ずっと待ってた!」



 実のところ飲んでいたのはノンアルコールのビールで、私は酔ってなんかいない。素面なのに。


 少年がキセキを呼んでくれる、本物の天使に見えたんだ。



 


            *





 車を走らせ20分。我が家の牧場は街一番の高台に位置し、厩舎の屋根裏からは港町が一望できる。

 冷蔵庫から本物のワインと牛乳だけ拝借して、二人だけのクリスマスパーティーを始めた。

 ひとっ風呂浴びてサッサと寝ろ?

 生憎、実家に帰るのは六年ぶりで、子連れで帰るには少々敷居が高すぎる。

 それに干し草のベッドはこたつよりずっと暖かい。


 最後のあの日もこうして干し草にくるまって、貪り合ったっけ。

 だから寿命縮まったんだよ。


「……キセキの、ばーか」

「おいし~いっ!」


 悪態付く私の隣で、少年は頬をゆるませホットミルクにかじりついた。


「ハチのお話し、本当だったんだ」

「ハチ?」

「うん、僕の友達。ここの牛乳は格別なんだって、教えてくれた」

「ふぅん」


 じゃあ、なにか。

 君は天使なんかじゃなく近所のガキか。急に良心が痛みだしたわ。

 さっさと住所言いな、送ってってやるから。


「いやだ。今日はチイコと一緒に寝るって決めたんだ」

「大人を呼び捨てするな。私は君の抱き枕なんかじゃない」

「確かに、寝心地よさそうだけど……」


 じぃ、と少年が清らかな眼差しで私の胸元を見据える。

 えぇ、ここの牛乳飲んで育ちましたから。でもこの歳になると宝のもち腐れといいますか、単なるお荷物です。


「さすがに僕まだ10歳だから、あの日みたいに襲いかかったりしないよ」

「私もショタは、お断り」

「じゃあ、あと5年待ってくれる?」

「15歳? うぅ~ん」


 思春期男子の精力についていけるかしら。

 あれ?

 ちょっと待って、その前に「あの日みたいに」って──。


 素面で10歳の少年にR指定の心の声をぶちまけるほど、私は頭の弱い女じゃない。

 目を擦り頭を振るが、少年は羨望の眼差しをこちらへ手向けたままだ。


「君……、名前は?」

「キセキ」


 少年ははっきりとそう言った。

 キセキがいつもそうしたように、上唇についた白いヒゲを器用になめとりながら。


 私の胸に点った炎はもう、汗ばむくらいに燃え盛っていた。


 キセキの生まれ変わり?

 それとも本当の天使?

 わからない。

 でも、涙がとまらない。


 横隔膜が圧迫されて息が苦しいほど涙腺が壊れているのに、私は必死に言葉を繋げた。



「……ずっと、言いたかったことがあるの」



 今日だって、お空に300回は唱えたんだから。



「十年前の今日、キセキに抱かれた後、また声が聴こえ始めたの」


 やっぱり性行為で伝染するのか、なんて納得しながらも、今度は嬉しかった。

 キセキが私の身体のなかに遺していってくれた。これこそ本当の奇跡みたいだ。

 消えてなくなるまで大切にしようと、その能力と初めて向き合った。

 渡り鳥の土産話を聞いたり、カエデの木の下生えに耳を傾けたりした。

 向き合ったことが原因なのか、本当にキセキが遺していってくれたのか未だにわからないけれど──。

 10年経った今でもほら。


『騒がしいと思ったら、チイコが帰ってたんだ』

『久しぶりじゃん。フケたな』

『屋根裏に小学生連れ込んでるよ』

『ついに犯罪に手を染めたか』



 ……失礼極まりない牛の声が聴こえる。



「辛くないの」

「ぜんっぜん」

「牛乳しか食べられないのに」

「それはちゃんと克服した。この職業は体が資本だからね」


 私はキセキみたいに幼少期のトラウマはないし、何せ女は強いのさ。毎日毎膳、大地の恵みに感謝していただきますしてますよ。


「でも獣医には、致命的な能力じゃないか」

 

 詰め寄る少年の頬に涙の雨を降らせながら、私は声を上げて笑った。

 そうやって、源汰もキセキを詰ったっけ。獣医は動物を治すだけの仕事じゃない。時には殺したり、解剖だってするのにって。


「それがまったく逆だったのよ」


 お医者様だって、同じ人間を解剖したりするじゃない。

 それにお医者様って、問診するでしょ。痛いところないですかー、って。

 私は動物相手にそれができるのよ。大学病院では瞬時に的確な判断をくだす、とんだ天才新人が現れたなんて言われてたわ。「痛いところないですかー」て訊いてただけなんだけど。

 人と同じように親身になれる。そして心から感謝される。私は真のお医者様になれたのよ。

 厩舎も同じ。

 子供の時から育てていた老牛のハナコが乳牛の役目を終えた日。ハナコは殺されにいくトラックを前にして、何て言ったと思う?


「今までありがとうって……、お父さんやお母さんにもそう伝えてって、そう言ったのよ」


 私、ハナコの死に立ち会えて、本当に嬉しかった。この力があって、本当によかったって思った。




「だからキセキには、凄く感謝してるの……! わたしキセキに出逢えて、本当によかった!」





 ああ、やっと言えた。

 長年の願いが約束の10年目で果たせるなんて、夢みたいだ。

 達成感からか、満身創痍に陥り疲れた身体を少年へ預けた。

 少年はそんな私を小さな身体で受け止め、気のぬけた嘆声をあげた。



「へぇー」



 へぇ?

 こんなにボロボロに泣いて、熱く語ったのにそれだけ?

 息を切らしながらの私の熱弁、伝わってない?


「その話は初めて聞いた」

「あっ、当たり前でしょ、君が死んだ後の話なんだから」


 そうだ。思い出の中だけでしか逢えないはずの人が、こうして目の前で笑ってる。

 キセキが逃げないように、ひき止めるようにギュッと抱きしめた。 

 私の胸に埋まり苦しそうに、されどもちっとも迷惑そうではない顔で少年は言う。 


「抱かれて伝染るんでしょ。安易に子供を抱き締めちゃ駄目だよ」

「えっ」


 ちょ、ちょっと待って、抱きしめただけでそりゃないよ。

 そりゃキセキに逢えたのは嬉しいけど、10歳の少年を襲うほど落ちぶれちゃいないわよ。


「べ、別に私、今すぐ抱かれたいとか、そういうわけじゃないから! 5年くらい待てる! 26歳の5年なんてすーぐだ、すぐ!」

「でももう抱かれてるじゃないか。ぎゅうー、て、ほら」


 自ら胸に埋まりながら、至極幸せそうに少年は言う。


「キ、キセキ? 私のいう抱かれたらは、男と女のアレだよ? 男性器を女性器に突っ込む生殖行為だよ?」

「だんせーき?」

「ほら、キセキにもついてるでしょ、ウインナーみたいな」


 少年は一度己の股間を見下ろし、「心外」みたいな顔でまた私を見上げた。


「キセキ……じゃ、ないの?」

「キセキだよ。吉瀬輝一(きせきいち)、小学四年生」

「キ、キイチ? え、だ、だって、あの日みたいにって」

「知ってるよ? 僕は何でも知ってるって言ったでしょ。ハチから聞いた話の中だけだけど」



 ──ヤッチマッタ!


 危うく少年を抱きしめたまま意識を暗転させてしまいそうになった。

 なんてこったぁ、とんだ勘違い。

 少年はキセキなんかじゃない。

 天使でもない。

 単なる近所のガキだった。

 私としたことが、雰囲気に流されて大暴走しちゃったよ。

 性教育前の少年に泣きながら突っ込むとかいっちゃったよ、これって性犯罪に匹敵するよ。


 現実に引き戻され、少年を胸から剥がそうとするが、今度はしがみついて離れない。


「セックスくらい知ってるよ、ハチから聞いた」

「まてまてまてまてぃ、この流れでその発言は非常にマズい、離れなさいっ」

「いやだ。チイコのおっぱい、気持ちいい」

「とんだクソガキだなっ、総てはハチの教育か! そもそもハチって何者なのっ」

「なんてことない、お爺さんだよ」

「とんだエロジジイだなっ」


 昔は黒かったらしいんだけど、今は真っ白なんだ。昔は「ビー」って呼ばれてたらしいよ?

 そんなことを呟きながら、少年は私の胸にしだれた涙をぺろりと舐めとった。

 

「ひゃ!? な、なにす──」

「しょっぱい。塩味なんて、何年ぶりだろう」



 そして、また無垢な笑みを溢しながら少年は言う。




「僕は牛乳しか食べられないんだ」




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