blood appetite
彼女の指に舌を這わせながら考えた。
どうしてこんなことをしているのだろうか、小さい頃はこんなこと無かったのに、と。
そんな事を考えつつも、俺は彼女の指を愛おしむように、慈しむように、甜め、啜り、舐り、咬む。
ありとあらゆる方法で口内にある彼女の指の温かさを、味を、存在を確かめた。
俺が彼女の指を銜えこんでから、幾許かの時が過ぎ、不意に彼女が口を開いた。
「ねぇ、氷雨。そろそろいいかな?もう我慢できなくなってきたのだけれど」
「……アトリ、最近我慢できる時間短くなってないか?」
「いいじゃない。私は氷雨との約束以上の量を渡しているんだから」
「それは、……その通りなんだが」
俺がもらっている量の割に、俺が奪われている量の方が多いんじゃないか、という疑問を呑み込む。
我慢の限界が近い彼女に何を言っても意味無いだろうし、寧ろ色々言って前みたく機嫌損ねて奪われる量が増えたりしたらかなわない。
それに我慢できなくなる原因の一つに、少なからず俺の行為が影響しているのは確かだしな、と自分の中で理由(言い訳)を考えて、銜え込んでいた指を解放し、いつも通り彼女との行為の準備をする。
「わぁ~、氷雨の唾液がべっとり付いてる~。クスクス、そんなに美味しかったの?」
「ッ!……少なくとも不味かったら、そんなことしねぇえよ」
「フフッ、そうかなぁ?……ペロッ……ん~、甘いね?なるほど、私の指が甘いから毎度毎度私が声を掛けるまで舐めてるのか、ふ~ん」
「ちょっと、待て。俺が舐めているのはそんな理由じゃないのは知ってるだろ」
「ぬ~、じゃあこの甘さは一体……はっ、分かった。氷雨の唾液の味か。だとしたら、何で人の唾液は甘くなるのかな?自分のは甘く感じないし」
純粋に興味があるんだろうけど、無邪気に俺の唾液が付いた指を女の子が舐めているっていう図がなんとういうか、な。
そもそも普段は人懐っこくて『こういうこと』とか男女の関係に疎いあのアトリがこんな風に扇情的に誘ってくる(本人の自覚なし)という状況が男の本能がくすぐられるというか。
そう、ムラムラくるんだよな。
ただ指に舌を這わすっていう行為それだけなのに、それだけのはずなのにどこか淫靡な感じがして、背徳的な行為を行っていることを自覚させられる。
それよりも、だ。
こいつはどうして他人(つまり俺)の唾液を本人(つまり俺)の目の前でどうしてそんなにも美味しいそうに舐められる!?
ムラムラとくる、確かにくる。
だがしかし、それを上回る恥ずかしさで悶え死ぬ。これ、なんて羞恥プレイですか?
「知らんっての。つーか、止めれ、舐めんな、拭き取れ」
「えぇー、やだぁ。折角なんだし、勿体無いよ」
「勿体無いって何だよっ!いいから、四の五の言わず拭き取れーーーーー」
そんな応酬の合間に、アトリは俺の唾液を舐めとり終え、クスクス笑いながら、今までと同じようにしゅるしゅると音をたて、早々に準備をしてしまう。
もうこれで何度目だろうか……まぁ、数えてないが。
しかしこの行為だけは何度繰り返しても馴れない。そして、決して馴れたくない。
そこに在るのは、決して愛なんかではない。
ただの契約。
ただの欲望。
お互いが利益のみを追求している関係。
相手のモノを賜り、自分のモノを捧げる。
そこに、俺の想いは存在しない。
そこに、彼女の気持ちは介在しない。
「氷雨。早く、たくさんたくさーん、頂戴、ね?」
ほんとに、一体どこで道を間違えたのだろうか。
* * *
俺こと小鳥原氷雨は、気が付いたら人間の血が好物になっていた。
いつの間にか人間の血を飲まなければ精神に異常をきたすようにまでなっていた。
確か、初めて血を飲んだのは、小学校低学年の頃だったと思う。
友人との喧嘩の最中に口の中を切ってできた傷から流れ出た血が口内に溜まり、それを無意識に飲み込んだ時だったはずだ。
最初は何か美味しいものを飲んだという風に認識し、恍惚とした。
この世にこんなに美味しい飲みのものがあったのか、と。
しかし、飲んでいたのが血だと気付いた瞬間、吐き気を催し、自分に対して、恐れ、慄き嫌悪した。
自分の拳に付いた血を、友人の流した血を体が渇望していた。
そして何より、友人を美味しそうと思ってしまった。
その間も、口の中に流れ出す血を飲み続けている事を不快に感じた。
そうして、俺の日常は変化した。
どんなに血を嫌悪し遠ざけても、血を飲まない日が数日続くだけで喉が異常なほどに渇き、自我を保つことが辛くなるくらいの飢餓感に襲われた。
どんなに心が強く血を拒絶しても、体が血を追い求めていた。
それでも最初の頃は別に血食欲も対して強くなく、日常生活を送るのにさしたる影響が無かった。
ただ、自我を保てなくならないよう血を飲むために定期的な自傷行為を行うだけだった。
それを行っていくうちに、麻薬に溺れていく中毒者のように、自傷行為を行う期間が徐々に短く、飲む量が徐々に多くなっていった。そのうちに、体が血以外のものを拒絶するようになった。
毎日が色褪せた。
今まで美味しく食べていたはずのものが、無味にしか感じられなくなった。
友人が怪我をして血を流すのを見て、欲しいと思うようになった。
血を見ると、どうしようもなく体が火照るのを感じた。
好きだった子を餌だと思うようにまでなってしまった。
そんな、もう手に負えない状況まで追い詰められたにも関わらず、まだ大丈夫だと信じていた。
まだ、大丈夫。
もうそれを盲信する以外に希望は、正気を保てる術は無かった。
初めから破綻しかけていた日々が決定的に壊れる出来事が起きた。
その日、改めて自分が人として欠陥品なのだと思い知らされた。
小学六年の時だった。
あの日、俺はアトリの血を飲んでしまった。
バスケで顔面を強打し、気絶したあいつを抱き抱え、保健室へと足を運ぶ最中だった。
彼女の頬にできていた擦過傷から血が垂れていた。
衝動的に彼女の頬から流れ出した血を啜っていた。
時間も忘れて血を飲み続けた。
彼女の起きるという最悪の可能性すら頭に浮かばなかった。
抗い難い欲求に、本能に、ただただ、従った。
「氷雨、くん……?」
彼女の俺を呼ぶ声に、現実へと引き戻された。
自分が彼女にしていたことに愕然とした。
「あの、その、えっと、これは」
言葉が出なかった。
なんと言えばいいのか分からなかった。
どうすればいいのか分からなかった。
「こんな所で授業中に立ち話もなんだし、とりあえず保健室に連れて行ってくれない?」
彼女の俺に対する態度は呆気ないものだった。
気絶している間に頬を舐められることなど、たいした事ではないといった風にあっけらかんとした態度だった。
それに俺は何も言わず(言えず)保健室へと連れて行った。
「失礼します」
「あら、小鳥原くん、また貧血で倒れたの?」
養護教諭の先生が机に向かったまま何かを書きながらおざなりな応対をした。
この頃の俺は二日に一度くらいの頻度で血を飲んでいたせいで貧血で倒れることが多々あった。
「いや、……アト……東雲さんが怪我をしたので連れてきました」
「そう、お大事に。私はこれから用事があって出掛けてくる、いえ、早退するので怪我の手当てとかやって適当に職員室にいる先生に言付けしといてね」
それだけ言うと、どこかへと消えてしまった。
給料、いや税金泥棒がっ。
そんなこんなで、ぐーたら保健医が帰ってしまったので、部屋を沈黙が満たした。
ただ、時計の動く音だけが響いた。
そうして何分が過ぎただろうか、彼女は口を開いた。
「ねぇ、氷雨くんはどうして私の頬を舐めていたの?」
分かっていることを確認するかのように詰問口調で聞いてきた。
「…………血を、……アトリの血を、飲むために」
嘘は、言えなかった。
たとえそれで嫌われたとしても、好きな女の子をこれ以上欺くことは出来なかった。
アトリは静かに、落ち着いた様子で聞いてきた。
「どうして、氷雨くんは血なんかを飲むの」と。
「俺は―――」
俺が血を飲むようになった時のこと。
きっかけや期間。
どういう気持ちで飲んでいるのか、等々。
答えられる限りの事を全て答えた。
嫌われるなら、怖がられるなら、徹底的に拒絶されたかった。
その方が、諦めがつくと思った。
だと、言うのに
「辛かったね」
そう、泣きそうになりながらそんな事を言うから―――
「私もね、似たような状況だから。だから、どれだけ辛いのかわかるよ」
え?
「氷雨くんが話してくれたんだし、私も話すね。氷雨くん私はね、体液が、氷雨くんの体液がどうしても欲しくなるんだ。他の人のなんか欲しくない。他の人のなんか欲しくない。他の人のなんかじゃこの渇きは、疼きは、癒えない。大好きな氷雨くんのだから、欲しいんだ」
え、それって、俺のことが異性として好きって事か?もしかして、俺たち両想い?
「なぁ、アトリ、俺たち―――」
「ねぇ、氷雨くん」
俺にこれ以上何かを言わせないように。
俺の言葉の先を恐れるかのように。
彼女は、俺の言葉を遮るかのように言葉を紡いだ。
「私たち、契約しない?」
* * *
『私たち、契約しない?』
あの時、あの言葉に俺が頷いたあの瞬間に、俺たちの恋は始まることも無く、終わった。
そして、俺たちの歪な関係が始まった。
あれから五年。
傍から見たら直ぐに破綻しそうな関係は未だに続いていた。
「もう、疲れたな、この関係。俺は、ただ普通にアトリと付き合いたかっただけなのにな。デートして、手をつないで、キスをして、たまには喧嘩もしたりして、そんな普通な関係でいたかっただけなのに。……もう、どうしようもないのかな、ねぇアトリ?」
隣で疲れて眠っている彼女の髪を手で梳いた。
「……?氷雨?おはよ」
「うん、おはよ」
あぁ、これだ、この笑顔だ。
満足そうな、幸せそうな顔を見ていると、もう何も言えなくなる。
この笑顔を隣で見続けられるのなら、それでもいいかなとすら思う。
「―――でね。もう、この関係を終わりにしようかな、って考えているの。って、聞いてるの、氷雨?」
目の前が真っ暗になった。
『もう、この関係を終わりにしようかな、って考えているの』彼女が何かを話している。なのに、さっきの言葉が頭の中でリフレインして、何を言っているのか理解が出来ない。
『この関係を終わりにしようかな、って考えているの』彼女は何を一生懸命伝えようとしているのだろう。今の俺には君の声が届かないっていうのに。
『この関係を終わりにしようかな』彼女が伝えようとしているのは、俺と別れるための、俺から離れるための、言い訳?そんなの聞きたくない、そんなもの聞こえなくていい。
何で。
どうして。
嘘だ。
嫌だ。
この関係を終わりにする?
そんな事できるわけない。そんな事はしたくない。
どうしていまさら、どうしていまさらそんな事言い出すんだよ、アトリ。
君は、どうしてこの関係を終わりにだなんて言える。
アトリ、君は、君は俺の、君が大好きな俺のモノだから欲しいと言ったんじゃないか。
大好き、な?
そうか、アトリは僕以外の男のことを好きになったのか。
ふざけるな。
僕は、俺は、ただ君の為にこの身を、この人生を捧げていたんじゃないか。
くそ、憎い。
アトリに想われている野郎が。
僕を見捨ててまで他の野郎の元へ行こうとしている君が。
どうしてこの俺が捨てられなければならない。
女心と秋の空なんて言うもんな。
ハハ、だったら、アトリ、君が俺の知らない誰かのところへと走っていってしまう前に、僕は君の全てを俺のモノにする、そうすればいいんじゃないか。
そうさ、
彼女がどこかに駆けていこうとするならその足を砕いてやればいい。
彼女がどこかへ羽翔いていこうとするならば、その翼を捥いでやればいい。
彼女が誰かに助けを求めるのならば、その喉を潰してしまえばいい。
彼女の心が僕の元から離れてしまうのならば、軀の自由を奪ってでも、無理矢理彼女の全てを俺だけのものにしてしまえばいい。
「―――ちょっと、氷雨。私の話ちゃんと聞いてる?」
「ごめん、考え事してた」
黙れ、雌狐。
男なら見境無く尻尾を振っている雌狐の分際で僕に話しかけるな。
僕の名前を軽々しく呼ぶな。
アトリ、君を解放してあげる。
もう、そんな風に振舞わなくてもいいように僕が解放してあげる。
そうすれば君はきっと僕の方を見てくれるよね?
「もう、きちんと聞いててよね。だからね、今更なんだけど、私たち―――」
あぁ聞いたさ。
『今の』君の気持ちは。
だから、これ以上聞く必要なんかない。
僕と君との関係が終わるのだろう?
君の一方的な事情によって。
だったら俺は、君を僕だけのモノにするために君を壊ス。
この関係が終わる前に、終わらされる前に、君と僕が赤の他人になってしまう前に。
アトリ、俺は君を永遠に僕だけのモノにする為に、だから―――
「サヨナラ」
君は、俺の腕の中にいればいい。
ずーっと、ずーっと。
「えっ?なに、氷雨?」
グシュ
「痛っ。……アレ、血足りなかった?言ってくれればあげたのに。こんな強引な手段をとらなくても。ほら、無駄に血を流させないで。飲むならきちんと飲みなさい」
君から貰う最後の血だからね、たっぷり飲ませてもらうよ。
「アハハ、ちょっと血を流しすぎちゃったみたい。ごめんね、少し……寝るね。大丈夫、私はあなたの元からいなくなったりしない。あなたの隣が私の居場所だから。だからね、そんな泣きそうな顔しないで。そんな顔見てると、彼女さんはとっても心配なんだよ」
彼女?
何を言って……もしかして、俺は勘違いを?
取り返しの付かないことをしたんじゃ……俺は、俺は、俺は、
「うわぁぁああアアあぁぁあァァぁぁあァあァあぁぁぁぁ」
俺はその日、最愛の人の人生を狂わせた。
中途半端な終わり方で申し訳ないです
いづれ、これの後日談(?)となる作品をあげたいと思います
気長に待っていただけると嬉しいです