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「はりと、いと――?」
創平が思わず口にしたその一言は、幸乃に一体どういう意味で理解されたのかは皆目見当がつかない。ただ、彼女はその端正とも言える表情をより引き締め、強い語調で言葉を吐き出すのである。忌々しさが時折垣間見える、凛とした声が彼らの脳を叩く。
「ええ。これが唯一、この家に置いてはいけない作品なのです」
何故、と尋ねると、彼女の白く長い指が硝子の箱を撫ぜ、するりと滑り落ちてゆく。口調とは裏腹な、愛おしさを含んだ触り方。だから創平はおや、と思ったのだ。
どちらかが、彼女の本心ではない。それを見極めるには、まだ時間がかかる。だから創平は、横でにやついている円を完全に無視して彼女に質問を投げかけたのだ。
伏し目がちだった幸乃が、ゆっくりと口を開く。そして囁くような口調で。
「何故って、」
風の音。木の葉が叩きつけられる。
翻る。そして、落ちる。
「それは私のためのものではないから」
一瞬垣間見えた彼女の表情。妖艶とも取れる含み笑い。その表情が、なんとも美しい。喪に服する女は綺麗だというが、それは本当なのだなあ、と創平は頭の片隅で考えている。否、語法としてはおそらく間違っているのだろうが、彼女の今の美しさは間違いなく、為人氏の逝去が生み出したものだ。どうでもいいことを真面目な会話をしている時に考えてしまう、これが創平のよくない癖だった。
彼女は続ける。
「私が正妻から為人を奪った、ということはご存じ?」
確かに、為人氏は一度同年の女性と結婚していた。この幸乃は二番目の妻で、為人より一回りも年下である。あまりの歳の差に、とある週刊誌では『愛人が本妻から寝とったのではないか』とまことしやかに噂されていた。噂はあくまで噂だ。創平はまさか、と首を振る。
「冗談でしょう? それはこちらの勝手な憶測で」
「あら。嘘か本当かなんて、第三者からでは判別できないでしょう?」
幸乃は微笑む。「ああ見えて、為人は女にだらしがないところがあったから――私が言えることではありませんが、ね」
「もし仮にそうだとして。それとこれとは話が別でしょう」
「いいえ。……この本が持つ最大の不幸は、これが『為人が前妻のために書いた本』、ということですから」
ぴくりと創平の肩が震える。その真意は言われなくともしっかりと理解できた。彼女の言わんとすることは、ただひとつだ。
「遺言、ですか」
幸乃は、ゆっくりと首を縦に動かした。
「『これは本邸に置いてはならない。幸乃に見せてもいけない。速やかに相応の手段で処分すること』」
それがこの本に対する遺言です、と彼女は言い、そして目を伏せた。あとは創平に判断を委ねるつもりでいるようだ。
当の創平はしばらく黙りこみ、坦々と思考を巡らせていた。彼独特の黒い眼差しが、じっと硝子の箱を見つめている。漆のような茶がかった光を、くまなく舐め尽くすかのように。時折戸を叩きつける木の葉の音が微かにこの部屋の空気までも揺らしている。完璧な沈黙ではないことに、少なからず創平は感謝していた。
「――分かりました。審査しましょう」
創平の判断は、「可」だったらしい。だが、本の所蔵に対する彼の権限というのは微々たるもの。最終判断は全て円が下す。彼が「可」と言えばその通りに。「否」と言えば、彼女には諦めてもらうしかない。これが『彼岸堂』における最大の決まりごとだ。後にも先にも、これに逆らう者は誰ひとりいないはずだ。勿論、創平も然り。
幸乃に審査は非公開である旨を告げ、退室してもらった。十五分経ったならば再び戻ってくるように告げると、心なしか彼女の表情は初めて会った時よりも曇って見えた。
そりゃあ、怪しいか。
襖が完全に閉まったのを確認してから、創平は己の横でひたすらぐうたらしていた主に声をかける。今も円は、人前とは思えないほど緩んだ態度でそこにいた。寝そべっていない分ましだが、これにはほとほと困ったものだ。呆れを通り越して逆に感心してしまう。
「円」
「……ああ。話を聞く限りでは悪くなさそうだ。だが」
円が硝子の箱に軽く触れ、ふっと息を吐き出す。「この箱が“俺の目の前で”開かない以上、どんなに質が良かろうが中身を確認できないなら『否』とするしかねえよ」
つまりは却下であると言いたいらしい。これには創平が珍しく食い下がった。
「仕方ないだろ。俺は詞喰鬼だ。判断できるのは言霊であって、箱じゃない。どんなに小奇麗な箱を出されても、その価値は量りかねる。言葉じゃないからな」
彼の言うことはもっともである。それを理解できるからこそ、創平は納得がいかない。彼が中身を確認しないままに判断を下そうとしているのが許せないらしい。
「開ければ審査してくれるんだな」
「そういうこと。どうやらあのお嬢さんは、この箱を開けられないみたいだったからな。ったく、硝子の匣だなんて、どうしてそんなものに本を詰め込んだんだか」
創平がきょとんとしてしまったので、見兼ねた円が口を開く。
「自分で開けられるなら、とっくに開けてるだろ。あんなに前妻とやらに敵意むき出しなんだからさ」
そうか、と創平は頷いた。それもそうだ。
そっと箱を持ち上げると、くるくると回し六面全てを観察する。鍵穴らしいものは一切、ない。完璧な六面体だ。
「『玻璃と、意図』――か」
そして、じっと口を閉ざしてしまった。箱を見つめたまま、人形のように固まっている。円がおや、と思う。彼の中で何かがしこりになっているらしい。創平の表情は今にも、「確かあの棚にこういう内容の本があってだな」と蘊蓄を話し出しそうなほどに神妙な顔つきになっている。これは本気で開ける気だ。
そんなに馬鹿正直にならなくても。円は内心苦笑している。別に円は考えることを放棄した訳ではないのだ。
「『針と糸』、じゃないんだ」
「うん? どういう意味だ」
「針と糸なら納得するのに、と思って。さっきも言ったけど、為人氏はミステリの第一人者だ。だからトリックの一環として、針と糸なら分かりやすいのになぁ、って。一般的なミステリの手法として、針と糸のトリックはメジャーだからさ。メジャーすぎて、これを使うのはミステリとして非常によろしくない、とされているくらいだ」
つまり創平は掛け言葉にしている意味があるのだろうか、と考えた訳だ。ミステリは専門外、と円は呟く。いい加減その返事にも慣れてしまった創平も、「食わず嫌いはよくない」と口にしたきり、特段これといった態度をとらなかった。
「で? その針と糸っていうのは、どんなの?」
「密室トリックだよ。例えば、窓枠のどこかに糸を括りつけておいて、外に出てから糸を引く。すると勝手に戸が閉まり、密室ができるだろ。針はその糸を括りつけるのに使う」
「でもそれは、密室ではない」
「そう。だから、このトリックを使った時点で完全密室は成立しなくなる」
創平は箱の枠に触れ、指先でそっとなぞる。まるでひとつの部屋のようだ。硝子の光沢に美化された「不幸」が、不完全の中で今も息を潜めている。己の行動を封じ、あたかも初めから「不幸」がその場にいたかのような。針と糸で密室を作った為人氏の真意は。
「彼が敢えて『不完全』にした理由はなんだろう」
創平はじっと考えている。彼のいいところは、やたらに騒ぎ立てずにじっと考え抜く力があること。悪いところは、その間周りを考えずに黙りこんでしまう、割とマイペースな面があるということだ。
こうなったらもう止められないということを円はとてもよく知っている。だから敢えて何も言わず、無造作に畳の上に寝転がったのだった。
さて、創平の頭の中では、ただひとつ、どうしても気にかかることがあった。
先程幸乃が言った、この一言である。
『これは本邸に置いてはならない。幸乃に見せてもいけない。速やかに相応の手段で処分すること』
この言い分からすると、彼女が言うところの「為人が前妻のために書いた本」の定義には当てはまらない。単に、人目につかぬよう処分するよう命じているだけなのだ。おそらく、自分に見せられないもの――すなわち前妻に関わるもの、と彼女は考えたのだろうが、それはあまりに極端だ。きっと、そう思わざるを得ない理由があるのだ。
私が正妻から為人を奪った、ということはご存じ?
彼女の一言が警鐘のように響き渡る。これがしこりの原因なのだ。何度も何度も繰り返し流れる声は、ある瞬間ぴたりと止まる。
「――円」
脳内の沈黙に耐えきれず、創平が口を開いた。
「おれは憶測でものを話すのが嫌いだ。でも今、とんでもないことを想像してしまった。確率は決して低い訳ではないだろう、と思う」
円は起き上がり、大欠伸をかましながら言う。
「それで?」
「『玻璃と意図』に隠されたものは、“永遠に”密室でなければいけない。そうでなければ、価値がなくなる」
創平は硝子の箱を両手で持ち上げた。そして、そっと蓋を撫で上げる。その箱を心からいとおしむように、指先からこぼれ落ちるのは優しさだ。
その様子から、円は全てを察したらしい。赤褐色の瞳を細め、うつむく創平の髪に触れた。それは子供をあやす仕草にも似ていた。
「創平。心を痛めるな。“味”に支障が出るだろう」
「わかってる」
でも、と彼は首を動かし、円の手を払いのける。「でも、そんなこと、あってもいいのか」
「有りか無ししか答えがないなら、間違いなく有りだ」
円は言う。「お前さあ、その箱を開ける方法、最初から気付いていたんだろ?」
あからさまに創平の目に動揺の色が浮かんだ。本当に、彼は嘘のつけない性質だ。
「なら、どうしてさっさと開けなかった」
「……幸乃さんが『私のためのものではない』と言ったとき、為人氏の死因が自殺だと思い出した。だから、下手に幸乃さんの前で開けるのは危険だと思った。だって、」
「もういい」
円の独特の光彩を放つ瞳が、立ち止まろうとする創平の背中を押そうとする。考えることを止めてはならない。これは義務だ。創平が詞喰鬼と関わりを持った以上、そして、この本と関わりを持った以上。最後まで見届けなくてはならない。
だが、と円は思う。
この男はどこまでも優しいから。まるで、あのひとのように。
「もう開けられるだろ。帷子創平」
問うと、創平はこくりと頷いた。それでいい。
「その本の持つ『不幸』、俺が全部喰ってやる」
創平は、おもむろに箱の側面に力を加えた。かと思うと、箱の側面がぱこんと音を立ててずれたではないか。そう、この箱の仕掛けは、思いの外簡単だったのだった。ある一定の順序で側面をずらしていけば、蓋が開く。よくある仕掛け細工の一種だったのである。
その蓋を開けると、中にはなにやら紙束のようなものが入っている。彼女の言う通り、本当にこの箱は装丁の一部だったのだ。
「――いくよ。『詞喰鬼』」
刹那、創平の声に呼応するかのように、硝子の箱は青色を帯びた強い閃光を放つ。




