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「芦田財団が?」
創平は円に突きつけられた手紙を受け取ると、裏表を返しながらその宛名を確認する。確かに、使用されている封筒には芦田財団のエンブレムが入っているし、シーリングも今時非常に珍しい赤の蝋留によるものだ。この習慣は「彼岸堂」の創設者である芦田團十郎から続くもので、今も芦田財団の幹部を中心としてそれを保守する傾向にある。
今回も決して例外ではない。正式な形で送付されたということは、それなりの事情があるということだ。多少げんなりとしつつ、創平は自分が仕事用に使っているデスクの上から鋏を探りだした。
「まあ、怪しいものじゃないといいけれど」
「あいつらが怪しくない手紙を書いてきたことがあったか? いいや、ないね。そもそも芦田のじいさんからして、怪しさ満載だったじゃねえか」
「円。あいにくだけれど、おれ、芦田氏のことは分からないよ。大体にして、芦田氏の現役時代にはまだ生まれてもいないよ……ああでも、怪しい手紙云々は大いに賛成する」
さて、そんな雑談を繰り広げながら封筒の上部を鋏で切り取った。鋏はいつものように、元の場所に戻しておく。創平は、こういうところでは非常に几帳面なのである。
開封された封筒の中には財団で書いたものらしい便箋が一枚と、何故かもう一通茶封筒が入っている。まず先に、と三つ折りにされた便箋を開き、数秒後創平は大きくため息をついた。
「どうした」
「いや、出張のお達しだ」
正しくは、出張買取だろうか。「円、お前はどうする? 別に遠くに行く訳じゃないから、一日で戻るけど」
円はううん、と唸り声を上げながら、一体どうするべきかと悩んでいる。一日で戻ってくるならば別に留守番していてもいいのだが(というか、彼はそれが普通だと思ってはいるのだ)一旦出張に出かけるとなにかしらのトラブルに巻き込まれるのが創平だ。本人に自覚がないのが、また罪作りなところである。
しかし、今回は少しくらい創平を信じてやってもいいだろうか。円がそう思ったとき、なにやら思い出したように創平が声を上げる。
「ああ、でも途中で篠宮さんに報告書を出してくるから、もう少し遅くなるかもしれない」
その篠宮という単語に、円が過剰反応した。がばりと立ち上がったかと思えば、創平の両肩をがっちりと掴んだ。
「あの男は駄目だ」
「え、どうして」
きょとんとする創平に、噛みつく勢いで円がまくし立てる。
「あれはなかなかに怪しい。どうしてお前はひょいひょいとそういう奴についていこうとするんだ」
篠宮は司書部門の長で、創平の上司にあたる。以前この図書館の専属司書をやっていたこともあるのだが、いかんせんこの円と馬が合わなかったようで、配属変更の最短記録保持者としても名を馳せている人物である。円が過剰反応するのはおそらく単純に嫌いだからだろうが、だからといって報告を怠るのはよくない。基本的に、買い取り関係の報告は直接行うのが常なのだ。
仕方ないだろ、と宥めるも、円は完全に拗ねてしまったらしい。
「携帯電話を使えばいいだろうが! 文明の利器は相応に利用しろ!」
「じゃあ一緒に来いよ、おれを監視したいんだろ。お前の目利きも必要だし、ちょうどいいじゃないか」
そう言われてしまうと、さすがの円も何も言えなくなり、ぐっと押し黙るしかできなくなる。
当の創平はと言えば、
「蔵でも開けるのかな」
と呑気に呟きながら、もう一つの封筒を開け始めていた。財団からの手紙の文脈からすると、おそらくこちらが依頼主の手紙なのだろう。面白い本があるといいなあ、とこれまた能天気な一言も付け加えながら。
その呟きに、思わず円は非常に残念そうに創平を見つめてしまった。今更何を言っているんだ、とでも言いたげな表情である。
「帷子創平君。うちの図書館は面白い本なんか置かないでしょう」
「そりゃあそうだ」
創平は額に手を当て、「血なまぐさい話でなければいいが」
「俺としてはそっちの方が嬉しいけど。で、なんて?」
ああ、と創平が渋々茶封筒から白い便箋を取り出し、丁寧に三つ折りにされたそれを開いた。便箋に並ぶは、非常に整った美しい文字。円の好物の類だな、と創平はぼんやりと思う。
「創平。それ、あとで喰わせてくれるか」
案の定爛々とした瞳で尋ねてきたので、創平は聞き流す意味を込めて曖昧に頷いた。どうせ、答えは「はい」と「うん」と「イエス」、または「ヤ」とか「ウィ」とか、まあそういう類の答えしか存在しないのだ。何を言っても答えが同じならば、別に返事などする必要はない。
しばらく依頼主からの手紙を眺めていた創平だったが、最後に記されていた名前に何かを察したらしく、ぴくりと眉の端を震わせた。そして何やら真剣な面持ちで、便箋を畳む。
「――円。大物が釣れたぞ」
ほお、と円はにやりと笑う。創平がこの手の反応をしているときは、彼が想定している以上のものが待ちかまえている可能性が高い。だから期待の意味を込め、このように言っておいた。
「それはどれだけ、美味しいのでしょうね? 創平君」
†
車を走らせること二時間。創平と円が向かった先は、手紙の差出人である某の邸宅だった。手紙の文面を見た段階で薄々感づいてはいたが、どうやら件の依頼人は旧家の出らしい。その証拠にやたら広い瓦屋根の屋敷がどでんと鎮座していた。彼岸堂も似たようなものだが、これはすごいと創平は思わず口を開け広げていた。
「ここで……間違いないよな」
手紙の宛名を何度も確認し、緊張をほぐそうと数回深呼吸する。そんな創平の横で、円がのんびりと大あくびをかましていた。実はこの円、彼岸堂以外の場所では姿を隠している。「彼岸堂」関係者のごく一部には視えているのだが(勿論、創平は視える側の人間だ)、それ以外はほぼ間違いなく姿を捉えることはない。存在すらも気がつかないだろう。だからと言って、こんなにだらだらとされるとこちらまで脱力してしまうのだが。勿論悪い意味で。
「そんなに緊張する相手なのか」
やる気のなさそうな声を上げる円の横で、創平は深く長い溜息をつきながら眉間に手を当てた。連れてきたのは失敗だったろうかと、声にならない声が頭の中を駆け巡っている。
「ああ。今回の依頼が――あの藤田為人の遺品を預かってほしい、というものだからな」
「藤田? 誰だそれは」
知らないのか、と尋ねると、円は首を縦に動かした。そうだ、そもそもこの『鬼』は俗世に興味がないクチの妖怪だ。やはり世間知らずは、現代に生きる妖怪としても非常によろしくないのではないか。それなりにモノは教えてやらなくては、と心に強く誓った瞬間だった。
「藤田為人は、その線では大御所扱いされている有名ミステリ作家だ」
「ミステリ?」
「金字塔を打ち建てたとでも言うべきか……。おれも学生の頃に相当読んだけれど、あれはすごかったな。誰もあんなことは考えないだろう。彼の亡き今、唯一である彼すらもいないのだから、まあ、当然か」
ふぅん、と円は心底興味がなさそうだった。興味がないならそれでいい。この鬼が興味を持つのは、どうせ本の『内容』ではない。その本にまつわる『不幸』だけだ。『不幸』そのものが彼の動力源であり、それ以上になることはない。それだけの話だ。
その件については既に諦めがついている。ここで深く追求する理由もないので、創平はこの話題を早々に打ち切った。それよりも今は、失礼のないように気を配るべきだ。
「円、ネクタイ曲がってない?」
「あー、ネクタイは大丈夫だが、徽章が曲がっている」
しばらくぶりにスーツを引っ張り出してきたと思ったら。よほど自信がないのか、創平は朝からずっとこんな調子である。いつもはこれほどまでに取り乱したりしないので、その藤田とやらは創平の中でかなりのウェイトを維持する人物なのだろう。
「よし。行くぞ」
ようやく本人が納得したようなので、円もそれ以上何も言わなかった。
創平が門を叩くと、使用人と思われる老婦人が姿を現した。事情を話してみると「はい、はい、存じております」と穏やかに微笑みながら通してくれた。勿論、その会話は全て創平にのみ向けられたものだ。彼女にも、他の人と同様に円の姿は見えないのだ。それを改めて認識し、安心した様子で創平は屋敷の中へと入っていったのだった。
彼らが通された客間は、やや小さめの和室だった。高さの低い机に、藤色の座布団が引いてある。優美な掛け軸の前には季節の花が生けられており、広く開け放たれた戸からは美しい庭がまるで絵画のように広がっていた。
創平は件の差出人を正座で待ちながら、スーツの襟刳りに触れた。まだ先程直してから時間が経っていないので、さほど着崩れてはいない。隣の円が「まだ気にしているのか」と呆れ顔を浮かべるほどだ。それを完全に無視しつつ、続いてタイに指を移し、静かに締め直す。
「随分きれいな仕草ですこと」
そのときだった、突然声をかけられたのは。創平ははっとして、声の主を探す。
「驚かせてしまって申し訳ありません」
襖の奥から現れたのは、黒髪を後ろで結い上げた女性だった。
「ええと……彼岸堂図書館の方ですね? 大変お待たせ致しました。私、お手紙を差し上げました藤田幸乃と申します」
年齢は三十代中頃、だろうか? 浅黄色の美しい文様が描かれた和服を身に纏い、その穏やかな仕草から教養の高さが見て取れる。創平とは大分歳も離れているはずなのに、ぼんやりと「ああ、こういう女性は素敵だなあ」と思ってしまうほどに。にこりと微笑みながら、彼女――幸乃は創平の鳶色の瞳を見つめたのだった。
「はじめまして。私、芦田財団・彼岸堂図書館管理課の帷子創平と申します」
創平はカード・ケースから自分の名刺を取り出し、どうぞと彼女に渡す。
「帷子さん……ですか」
変わった名前、と彼女は呟く。
「よく言われます」
苦笑しながらも、創平は己の短い黒髪を掻いた。緊張している時の癖である。それをよく知っている円は、またやってるよと言わんばかりに横でにやついている。あとでどついてやろうと、創平は心からそう思ったのだった。
そうしていると、ふと幸乃の視線が円に移った。
「あの……?」
心臓が跳ねた。まさか、彼女には円のことが視えているのだろうか? 否、そんなはずはあるまい。しかし、しばらくじっと円のことを見つめた彼女は、
「……いいえ、なんでも。どうかお気になさらずに」
と創平へと視線を戻したのだった。円のすっかり動揺してしまった表情があまりにおかしくて、創平は必死に笑いを堪えている。だが、いつまでも笑っている訳にはいかないので、ひとつ咳払いをした後ようやく創平は話を切り出した。
「それでは……、早速本題に入りますが。為人氏の遺品を預かってほしい、というのは」
ええ、と幸乃は頷く。
「どうしても、この家に置いておくことのできないものがあるのです。だからといって、物が物だけに処分することもできません。そこで、できることならば大事にしていただける方にお譲りしようかと……」
「当館のことは、ご存じなのですね?」
ええ、と幸乃は頷いた。
「『不幸』にまつわる本のみを集める図書館。正直なところ、本当にそんな図書館があるのだろうかと疑っておりました。けれど、もしも本当にあるのなら、……これほどの『不幸』を背負った本にはふさわしい場所なのだろうと。そう思ったのです」
「一度所蔵されてしまえば、もう二度と外に出すことはできませんよ」
創平の言葉に、彼女はふっと息を吐き出した。そして、ゆっくりと首を縦に動かした。その動きには、微かな決意のようなものが滲んでいる。きっと彼女は、この決断を下すのに相当な時間を要したはずだ。
「――存じ上げております。それでも『あれ』は、この場所にはあってはならない」
そこまで言われてしまえば、こちらとしても確認しない訳にはいかない。創平は彼女に、『それ』を見せてもらえないか尋ねた。勿論ですと彼女は頷き、一緒に持ってきていた桐の箱を創平の前に置く。その箱は封をするために、藤色の房が付いた紐で硬く結ばれていた。彼女はその紐をゆっくりと解き、蓋をゆっくりと開ける。
「――あなた方に預かって頂きたいのは、こちらですわ」
彼女の白い手が、中身を取り出す。その中身は、創平が想定していたものとは全く別のものだった。勿論、その横にいた円さえも。二人はただただ目を見開いて、『それ』を観察するしかできなかった。
簡単に言うならば、『それ』は蒔絵だった。鉛や錫、金箔といったものがふんだんに使われた百科事典ほどの大きさの箱。ただしそれは通常の蒔絵ではなかった。基本となる素材が、漆ではなく『硝子』なのだ。実際に硝子で箱を作る作家はいるが、実物を見たのは今回が初めてである。
その優美な箱に見とれながら、創平は絞り出すように言葉を発した。
「琳派……ですね。素晴らしい」
しげしげと眺めながら、創平が呟く。「しかし、我々は図書館を運営する財団です。箱をお預かりする訳には」
そうなのだ。確かにこの箱は素晴らしい。だが、それだけではいけない。なにせ、「彼岸堂」は博物館ではない。図書館だ。もしも彼岸堂が博物館だったとしたら、創平はすぐさま買い取りの手続きを行っただろう。だが、それが本だと確認の取れない以上、どうしようもない。
しかし、幸乃は首を横に振る。
「『箱』は、ただの装丁ですの」
創平ははっと目を瞠った。彼女の語調が突然鋭くなったのに気が付いたからだ。
「これが為人の遺作――最期の謎かけを具現化した作品『玻璃と意図』でございます」