1
世の中には不可思議と名のつくものが多すぎる。
そもそも、この世に存在している人間の中で、『鬼』に思考の一切を喰われるという奇妙な感覚を知っている人数とやらは一体どの程度なのか。
彼・帷子創平は、己に覆いかぶさり食事を貪る男――『鬼』についてぼんやりと思案する。
彼の瞳に映る『鬼』は、何かの物語で読んだ鬼とは大分形状が異なる。どこからどう見ても、顔立ちがやたら整っていることを除けば人間の男とさほど変わりないし、やや長い黒髪も特別目立つものではない。唯一変わっていると思うのは、その赤みを帯びた瞳の色、だろうか。
しかし、そんななりをしていても、彼の『食事』の時だけは『鬼』だと実感せざるを得ないのだ。
何せ、この『鬼』の食欲は底なしだ。
不鮮明な意識の向こうで、独特の赤みを帯びた瞳が爛々とこちらを見下ろしている。その目線だけで、創平は己の思考全てを見透かされているような気持ちになる。否、現実に見透かされている最中なのだが、そんな間違いすらも気付かないほどに、彼の思考は鈍っていた。頭の先からつま先まで舐めつくすように、じっとりと丹念に見つめる赤の瞳。視線に耐えきれず文句を言おうとすると、この『鬼』は創平のことを愛おしげに見つめながら、頭を撫でてくる。何も言ってくれるなと言わんばかりの手つきで。
その間も創平の頭に浮かんだ言葉が容赦なく「喰われて」ゆく。その感覚は快楽と酷似しているが、それよりもはるかに強烈だ。今見ているものも、鮮烈な感覚も、ほんの数分前の記憶すらも、言葉に置き換えてしまえばすぐにこの『鬼』に喰われてしまう。言霊は魂だとよく言ったものだ。今の創平はまさに、魂が喰われたことにより完全に力が抜けてしまい、もうなにも考えられなくなっている状態だ。
辛うじて細く長い息を吐き出すと、ようやくこの『鬼』は満足したらしい。呆けた表情の創平に優しくにこりと微笑むと、たった一言、
「ごちそうさまでした」
と声をかける。その声を合図に、創平は現実へと引き戻されるのだった。
創平はふうっと息を洩らしつつ、そのまま革のソファに身を沈めた。まったく、嫌な汗をかいたものだ。激しい倦怠感と同時に襲いかかる睡魔。それに完全に支配される前にと、彼は今まで己を組み敷いていた、そして今もこちらをじっと見下ろし続ける『鬼』を睨めつけた。
「――喰いすぎ」
悪態すらも、この『鬼』には通用しない。その証拠に、彼はその優しげな眼差しのまま創平の頭を撫で、
「だって創平の言霊は、すごく美味しいから。根本的な部分で言葉がきれいな日本人って、実は貴重なんだぞ」
と、彼にしては珍しい賛辞を並べている。
そう言われてしまっては、たとえそれがご機嫌とりだと分かってはいてもきつく叱りつけることはできない。創平は「やられた」と内心思いながらも、己の頬にかかる『鬼』の、やや長い黒髪を右手で払いのけたのだった。
「それにしても、今日の文章はなんだ? やたら古くさい味がしたが」
「あー……そりゃあ、昨日まで整理していた古典の一部だろうな。棚番十二のところに入れておいたやつ。つーか、お前それを喰ったのか。やめてくれ、あの本の整理はまだ完了していない」
喰ってしまったものは仕方がないだろう、と『鬼』は吐き捨てるように言い、そっと創平から身体を離した。よほど満腹になってしまったのか、眠たそうに欠伸をしながら身体を大きく伸ばしている。そのたびに彼独特の後ろで一つに束ねた黒く長い髪が左右に揺れていた。結局のところ、本日も彼にいいようにされてしまったのが悔しくてしょうがない。昨日の仕事も台無しにされてしまった。まあ、今更悔やんでもどうしようもないけれど。
創平はまだだるく重い身体を無理に動かそうとは思わなかったので、仰向けの体勢のまま上機嫌な『鬼』の背中に声を投げかけた。円、と。
「それで? 今日はどれくらい届くんだ。『例のもの』は」
「うん? ああ、今日は三箱くらいかな。そもそもそんな物騒なもの、毎日届く方がおかしいだろう」
それもそうだ。
全うな意見をまさかこの『鬼』の口から聞くことになろうとはこれっぽっちも思っていなかった創平は、何も言えずただ口をつぐむばかりだった。そんな彼を一瞥しつつ、『鬼』はにやりと不敵に笑う。
「まあ、俺はお前さえいればそれでいい。案ずるな、彼岸堂専属司書・帷子創平君」
†
創平が司書として勤める「彼岸堂図書館」は、芦田財団が管理する私設図書館である。
郊外に建設された明治洋館風の建物は常に手が行き届いており、まるでそこだけ過去へタイムスリップしてしまったかのようである。窓の上部にはステンドグラスがはめこまれたファンライト(半円形の、日本でいう欄間のこと)があり、外壁は白い色の木造漆喰塗。正統派と評するべきその素晴らしい外観は、創平が気に入っているところのひとつでもある。
そんな彼岸堂図書館、実はなかなかに特殊な場所である。
まず、蔵書は全て禁帯出であること。それから、この場所に持ち込まれた本の全てが必ず所蔵されるとは限らない、ということ。裏を返せば、一旦この図書館に所蔵されることが決定してしまえば、その本はおそらく永遠に外へ出ることはない、ということだ。
そして、何よりも一番変わっているのは――
人の『不幸』に関わった本しか受け入れない、ということである。
その話を初めて聞いた時、能天気を自負する創平でさえも思わず目を瞠り、「一体どうして」と当時の担当職員を問い詰めていた。よりによって人の不幸だなんて。どうしてそんな不可解なものばかりを集めているのだろう。いくら私設図書館といえども、それは最早狂気の領域だ。
しかし、その理由はすぐに思い知らされることになる。
実はこの彼岸堂図書館には、古くから――それこそ、開設当初から『鬼』・円が住みついていたのだ。
円という名前は、実は便宜上創平がつけた名前で、本来の名は「詞喰鬼」という。詞喰鬼とは字の如く「言葉を食らう鬼」。例えば本や新聞、人と交わす些細な言葉でもいい。そういった『言霊』を喰らうことで生命維持を図る妖怪なのだそうだ。
円曰く、「詞喰鬼」は割と美食家が多く、好みも様々だという。とびきり洗練された純文学を好む鬼もいれば、漢詩が好きだという鬼もいる。人間の噂話を好む鬼もいれば、小難しい体系書を好む鬼もいる。円自身は『不幸』が混ざった文章が好みだそうで、必然的にこの図書館はそういった本ばかりを集めるようになっていたらしい。
ところで、その円が不幸にまみれた本よりも気に入ってしまった「お気に入り」がいる。それが、現在の「彼岸堂」専属司書・創平だ。元来創平は本好きで、幼少の頃から「本の虫」と呼ばれるほどにありとあらゆる本を読み漁っていた。長年培ってきた語感が、円のお眼鏡に適ったという訳だ。
円が言うには、創平が発する些細な言葉、ほんのわずかな思考でも、ひとつひとつに生きた「味」がするのだそうだ。同時に「最近の言葉は美味しくない」とぼやくこともしばしばで、どれだけ現代人の言葉が空虚なものであるかが思い知らされる。つまり、円に言わせれば創平は恰好の獲物なのだった。
――そうは言っても、毎日頭の中を覗かれたんじゃあ、たまったもんじゃないよなあ……。
創平はぼんやりとそう思う。
人間が毎日食事をするように、詞喰鬼も食事をする。円の腹を満たすためとはいえ、いちいち創平の頭の中を覗いては美味しそうな部分をかっさらってゆくのは体力的に無理があるのである。何せ、詞喰鬼が人の脳内から言霊を喰らうとき、喰らわれる側の人間には表現し難い強烈な快感に襲われるのだ。創平は完全なるインドア体質故に、おそらく標準的な男性よりも体力がない。だから、毎回毎回こうもがっつかれると正直疲れるのである。
さて、結局睡魔に負けてそのままうたた寝をしていた創平だったが、扉の閉まる音で目が覚めた。瞳だけを動かし様子を窺うと、どうやら円が宅配の荷物を受け取ってきたところらしい。彼の手には中位の箱がいくつか積まれていた。
「円。届いたのか?」
「まあな」
それらを適当に床に置き、べりべりと豪快にガムテープをはがす。案の定、どの箱の中にもこれでもかというくらいに本が詰められており、正直よくこの量を一気に持つことができたなあ、と思う。まあ、詞喰鬼は人間よりも力持ちなので当然と言ったらそれまでなのだが。
円はその中から一冊ずつ丁寧に本を拾い上げ、じっと見つめては己の横へと積み上げていった。時折開いて適当に頁をめくることもあったが、それもすぐにやめて同じ山へと積み上げてゆく。
円は、所謂テイスティングをしているのである。この図書館にふさわしいほどの『不幸』が詰まった本を探し出し、それ以外は別の詞喰鬼へと横流しする。それが彼ら独自のルールだった。
「おいしそうなの、あったか」
声をかけると、円は否と首を振る。
「どれもまずそうだ。まず匂いがしない。開いてみても『これは』ってものがない。うーん、最近の人間どもは、脳内が春なのか? それとも本を読まないのか?」
「どちらも有り得る」
困ったな、と創平は思う。ここで彼のお眼鏡に適うものがなければ、必然的に捕食対象が自分へと向けられてしまうではないか。それは困る、非常に困る。ふう、と長くため息をついていると、円が怪訝そうな表情で創平を見つめていた。
「創平。俺に喰われるのがそんなに嫌か」
「嫌とかそういう話でなく。お前は飽きないのか。毎日同じ味のものばかり喰って。そっちに積み上げているまずそうなものでも、もしかしたら食わず嫌いかもしれないじゃないか」
「うーん」
それはないかな、と円は言う。「こっちに積んでいるのは俺の好みの話じゃない。根本的になにか違うってこと。そうだなー、お前が時々作っているマフィン? だっけ? あれが醤油味に変わっているようなもので、どこか壊れた味しかしないの」
醤油味のマフィンは確かに嫌かもしれない。
なんとなく納得して、ようやく創平も身体を起こす。そして胡坐をかいている円の横までやってきて、そびえたつ本の山から適当に一冊取り出した。
それは普通の、どこにでも売っているような昆虫図鑑だった。めくってみると、裏表紙にはご丁寧にマジックで名前が書かれている。きっと前の持ち主が書いたものだろう。
「これはどう?」
「それは特にまずそうだ」
そうですか、あなたは相当な美食家ですねと創平は肩を落としている。何と言うか、もう諦めるしかなさそうだ。
「人の『不幸』は蜜の味、って言うじゃないか。人間たちは」
「うん、表現としては間違っていないけど、それをあんたが言うの?」
結局、「これ」という本がなかったので、山積みにされた本は再梱包し別の詞喰鬼の元へ送られることとなった。創平は円以外の詞喰鬼に会ったことがないので、それがどういう経路で流通しているのか全く想像がつかない。だが、箱の山と共に出かけ、戻ってきた円が「送ってきた」と言っているので、まあ特別心配する必要はなさそうだ。
「ああ、お疲れ様。重かったろう」
「詞喰鬼は意外と力持ちなんですよ、創平君。……あ、そうだ。これ」
ふと何かを思い出したらしい円が、きょとんとしている創平に一通の手紙を渡してきた。
「お仕事だ。ご丁寧に、芦田財団が転送してきやがった」