↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

異世界の風の中で

作者: 秋乃六倫
掲載日:2026/09/12


「恋愛なんて異世界に転生でもされなきゃ真正直に向き合ってられないのよ」


 彼女はそう言った数年後、普通のサラリーマンと普通に結婚した。

 小学生からの付き合いではあったが、小学生から高校までは仲が良かったわけではなかった。

 気付けば大学まで同じで、それまではお互い認識はしていただろうけど話しかけることもないような関係だった。

 大学でも、ここまでの腐れ縁なら一度くらいは飲みに行くべきだろうという彼女の言によって、時折愚痴まじりの飲み会が開かれるだけで、恋愛に発展するような甘い関係ではなかった。

 それでも彼女の言葉は時折思い出すことがある。

 学校というのは姿のないカースト制度が敷かれている。僕はその中でも最底辺か良くて中くらいだったと思う。友人たちもあまり目立つような人間ではなかった。

 そういう意味で言えば彼女は中学も高校も上位の存在だった。僕のような地味で目立たないような人間には一ミリも関わり合いになることはない。少なくとも大学で二人で飲むようになるまではそう思っていた。


「あんた異世界ものとかって好き?」


 僕はそのとき、なにも悪いことをしていないのにもかかわらず、悪いことをしていたのを見つけられたような心地になった。全身から冷や汗をかくなんてこのときはじめて体験したように思う。誤魔化すように酒を飲んだ。


「私は異世界ファンタジーとか恋愛とか、たまに読むのよね」


 話を聞くと、確かに彼女は「異世界モノ」をよく知っているようだった。実は僕はこのとき異世界ものというものを浅くしか履修していなかった。有名なアニメ作品などの原作やライトノベルなどを少し知っているだけで、彼女からするとにわかもにわかだった。

 彼女はスマホからウェブサイトに掲載されている作品をいくつも読んでいるそうだ。それらはアニメ化もされていないような無名の作品も含まれていた。


「ワタリ、あんたオタクでしょ? これくらい普通じゃないの?」


 確かにオタクって言われても仕方ないけれど、オタクだからって何にでも手を出しているわけではないのだ。

 詳しく聞いてみると大学に進学してから、知り合いにおすすめされたアニメが切っ掛けだったらしい。


「なんていうか、私大学に来てもあんまり楽しく感じなくってね。友達や知り合いとの付き合いはあるけど、なにかに夢中になったり、真剣に打ち込むようなことって見つからなくて」


 そういう彼女の顔はどこか遠くを見ている。中学や高校時代の彼女はどうだったか。周りは綺麗どころがたくさんいて彼女もその中の一人、いや中心だったと言っても良い。


「中学や高校もそうだったんですか?」


「ん? んー。あの頃は私もバカだったからね。あれが楽しいことだと勘違いしてたのかも。今思うとなんだかむなしいもんだね」


「大学生ともなると女性は彼氏を見つけるのに大変なのでは?」


「それよそれ。私にはそれが向いてないみたい。皆さ、彼氏ほしーとか言いながら、合コンとか行くわけ。それで良さそうな男見つけてはさっさと付き合って、そんで数ヶ月したら別れてるわけ。話を聞くとさ、さいしょはノリノリでいいこと言ってたのに別れた途端ボロクソに言うんだもん。そのときこれは私には無理だと思ったね」


「はあ、なるほど」


「そうしたらなんか大学生活ってのが一気につまらなく感じちゃって。そんなときにアニメにハマってさ。現代のドラマには壁っていうのかな、そういったのがあって、アニメはそういうのをぽーんっと乗り越えちゃった気がしてね

 現実では無理だなとか、それはないでしょって思っちゃうようなことも、なんか異世界だとなんとなく納得してしまうような気がしてさ。それからサイトからも読むようになったんだよね」


「なるほど」


 確かにこのとき、気のない返事をしてしまったが、実はこのとき僕は圧倒されていた。彼女の生き様というか考えの一端に触れたような気がして、僕の心は遠くに置き去りになっていた。



 それからも彼女とは時折飲むようになった。僕は話についていくのに色々な作品を読んだ。正直こんなのが人気なのか、というようなあまり僕には合わないようなのも当然存在した。けれど、それまで読まなかったような恋愛ものの作品だって読んでみようかなんて手を出してみたら、意外にもこれが嵌ったりもしたのだった。


「現実にはさ、乗り越えなきゃならないようなものが沢山ある気がする」


 僕にはその乗り越えなきゃならない壁、というものが分からなかった。壁とはなんだろうか。スマホやパソコンの存在によって、いち早く誰かと連絡を取り合うことが可能になった。誰かに会いたい時、すぐに話せるし予定を聞くことも出来る。すれ違いや壁など存在しないのではないか。


「えっとね。なんていうのかな私は馬鹿だから、言葉が思いつかないんだけど、壁がなくなりすぎて、自分自身が壁になってるっていうか」


 彼女は自分自身のことを馬鹿だなんて、卑下しているけれど、彼女の頭が悪いなどと話をしていても思ったことはなかった。ソレを言うなら、彼女の話に必死についていこうと、予習している僕はなんなのだろうか。


「彼氏とか、いらないんですか?」


 僕はなぜこんなことを聞いたのか分からない。けれど、話の合間になんとなく、少しの無言も恐ろしくて口をついた。今考えてもつまんないことを聞いたなとしか思えない。


「私には無理かな。恋愛なんて異世界に転生でもされなきゃ真正直に向き合ってられないのよ。それに……」


 彼女はそれ以上言葉を続けることはなかった。僕はこの言葉をそれからもよく思い出した。異世界に飛ばされた主人公が、戸惑いながらも恋愛などを経験していく姿を見て、何度か思った。彼女もこういう経験がしたいというのだろうか、と。

 勝手な憶測で、彼女のことを考えるのはなんだか悪いことのような気がしてあまり考えないようにしていたけれど、異世界モノの話をする時、彼女は楽しそうだった。

 彼女の好みは恋愛ものに限らず、ファンタジーだったり、SFだったりしたけれど、恋愛というカテゴリについて彼女には特別な思いがあるのではないかと考えたのは、僕の思い込みだっただろうか。



 あるとき講義を終えて帰宅しようとキャンパスを歩いていた時だ。とてつもなく不機嫌そうな彼女の姿をみた。軽薄そうな男と一緒に歩いていた。

 そういうこともある。僕たちは元々関わり合いになる人間ではなく、別の世界に住む人間で、こういった彼女の空間に僕が入り込むことは良くない。

 けれど、不機嫌そうな彼女のことが気になったのも事実だ。僕は知らんふりも出来ず、かと言って割って入ることも出来ない。ただ遠巻きに見ていただけだ。ただの通行人のその一人だった。


 彼女はずんずんとこちらに来る。完全に僕のことを見ていた。


「なんで、最近連絡よこさないのよ! 全然飲みに行けないし、変な奴は絡んでくるし最悪よ!」


「す、すみません、最近忙しくて」


「はあ、まあいいけど。これから暇? 飲みに行くよ」


 暇かと聞きつつも有無を言わさぬ態度だった。それから愚痴を言う彼女に付き合って酒を飲んだ。近所の安いチェーンの居酒屋だ。



「居酒屋ってなんで人がいっぱいいるんだろう」


 明らかに飲み過ぎだった。既に管を巻きながら、不思議なことを言い出すようになっている。


「私はこんなどこにでもあるような居酒屋しか行ったことない。本当は小さいこじんまりした、近所のおじさんなんかが通う様な居酒屋にも行ってみたいのに。

 私はこんな誰だって来るような場所で、そしてどこにでもいるような冴えない男としか飲めないのよ」


「どこにでもいるような冴えない男でも良いじゃないですか。それにそういうところはもっと大人になってからでも充分でしょう。それまでは僕が相手になりますよ」


「ほんとう?」


「ほ、本当ですって」


「あ、でも思い出した。あんた今日、見てみぬ振りしようとしてたでしょう。あんたも気づいてたなら、助けなさいよ」


 なんとか方向修正をしようと思ったが、再び愚痴が始まってしまった。




「あんたはさ、どんな異世界なら行きたいと思うわけ?」


 いつの日だったか、いつものように居酒屋での出来事だった。唐突に彼女がそんなことを僕に質問してきた。どんな異世界なら僕は行きたいと思うか。

 そんなことを当然考えたこともなかった僕は、急には答えられなかった。


「白俣さんはどんな世界がいいんです?」


「私はねえ。やっぱ魔法かなあ」


「魔法、ですか」


「魔法で色んなこと解決できそうだしね。それに本当に中世みたいな生活なんて私無理だと思うし。それなら魔法でなんとかなるような世界じゃないときついでしょー」


 なんとも、まずはそんな現実的なところから向き合わなければならないのか。異世界になんか行ったらそれどころではなさそうだけれど。


「でも、どこかの国の王様とか王女様に召喚されちゃったらどうします? 勇者として」


「でた! 私無理かもそれ! 理不尽なことを命令されてさ、やれあの魔物を倒せとか、迷惑なドラゴンを倒せとか、終いにはあの国は魔王の手先だからと戦争の道具にされちゃうわけでしょ? うーん、でもそれくらいじゃないと盛り上がらないか」


「そんなことまで考えなくちゃいけないんですか? 僕はそうですね。魔法も良いですけど、スキル制の世界なんてどうです? 物を作ったり、闘うにもスキルを使えれば、案外、普通に生活できるかもしれませんよ」


「スローライフってのがあんたが異世界まで行ってやりたいことなの?

 まあ、いいけど。私には無理かもなー退屈しちゃうし。

 それに世界中を旅して周るのもいいかもね」


 そう言いながら、ビールをぐいっとあおった。僕も残り少ない酒を飲み干し、追加の注文をとった。彼女はその間、おとなしい。

 自分で注文をすることもあるけれど、酒や食事が届くまで、彼女は静かになる。酒が届き、彼女の顔色をみると、まだ話し足りないという顔をしていた。


「白俣さんは色んなトラブルを巻き起こしそうですね」


「なによそれ」


「いや、物語の主人公にはもってこいの人物かもしれないな、と」


「どうかしらね」


「白俣さんは中学校、いや小学生のときからクラスの中心だったじゃないですか。多分人を惹きつける能力が付くんじゃないですか? 

 それこそ勇者とか」


 つまみを食べ、酒を飲む。彼女が黙ったので、ちらりと覗くと、難しそうな顔をしていた。


「あんたはさ、現実の嫌なことから逃げ出して、異世界に行ってしまいたいと思ったことはないの?」


 どうだっただろうか。僕は良くも悪くも、物語の中心にはいない人間だった。どうにもこうにも話題に上ることがないような、ちょうど彼女のような人間とは正反対の男だ。それほど世の中が嫌になることも、特にない。


「そうですねえ。嫌なことって言うほどのことはないですね。ただ、それほど未練は感じないかも知れませんね。僕のことを待ってくれているような人もいませんし、白俣さんが一人酒を飲むことになるかもしれないくらいですかね」


「はは。そんときは私も異世界にいってやるわよ。どうせあんたみたいな人間は放っておいたら死んじゃうんだから」



 それからしばらく、彼女と飲むことはなかった。僕自身大学や就活やらで忙しくなり始めていた頃だったから、あまり時間が取れなかったというのもある。就活などをして、これからどう生きるのか、大事な時期だった。だから就活生らしく生活しているけれど、どうにも目の前のことに一生懸命になれない自分がいるのも事実だった。

 これも嫌なことになるんだろうか。割と今なら異世界に行ってしまうのもありだろうと思っていた。もちろん僕には大型トラックも、目の前で轢かれそうになる子どもも、急に現れる通り魔殺人犯にも出会いはしなかったが。


 自分のなりたいものとか、夢とか、あるいはどんな人生を歩みたいかとか、僕には想像出来なかった。このまま、なんとなく生きてなんとなく死ぬんだと、思っていたのだ。こんな風に自分の人生を振り返るとか、将来のことを見つめ直すこと自体が、僕には分不相応なことだと思っていたのだ。そんな風に自分が変わってしまったのは、やはり彼女と話をするような関係になったからだろうか。

 僕には良くも悪くも眩しすぎる。彼女の存在は、僕の手の届くところにはない、それは分かっているけれど、それでも彼女という輝かしい人物が僕の側にいる。それだけでも僕には、僕の人生には、多大な影響を残しているようだった。


 ああ、これが彼女の言っていた壁のようなものだろうか、とふと思った。僕のスマートフォンには彼女の連絡先や、SNSのアカウントなども知っている。連絡を取ろうと思えばいつでも連絡できるはずだけれど、僕は彼女にコンタクトをとっていない。僕が忙しいから、というだけじゃなく、彼女も忙しいだろう、と遠慮もしている。そしてなにより連絡を入れたら、確実に届くのだ。それが怖い。



 僕は普通に生活することもできなくなった。彼女と最後に会ったのはそんなときだった。

 僕は就活に失敗した。いや失敗とかではない。そもそも挑戦する前に、僕がだめになったのだ。大学はなんとか卒業する気でいるけれど、僕には就職することは出来ない。

 今もバイトをしながらも、ただのうのうと生きている。そんな自分に嫌気が差しているが、どうすることも出来なかった。


「ひどい顔してるわね」


「はあ、すみません。僕は人生で一番、最高に異世界に行きたいと思ってます」


「あんたもいい顔になってきたわ。良いじゃない良いじゃない。そんな風に落ち込んだりすることもこの世界に未練があるってことじゃない?」


 そんな考えもあるか。思ったよりも彼女は元気そうだった。彼女の将来のことや、就職をどうこうするなんて話は聞いたことがなかった。どうするつもりなのか、僕は知りたいのか、知りたくないのか、分からなかった。

 聞きたいような、聞いてしまったら、全てが終わってしまうようなそんな予感が僕にはあったのかもしれない。


「まあ、今日は飲みましょう」


「そう、ですね」


 僕らは飲みまくった。いや、僕だけだったかも知れない。彼女は最初から最後まで飲んではいたけれど、意識を保っていた。はっきりとしていたと言っても良い。もしかしたら彼女はこれが最後の飲み会になると分かっていたのではないだろうか、と後から何度か思った。

 僕は情けなくも、ぐだぐだと落ち込んでいた。彼女との別れも感じていたかもしれない。心の奥底では、もうしばらくしたら、会えなくなる。そんなこともよく考えれば、分かることなのに、その時の僕ははっきりとしたことを何一つ見つけられないまま、暗い闇の底に落ち込んでいた。


「これ、あげる。もし、なんかあったらこれに呼びかけてみて。勇気、でるかもしれないから」


「本当ですか? ありがとうございます。大事にしますよ。でも困ったな僕、なにかあげられるものないですね」


「大丈夫よ。次会った時なんか貰うから、それまで頑張って」


 朝まで飲んで、始発で別れた。彼女の後ろ姿が、駅の構内に消えていくのをぼうっと眺めていた。雑多な駅や人波が彼女をかき消していくような、寂しさを覚えた僕は忘れるように、帰っていく。



 それからしばらくして、大学の友人から彼女が結婚したと噂で聞いたという話が流れてきた。詳細を僕なら知っているのではないかと、久しぶりに連絡をしてきたらしい。僕こそ何も知らない。何も伝え聞いてはいなかった。

 彼女の噂だけはどこからか流れてきたけれど、皆すぐに忘れるように消えていった。

 


 なんとなく彼女に連絡を取ってみると、彼女の電話もSNSも全て消えていた。結婚の噂を僕は信じていなかった。誰かが噂しているだけだろうと、根拠なく思っていたのだ。

 もう皆、噂も忘れていた頃だったけれど、今度は僕から知っていそうな人を探して、彼女の居場所を聞いた。

 彼女のことを知っていた人間が、彼女の結婚相手はサラリーマンだと言っていた。なぜ知っているのかと問い詰めると、写真付きの手紙が届いたのだそうだ。その写真はどこかの国で幸せそうに二人で写った彼女の写真だった。



 僕は就職もせずに、バイトをしている。最初はコンビニのバイトをしていたけれど、今は居酒屋で働いている。

 何をしたいという気持ちもわかず、一時はバイトすらもやめようかと思っていた。


 そういうこともある。彼女のことは忘れることにした。僕に連絡もよこさず、いきなり消えて結婚してしまうなんて、ひどいじゃないかと、一時期は怒りもした。けれどそんな風に思うことも過ぎ去り、今はただあの頃が懐かしい。



 それから更に数年が経ち、僕は近くの小さな印刷会社で働いていた。商品の表紙などの印刷を会社で請け負い、それを頼まれた会社の工場や倉庫に届けるのが僕らの仕事である。小さな会社だが、まあまあ楽しくもあった。会社の人間は年寄りばかりで、あまり新しいことに強くない。スマートフォンを家族なんかに勧められてようやく購入した、なんていう年配の社員もいる。そういう中で僕は、割と頼りにされていたような気がした。



 心や生活にもそこそこ余裕が出来ていた。ふと、彼女のことを思い出し、懐かしむように、彼女のおすすめしていたネット小説を読んだ。

 それまで完結していなかった作品が、数年前には完結して、同じ作者は次の作品を出していたり、途中で更新が止まっていたりした。


 僕が好きだった恋愛小説も完結していた。新しい作品は書いていないようだった。


 彼女とまた飲み会をしたいと思った。この作品がどうだったとか、あの作品のここが許せないだなんて、話し合う事が今思うととても幸せなことだと気づいた。酒を飲み交わし、意見を言い合い、時にはお互いの意見が食い違うこともあったけれど、それすらもあの頃の僕は楽しんでいた。


 最後の飲み会のとき、渡された物があった。それは石が付いていて、首にぶら下げて身につけるものだった。ずっと忘れていたけれど、なんとなくこれを身に着けて生活するようになった。服の中に入れ目立たないようにではあったけれど、つけると何故か、彼女に会えるような気がした。



 それからも色々なことがあった。会社が倒産し、無職になったり、日雇いのバイトを始めたは良いけれど、怪我をして続けられなくなった。保険があったため、なんとか生活は出来ていたけれど、いろいろな物を失った。

 両親も僕が印刷会社に居たときに亡くなっている。僕に兄弟はいない。

 怪我をしたあとに、僕は天涯孤独の身なんだと実感した。怪我をしたと言っても誰に連絡をすることもない。誰かが心配して駆けつけてくれることもない。


 付き合っている彼女も結婚している妻も居ない。三十手前にして、割と絶望的だった。


 認めることにした。僕は未だに彼女のことを忘れられていない。僕のような人間が平気で近づいていい人間ではなかったのは確かだった。彼女の眩しさにやられ、今も目に焼き付いて離れない。

 大丈夫だと思い、平気なふりを続けていたけれど、今も独り身のくせに付き合っている彼女も居ないのは、僕がだめな人間ということもあるけれど、その眩しさに今もまだ目が眩んでいるからだ。


 首飾りの石を掴んで、彼女のことを思い出した。何度か紐が切れ取り替えては首に下げていた。彼女に会えないかなどと思って付けていたけれど、あれからも彼女から連絡が来たことはない。彼女ももういい年だ。子どももいるかもしれない。そうであっても、僕は良い。

 彼女が幸せなら良いなんて、綺麗事ではない。ただ納得したい。彼女が今幸せに暮らしていると、夫がいて、子どもがいて、幸せな家庭を作って暮らしていることを実感して、納得したいだけだ。

 一人酒を飲んで昔を思い出していないかと、僕は心のどこかで期待してしまう。

 僕は思い出に浸りながら酒を浴びるように飲んだ。首飾りを首から外し手に握りながら、いつのまにか眠ってしまった。



 ここはどこだろうか。辺りは自然の中だった。呑みすぎてどこかの公園にでも入り込んでしまったのではないかと思った。


 空を見上げるとどこまでも青い空が続いている。手には彼女から貰った首飾りが握られていた。それを首に戻し、とにかく歩いた。



 どこまでも続くような自然は、明らかに公園ではないことが分かった。ここはどこだろう。近くには木々が青々と繁っている。そばにある道は、土で固められただけの街道だ。アスファルトのような物はどこにも見当たらない。

 歩いても歩いても、そんな物は見当たらないということは、ここは相当田舎なのだろう。


 なんとなく、分かっていたような気もしていた。ここは日本じゃない。それどころか、僕の知っている世界ではない、ということも。



 化け物を見かけた。緑色の身体をした、小さい子どものような見た目をしていた。僕は怖くなって、逃げた。

 戦おうなんて、これっぽっちも思わなかった。当然力もないし、戦って勝てるとは思わなかった。


 最初は街道を歩いていたが、腹が減った。なにか食べ物はないかと森の中に入った。近くに小さな川があり、そこで魚を取った。綺麗な水のなかは透き通っていて、手で掬うだけで魚をとることが出来た。

 しかし、火を通すことが出来ない。乾いた木でなんとか出来ないかと格闘したが、火をつけることが出来たのは半日が経ち陽も落ちかかっているころだ。

 なんとか食べることが出来た魚は味がしなかった。醤油も塩もなく、ただ焼いただけの魚が美味しいわけもない。

 それでもなんとか口にして、腹いっぱいとは言わないまでも、食べ物を口にした満足感で、僕はその場で眠った。


 翌朝、目が覚めると朝露で服が湿っていた。とても寒いなか、身体を起こす。焚き火をつけ直そうと思ったが、湿った木にはなかなか火がつきそうになかった。


 再び歩き出す。どうしてこんなことになったのだろうか。考えてみても理由が分からなかった。もしかして自分は死んでしまったのだろうか。


 冷静になると、ここが異世界である、と理解し始めた。それならば、自分になにか能力が備わっていないかと、探ってみるがなにも分からない。

 大きな力が出せるようでも、魔法が出せるようでもない。魔法なんて使い方が分からないのだから、当然出せるわけもないのだ。そもそも魔法がこの世界に存在するかも分からない。


 それなら近くの街にたどり着ければなんとかなるだろうか。そんなことを呑気に思っていた。しかし、森の中から出られない。

 街道に向かって歩いているがなぜか一向にたどり着かないのだ。森の中で眠ってしまったのがいけなかったか、方向を間違えて進んでいたのかも知れない。そうだとすると、戻って眠っていた場所から街道を探せばなんとかなるだろうか。


 結局僕は戻らずに森の中をさまよい続けた。戻ろうにも戻る方向もわからなくなっていた。完全に迷子だ。誰の助けもなく。自分自身の力もない。

 異世界転移か転生か分からないが、難易度が高すぎる。何かの能力に目覚めたり、ステータスが確認出来たりするものではないのかと嘆いたものの、僕にはこのか細い身体しか持ち合わせてはいないようだった。



 僕は今追われている。どすんどすんという足音と、木々をなぎ倒すような音も時折聞こえてきた。


 数日が経ち、森の中での生活もなんだか慣れてきていた。そんなときだ。

 身体の大きい化け物だった。顔があって人型の体型をしていたが、巨人だった。顔には大きな一つ目があり、ああ、ゲームかなんかでこんなやついたな、と思った。


 じろりとこちらを見た後、大きな棍棒を持ち上げ、こちらに向かってきた。

 僕は飛んで跳ねて転びながらも逃げまくった。森の中であの体は少し大きかったようで、木に阻まれて僕に追いつくことはなかった。

 けれどかなりしつこく追いかけてくる。巨体をずんずんと言わせながら、森をかき分けてくるのが分かる。何か追跡する能力があるのだろうか。僕が隠れて姿が見えなくなっても的確にこちらに迫ってくる。

 みえない場所にいると思っても、確実に迫ってくる音に耐えきれず走って逃げた。


 疲れた。もう逃げられない。岩の影に隠れたがもう追いつかれる。

 ここまでか、と諦めかけたとき、何か大きな音がしてずどんと辺りを震わせる。

 木々の隙間から鳥が飛んでいくのがみえた。恐る恐る、顔を覗かせると、一つ目の化け物がこちらを見ていた。


「うひゃ」


 変な声が出た。

 一つ目の化け物がゆっくりと倒れていく。ドシンと身体を地面に叩きつけた。

 理解が追いつかないまま、分かったことは、何かにこの化け物が倒されたということだけだ。一つ目の化け物は腹に大きな穴を開けている。何かが焦げたような匂いもこちらに漂ってきた。吐き気がする。

 逃げるようにこの場から立ち去ろうとすると声が聞こえた。


「あ、いた」


「え?」


 声がする方を見ると、空から何かが飛んで来ているのが分かった。

 古めかしいローブを着て、宙に浮かんでいる。

 ゆっくりと木々の中から降りてきた。人だった。


 フードを上げ、顔を見る。怪訝な顔をしていた。


「あんた、誰?」


 力が抜けた。ようやく人に会うことができた。そう思ったら涙が出てきた。数日だったけれど、こんな経験は初めてだった。死にそうになりながらもなんとか生きた。そしてあの化け物に追われたときにはもう終わりだと、確実に思った。


 そして今、目の前に、彼女がいる。


「え、なによ。なんで泣いてるの? ん、でもやっぱ見覚えあるかも。え、本当にワタリなの?」


「なんなんです。白俣さんですよね。え、本当に? 僕おかしくなりすぎて変な夢でも見てるんでしょうか。この前まで入院してようやく治って、酒を飲んでいたら、いつの間にか森の中にいたんですよ。これって変ですよね。

 やっぱ僕はおかしくなったんですかね。さっきも変な化け物をみたし、でかすぎませんかあれ、おかしいですよ。一番おかしいのは白俣さんですけど。なんで飛んでるんです? ていうか、なんでこんなところにいるんですか?

 僕、結構探したんですけど。何してるんですか、結婚したんじゃないんですか。なんなんでしょう。僕やっぱり変なんでしょ。それなら納得できる」


「あんた。泣きながらよく喋るわね」



「久しぶりに会ったっていうのに、なんかどうしちゃったのよ」


 ようやく落ち着いて、彼女の顔を見るとやはり涙が溢れそうになった。必死で我慢する。彼女はあまり変わらない。あの頃と何一つ変わっていない。もう数年が経っているというのに、彼女の姿は若いままだった。


「白俣さんこそ、どうして若いままなんです? やっぱり僕の方がおかしくなったとしか思えないんですが」


「それはもー良いわよ。若いのは、なんでかな歳を取らないような身体になっちゃったってことだと思うけど、私も実はよく分かってないの」


「本当に白俣さんですねえ。ていうかなんで、こんなところにいるんですか。僕の身体は若返っちゃうし」


「若返った? 私があの石、ああ、これこれ、今もぶら下げてるその石、私があげてから何年経ったの?」


「ああ、これ貰った後、白俣さんと会えなくなったんですよね。あれが大学の卒業する少し前だったんで、えーと七年? 今年で八年でしょうか」


「う、嘘でしょ! そ、そんなに?」


 なぜ嘘と思うのか、この八年どんな思いをして生きてきたと思っているのか、彼女に問い詰めたい。


 気を取り直した彼女は、思い出したかのように一つ目の化け物に向かっていった。何をするのかと思えば、身体を引き裂いていた。魔法かなにかなのだろうか、手を使わずに、化け物の身体が分かれていく。そして身体から何かを取り出すと袋にしまった。


「これを取り出さないと、化け物が復活しちゃうのよね。しかもアンデッド化なんかしちゃうし。まあこれも定番よね」


「はあ」


「それじゃあつかまって、私の今住んでるとこまで飛んでくから」


 飛んでくから、と言って彼女は僕の身体を抱きしめた。


「え? えっ」


「ちょっと暴れないでよ。変なところ触る気じゃないでしょうね。こうでもしないとあんた飛べないんだからじっとしてて」


 彼女の香りに包まれながら、僕はもう死んでしまうのかと思った。

 最後にいい夢を見れて良かったと、本気で思った。けれど下を見たらとんでもない高さの空を飛んでいることに気づいて、本気で死ぬかと思った。



 僕は死ぬことはなかったし、彼女の温もりや香りは夢ではなかった。

 彼女が空を飛んでたどり着いた先は、森の中にある小さな小屋だった。「ここが今の私の家よ」という彼女の笑顔は自慢げだった。


「それで、説明をしてくれるんですか?」


 彼女は僕を持て成すように、お茶を淹れてくれた。何の葉で淹れたのか分からないが、飲んだことのない味だったけれど、すっきりとした後味はなかなか味わい深い。


「え、説明って? アンデッドのこと?」


「違いますよ。なんですかその惚け方、いくらなんでも異世界かぶれしすぎじゃないですか?」


「いやいや、あんたはこっちに来て数日かもしれないけど、私はもう数年はいるのよ」


「数年? 数年って?」


「そうね。長くなるけど」


 僕は長くなるのは構わない。どころか、少しでも長く、彼女との会話を楽しんでいたかった。けれど、彼女の話は驚くことばかりだった。


「まずね。私の実家、結構古くてね」


「なんですかそのテンプレのような話の切り出し方。やっぱ白俣さんって本当に主人公気質なんですね」


「ちょ、ちょっと茶化さないでよ。本当のことなんだから」


 白俣さんの母は古い田舎の産まれだったそうだ。母親は、彼女が幼い頃に失踪してしまったそうだ。父に育てられ大人になるまでそんな田舎のことは忘れていたそうだけど、幼い頃にはその古い家に行ったことがあった記憶があるという。


「母の弟という人がいてね。叔父さんなんだけど、その人は神隠しとか失踪事件の謎を究明しているようなことをしていてね。私も異世界とか興味あったから話を聞いたんだけど」


 その叔父さんは、白俣さんの母親が失踪したのは、事件や事故ではなく、神隠しとかそんな超常的ななにかの結果なのではないかと疑っていたのである。


「実家には古い物が沢山あって、その中には世界を移動するための道具があると言ってた。本気にはしてなかったんだけどさ。でも面白そうじゃない? 話だけは聞いてたの」


 そんな中、叔父さんの知り合いという人が訪ねてきた。彼を知らないかと。彼女もしばらく連絡を取っていないと答えると、知り合いから彼が居なくなってしまったと聞いた。

 白俣さんは実家に連絡してみたが、叔父さんには連絡がつかなかった。


「休暇のときに一度実家に戻ってみたら、叔父さんが書き残した手紙が残ってた。異世界に行く方法とかいろいろね」


「それで異世界に来ちゃったんですか?」


「そんなわけ無いでしょ? 色々あったんだけど、あの頃結婚しろって父さんがしつこかったの。自分ところの会社にいる偉い人の息子だなんだって言ってうんざりしてたのよね」


「そんな話してました?」


「言ってないもん。あんたには」


「じゃあなんでですか」


「だって怖いじゃない。なんか私ってなんなんだろうって。このまま結婚するにしろしないにしろ、私ってこれからどう生きていくんだろうって思ったら怖くなっちゃって。あんたと話すようになってから、なんだか自分の世界が嘘みたいにみえた」


「いやいや、なんで僕と話すようになってからなんですか。僕なんかしました?」


 彼女はフードを深くかぶり直そうとしたが、もうローブは脱いでいる。恥ずかしそうに顔を赤らめ黙った。


「違うのよ。いやいや好きになったとかじゃなくて。なんかあんたと話してると、なんか、安心しちゃうのよ。なんかそれが怖いっていうか」


「は?」


 彼女の言っていることが分からなかった。理解するために整理したが、ますます分からない。彼女は僕の事が好きなのか? そうではないと言ってるが、そう言っているようにも聞こえる。僕は馬鹿なのだろうか。



「え、つまり告白する勇気がないから、異世界転移しちゃったんですか?」


「ば、ばかじゃないの? 告白するなんて誰が言ったのよ。告白する気なんてなかったわよ。なんとなく一緒にいれたら良いなくらいしか思ってないって。それがなんか怖くなっただけ!」


「告白じゃないですか」


「告白じゃないって。ああ、言うんじゃなかったわ」



「それで異世界転移しちゃった白俣さんのところに、なぜ僕はいるんでしょうか」


「うん、それなんだけど、あんた私に会いたいなんて思ってたわけでしょ?」


「何言ってるんですか」


「だって私は、あんたが私に会いたいと思っているならこちらに呼んであげようと思って召喚したんだから」


「え、じゃあ白俣さんがこっちに呼んだんですか」


「そうよ当たり前でしょ? だからあの石を渡したの」


 あの石は彼女がくれたサインのようなものだった。彼女が渡した石は彼女が持つもう一つの石と共鳴することがあるのだそうだ。


「その石を頼りに召喚したってわけ」


「僕、死にかけましたけど」


「仕方ないじゃない。召喚って言ったってどこに現れるか分からないんだから。探したのよ? 石があれば大体どこにいるか分かったからね」


「僕の身体若くなってますし」


「石をわたした時のことをこちらに記憶してあるからね。その時のあんたの情報しか持ってこれなかったから」


「白俣さんは何年たっているんです?」


「二年くらいかなあ。仕方ないのよ。魔法を学ぶのに時間かかったから。師匠がいるんだけどね。ずっと習っていたのよ」


「ていうか結婚したって聞きましたけど」


「へえ、あっちの私はそうなってるんだ。叔父さんの手紙には、失踪していなくなったあと、噂なんかが流れるんだって。私のお母さんもどこかの男と蒸発したなんて噂が流れたそうよ」


「写真まであったんですから、さすがに信じちゃいましたよ」


「なるほどね。勝手にそういう辻褄を合わせるように出来ているみたいね」


 僕が聞きたいのはそんなことではなかった。彼女だってもっと話したいことがあるはずなのに、なんだか遠回りすることに安心していそうな顔だった。


 お茶を飲む。ことり、と机に置いた。その音がなんだか静けさをもたらした。これが酒だったら良かったのにと、思った。だけど忘れたり、彼女の顔を見れなくなるのはもったいないとも思う。


 部屋に風が入り込んでいる。この小屋の窓は、窓ガラスなんていうものはなく、光だけじゃなく風や枯れ葉まで入り込んでいた。ふわりと彼女の髪を風がさらっていくのを眺めていた。


「なんで、僕に石を渡したんですか」


 彼女はだまったままだ。僕にくれた石とは違うけれど、そっくりな石を彼女はポケットから取り出した。ほんのりと光っている。


「わたしには恋愛なんてする勇気がなかった。それだけ」


 彼女は、ほろりと涙を流した。


 僕は飲み会のときに言っていた彼女の言葉を思い出していた。

 彼女は異世界にでもいかないと恋愛なんて向き合えない。そう言っていた。

 白俣さんが異世界に行ってしまったときから、僕らの恋愛は始まった。向き合うことが出来なかった彼女は、この石と異世界に自分の想いを託すことにしたのだ。僕がもし一生この石を思い出さなかったら、僕はここに来ることはなかった。


「僕もです。でも異世界に来ちゃったんですから素直になるしかないですね」


 そう僕が言うと、観念したのか真っ赤な顔をした彼女が「バカ」と呟いた。


 まずはこの世界に来てどんな風に過ごしてきたのか、とか。僕はあちらの世界でどんな風に過ごしてきたのか、とか。あの小説の続きはどうだったか、とか。話は山積みだった。


 もう酒を酌み交わす必要もない。

 まずはお茶の淹れ方から教えてもらいたい。

 僕も彼女に習って魔法を扱えるようになるだろうか。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。