第11話:『捕らえられぬ魔球、砂織の決意』
紀州ブラックベアーズ戦、五回裏。
マウンドに立つしみまるが解禁した「からくりナックル」は、スタジアムを支配する論理を根底から覆す、文字通り戦慄の魔球だった。
放たれた白球は、意思を持たない抜け殻のように宙を漂う。しかし、打者の手元に差し掛かった瞬間、見えない空気の壁に衝突したかのように、カクカクと不自然な鋭角を描いて折れ曲がる。
「データ野球」を金科玉条とするブラックベアーズの面々は、予測アルゴリズムが弾き出す数値の網をすり抜けるカオスな軌道に、幽霊でも見るかのような顔でバットを空に振った。
だが、真の異変は、それを迎え打つ守備側に起きていた。
「……ッ、ぐうっ! 取れない……!」
正捕手、白浜砂織の悲鳴に近い声が響く。
右に揺れたと確信した刹那、捕球のコンマ数秒前にボールが左へ跳ねる。砂織のミットは無情にも空を切り、硬球は彼女のプロテクターを鈍い音を立てて直撃し、バックネットへと無残に転がった。
「パスボール! ランナー進塁!」
静まり返る球場に、審判の宣告だけが冷たく響く。
二死三塁。一打どころか、一死球、一暴投で試合がひっくり返る絶体絶命のピンチ。
しみまるは駆け寄ってきた砂織と向き合った。彼女の左手は、あまりに不規則な衝撃を繰り返し受け続けたことで、土にまみれたミットの中で小刻みに震えていた。
「ごめん、砂織さん。僕のコントロールが……出力がまだ不安定で……」
「違うわ、しみまる君。コントロールの問題じゃない」
砂織は荒い息をつきながら、しみまるの目を射抜くように見つめた。
「この球、物理的に『捕球ポイント』を拒絶しているのよ。……まるであんたの怯えを投影してるみたいに、私の手から逃げていくわ」
三塁側、ブラックベアーズのベンチからは、卑劣な嘲笑が漏れ聞こえてくる。
「ヒヒッ、見てろよ。いくら打てない魔球でも、キャッチャーが捕れなきゃただの暴投だ。振る必要はねえぞ、黙って立ってりゃ勝手に点が入る!」
絶体絶命。スタンドの紀州プラムスファンからも、祈るような溜息が漏れる。
ベンチ裏では、専属メカニックの明日香が、血の気の引いた顔でモニターを睨みつけていた。
「ナノ単位の無回転制御。精度を上げすぎたせいで、スタジアムのわずかな気流の乱れを過剰に拾いすぎているんだわ。これじゃ人間業じゃない。……砂織さんの動体視力でも、限界だわ」
しかし、その時だった。
砂織がゆっくりと立ち上がった。彼女はユニフォームについた泥を乱暴に払うと、しみまるの胸元をグローブの芯で、力強く小突いた。
「しみまる君。……あんた、私を誰だと思ってるの?」
「えっ……?」
「私は紀伊プラムスの正捕手よ。あんたがただの『事故の被害者』だった時から、あんたの不器用な『からくり』を、誰よりも近くで受け続けてきた女よ。……もっと、自分勝手に投げなさい」
砂織はポジションに戻ると、プロテクターの紐を限界まで締め直した。彼女の構えは、もはや「捕る」ことを目的としたものではなかった。身体の全細胞をセンサーに変え、その一球を「止める」ことに全てを賭ける決死の構えだ。
彼女は、自分の中に眠る野生の感覚を呼び覚ます。
右投げ左打ちの捕手として培った、広大な視野。そして、打者の肩の入り方、呼吸、目の動きから、無意識に「次にくる景色」を逆算する職人技。
(計算じゃない。目で見ちゃダメなの。あの子が腕を振る瞬間の、人工筋肉が発する駆動音……その一瞬の『音のズレ』で、気流がどっちに爆ぜるか感じ取るのよ!)
運命の第四球。
しみまるは、自身の演算機能を沈黙させ、ただ一人の女性への信頼だけを指先に込めて腕を振った。
キィィィィン……。
放たれたナックルは、ホームベース上で狂った心電図のように上下左右に激しく振動する。
打者はバットを出すことすらできず、呆然とその光景を見送った。ボールは砂織の顔面、マスクの網目目掛けて一直線に飛び込んでくる。
バシィィィッ!!
乾いた爆音が響いた。
砂織はミットを動かさなかった。いや、ボールが最終的に収束する「未来の地点」に、最初からミットを置いていたのだ。
「ストライイクッ!! スリーアウト、チェンジ!」
一瞬の静寂の後、球場全体が割れんばかりのどよめきと大歓声に包まれた。
砂織は、痺れて感覚のなくなった左手を背後に隠しながら、不敵に、そして眩しいほど鮮やかに笑ってみせた。
「……ナイスボール。完璧に、あんたの『音』が聞こえたわよ」
しみまるの、鋼に覆われた胸の奥が熱くなった。
直球を失い、自分の体が他人のもののように感じられる恐怖。自分はもはや人間ではないのではないかという孤独。それを打ち消したのは、機械のスペックでも父の遺産でもなかった。
泥臭く、不格好に、それでも自分を信じて支えてくれる「仲間」という名の絆だった。
イップスという深い闇の中で、しみまるは「出力」や「回転」よりも尊い、真の『エース』としての出力を手に入れた。
勝利を確信し、マウンドから引き上げるナインたち。
だが、その歓喜の余韻を無慈悲に切り裂くように、球場の巨大オーロラビジョンが赤く明滅し、「緊急ニュース」を映し出した。
『野球界に激震。帝都タイタンズ、新戦力を発表。――完全自律型野球ロボット「T‐ゼロ」、量産およびリーグ参入を認可』
画面に映し出されたのは、感情を排した無機質なレンズの目を持つ、鋼鉄の巨体たち。
しみまるという「心を持ったサイボーグ」を否定するように、科学の粋を集めた「真の機械」が、今度は敵として、彼らの前に立ちはだかろうとしていた。
紀伊プラムスの快進撃に、かつてない冷たい影が落ちる。




