第10話:不規則な鼓動、魔球ナックル
直球という最大の「盾」を失ったしみまるは、練習場の隅で一人、動かなくなった右腕のソースコードを空虚に読み返していた。
視界に走るエラーログは、彼の絶望そのものだった。そこに、影を落とすように一人の男が立った。いつもは酒臭く、無愛想な老監督だ。
「……これを見ろ。お前の『からくり』が辿り着くべき、もう一つの終着駅かもしれん」
監督が差し出したのは、埃を被った古いビデオデッキと数本のテープ。そこには、かつてアメリカのメジャーリーグで魔術師と呼ばれた、伝説のナックルボーラーたちのモノクロ映像が収められていた。
画面の中で放たれる球は、時速100kmそこそこ。高校生でも打ち返せそうな鈍い球だ。しかし、その白球は捕手のミットに届くまでのわずかな間に、まるで酔った蝶のように不規則に、左右上下へと細かく、激しく揺れ動いていた。
「……回転が、全くない?」
「そうだ。ナックルは『投げない』ボールだ。指先で弾き、空気の抵抗にその身を委ねる。風の気まぐれだけが軌道を決める。これなら、お前の心臓を焼き切るような『超高回転』は必要ない」
監督はしみまるの、包帯の巻かれた鋼の指先を指差した。
「お前のその精密な人工筋肉なら、ボールの縫い目が産む摩擦を完全に殺し、回転を『絶対零度』に固定できるはずだ。……直球を投げるのが怖いなら、いっそ、腕を振るのをやめてみろ」
それから三日三晩、しみまるはマウンドで「無回転」という深淵を追い求めた。
指先のセンサーを極限まで研ぎ澄まし、リリース時に生じるミクロン単位の摩擦さえも、人工筋肉の逆位相振動で打ち消す。だが、それは想像を絶する精密作業だった。
「……ダメだ、どうしても、一回転……いや、半回転してしまう」
傍らでボールを拾い続ける明日香が、顔を赤くして叫んだ。
「もうやめなさい! 出力を上げるより、『力をゼロにする』方が何倍も難しいのよ! 制御回路が過負荷で焼き切れちゃうわ!」
「……いや、できるはずだ。父さんの遺産が、何かを伝えようとしてる……」
しみまるは、網膜に浮かぶ演算表示をすべてオフにした。
脳内チップによる計算を捨て、ただ右腕に宿る「震え」に意識を沈める。
直球を投げようとすると、心臓が恐怖で不規則に脈打つ。その「不規則な鼓動」を、ノイズとして切り捨てるのではなく、指先の「微細な不規則制御」へと転換する――。
キィィィ……。
高周波の絶叫ではない。古時計の秒針が刻むような、静謐な駆動音が響いた。
放たれた一球。
それは、驚くほどゆっくりと、意思を持たない抜け殻のように宙を舞った。
しかし、受ける白浜砂織のミットに届く直前、白球は突如として左に急旋回し、直後に物理法則を無視して上へと跳ね上がった。
「きゃっ!? な、何今の……捕れるわけないでしょ、こんなの!」
白浜が差し出したミットを、ボールが「避ける」ようにすり抜けていく。バックネットに激突したボールは、一回転もすることなく、縫い目を見せたままポトリと落ちた。
「……できた。これが、ナックルだ」
翌日。紀州ブラックベアーズとの公式戦。
相手ベンチの奥では、最新鋭のタブレットを操るデータアナリストが冷笑を浮かべていた。
「しみまるの直球封印は確定済み。現在の武器は110キロ程度の緩い球と、前回のスローカーブのみ。全打者、一歩踏み込んでフルスイングしろ。ガラクタをスクラップにするぞ」
5回裏、1対1の同点。ランナー二塁のピンチでマウンドに上がる、背番号19。
ブラックベアーズの打者は、餌を見つけた猛獣のようにホームプレートへ身を乗り出した。
「おいおい、そんなションベン小僧みたいな遅い球で、プロが抑えられると思って――」
第一球。
しみまるの右腕から放たれたのは、時速わずか92kmの「死んだボール」。
打者の脳内データが、「絶好球」だと叫ぶ。完璧に捉えた、と思った瞬間。
白球は空中で不自然に「静止」したかのように揺らめき、打者のスイングの軌道から、カクンと一段階下に「消えた」。
バキィィィッ!
芯を数センチ外された特注のカーボンバットが、無残な音を立てて砕け散る。
「……は?」
打者は、ボテボテの投ゴロに倒れながら、腰を抜かしたようにしみまるを見上げた。
球場全体を支配したのは、歓声ではなく、理解不能なものを見た時の戦慄だった。
直球を奪われたという「絶望」から産まれた、物理法則をあざ笑うカオスの揺らぎ。
最強のジョーカー、しみまる。
彼は今、速さという呪縛から解き放たれ、真の『からくりエース』としての、孤独で気高い階段を昇り始めていた。




