第五節
鼻孔をくすぐる甘い香りがした。
次に体の下側にある柔らかな感触で、自分が横になっていることが分かる。瞼を持ち上げると、額に鈍い痛みが走って私は思わず顔をしかめた。
「……っ、てて」
木目張りの天井には明かりの灯っていないランプが、夜の役目を静かに待つように吊るされている。
窓から差し込んで来る光が少しだけ眩しくて、私は下がりそうになる瞼を必死に持ち上げながら、上体を起こすと――
「——よかった、気が付いたのか」
「えっと、唯一郎さん? それにここは……?」
声がした方向に視線を向けると、私のことを心配そうに見つめる唯一郎さんがいた。ずるっと額から冷たいものが落ちて、私のお腹の辺りに着地する。
状況に思考が付いて行かない。
確か私は四楼さんに言われて多々美に来て、指定されていた部屋の前で……急に開いた扉に額を殴打されたんだった。それで気を失って、たぶん今に繋がる。
一瞬辺りに視線を送ると、それほど広くない部屋だった。
私が寝ている寝台以外にはこれと言った物もなく、ただ仮眠を取るだけの部屋の様な様相。
私の質問に唯一郎さんはこくりと頷いた。
「ここは『神楽座』の事務所、のようなとこだ。それにしても驚いた……まさか扉を開けたところにアンタがいるなんてな。結構勢いがあったから、無理せずもう少し休んだ方が良い」
「わかりました、ありがとうございま――ひゃっ⁉」
私の喉から変な音が出る。
それは唯一郎さんがグイッと距離を詰めてきたからだ。そのまま細く長い指が私の額に触れ、同時にビリっと痺れるような痛みが襲う。
冷たい、でもどこか安心できる指の感触。不器用に揺れる指先が離れると、落ちていた手拭いを私に渡した。
熱がこもって赤くなりそうな視界は、別の意味で意識を失いそうだった。
そんな私へ、気にした風もなく唯一郎さんは安心したように笑みを浮かべる。
「少し腫れてるけど、傷にはなっていないみたいだな。女優は顔が命だっていうのに……今度からはちゃんと気を付けるんだぞ?」
「は、はい……すみません」
尻すぼみになりながら私は何とか言葉を紡ぐ。
彼の顔を見れない。くらくらと揺れる視界の先で扉が開く。
「京ちゃん起きたかな――」
「「っ!」」
ビクッと、驚きで唯一郎さんの指が震えたと思った瞬間に、彼の指は私の額から一瞬で離れる。
その反応に少し名残惜しさがあって――って、私は何を思ってるの⁉
何もやましいことはないのに、私の心臓も彼の緊張を感じ取ったように心拍数を上げて変な汗がぶわっと出た。
先ほどまでの熱っぽい思考が一気に変な方向へ行く。もう何が起こってるの分かんなくて、頭から湯気が出そうだった。
そんな私たちの視線の先で、扉の隙間から顔を出したのは特徴的な金髪の男性の四楼さんだった。
私と唯一郎さんが変に焦っている様子で何かを察したのか、心配そうだった表情から一転して軽妙な笑みを浮かべる。
「――えーっと、二人きりの時間のお邪魔だったかな?」
「四楼さん、誤解のある言い方はやめてください」
「本当に誤解かなぁ? ねぇ、京ちゃん?」
「あ、いや本当に何もなくて……それと怪我はまだ痛むんですけど、たぶん大丈夫だとは思います」
私が言うと、四楼さんは「そっか、ならそう言うことにしておいてあげよう」と言いながら部屋に入ってくると、入り口近くにあった椅子をずらして腰を下ろす。
「そしたら、京ちゃんはそのままで大丈夫だから話しをしようか。唯一郎くんも席は外さなくて大丈夫だからね」
「……わかりました」
そう言われて、立ち上がろうとしていた唯一郎さんが意外そうな表情を浮かべて再び椅子に腰を下ろした。
なんだか居づらそうな表情の唯一郎さんだったけど、切り替えるように肩で息を吐き出す。一応私もそれに倣って息を吐き出した。
「それにしても、本当に災難だったね。扉を開けた先に京ちゃんがまさかいるとは思わなかったんだ……本当に申し訳ない」
「い、いえ! 私の方こそ不注意だったので謝らないでください!」
椅子に座った姿勢で頭を下げる四楼さんに、私は慌てて言った。実際にあれは事故みたいなものだし、私も別段期にはしていない。
頭を上げた四楼さんは「それならよかった」と笑みを浮かべていた。
「色々と想定外なことになってしまったけど、そしたら早速『神楽座』の話しを進めていこうと思うんだけど、それで大丈夫かな?」
「は、はい! お願いします――」
◆◇◆◇◆
――数日後、東都を走る馬車にて。
馬車の揺れるのは、斜面にある石などが原因だと聞いたことがある。カラカラと回る車輪に小石が当たると、小刻みな振動となるらしい。
つまり今は、あまり舗装のされていない道を走っていることになる。
「……」
私は窓の外を眺めていた。
東都の中心地ともいえる多々美からさほど時間は掛からないと言われていたけど、太陽はすっかり私たちの頭上に鎮座していた。
緩やかな速度で流れていく景色は人の活気で溢れていた。でも、今の私はそれを素直な気持ちで眺めることはできなくない。
「っ――」
――と、窓を眺めていた視線の先に人垣ができているのが見えた
そんな彼らの視線の先を追っていくと……数日前にあったのであろう『不審火による火事』によって黒焦げた建物が視界に入る。
もう消火は終わっている筈なのに、流れる五月の風に乗って焦げた木材の匂いが鼻先を掠めるよう。
そんな幻覚を覚えてしまうほど凄惨で、恐ろしい光景。
自然と、私は袴の上に置いていた手に力が入る。
同時に胸の中に宿るのは、決意に似た感情だった。弱い私が『本当に大丈夫?』内側から問いかけてくるが、それに強がりの仮面を被せて声を届かなくさせる。
きっと、求められているのは『理想の私』だ。求められている存在以外の私はいらいない。
恐怖で竦みそうになる心を誤魔化すように、私は目の前を流れていく風景を目に焼き付けた。
本当は怖い……でも、それと同じくらい逃げ出すわけにはいかない。
だってこれから私は――
「――おい、綾瀬川」
と、そんな私の肩にぽん何かが置かれた。視線を向けると、足元に置いていた荷物を肩に担ぐ唯一郎さん。
彼は私の足元に置かれた荷物を指さす。
「もうそろそろ到着らしい。下車の準備は大丈夫か?」
「唯一郎さん……はい、大丈夫です。四楼さんたちはもう到着してるんですよね?」
「あぁ、恐らく。俺とアンタが向こうにつく頃には、神主の人たちに話を付けて『取材』をできるようにしてくれている筈だ」
私の質問に応えた彼が、私の方へ悪戯っぽい笑みを浮かべてくる。
「緊張しているのか?」
「緊張は、多少してますね。こんな経験できると思っていなかったので……」
でも、と私は自信家の仮面を付けた。
きっと唯一郎さんは、弱気になりそうになる私に火を点けるために、わざとそうしてくれたとわかっているから。
だから、私は精一杯強がりの笑みで返す。
「今は楽しみです。どんな形であったとしても、これから夢の舞台に上がれるわけなので」
「そうか、なら良かった」
と、そこで馬車が目的地に到着したことを告げるように止まった―――
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