第二節
お仕事を終えて外に出ると、五月の太陽は夕暮れの一歩手前といった様相だった。
朗らかな風が流れる東都の下町は、見慣れ始めた人の流れで今日も賑わっている。
和装にカンカン帽を身に着けた男の人と、隣を歩くのは水色の女洋装に身を包んだ、同じ色の日傘を持つ綺麗な女の人。
風車を手に持つ少年がみている視線の先には、季節外れの風鈴を売る露店の人が陽気な笑顔を浮かべていた。
木造家屋と煉瓦造りの建物が入り混じる光景は、どこか背伸びをする子供のような雰囲気。
菓子屋から漏れる雑談の音に交じって、遠く汽笛が快活な音を上げる。
私はそんな町の雰囲気がとても好きで、とても居心地がいい。
東都――というよりも、日ノ圀は三十年ほど前にあった『和洋統合令』によって大きく変わったらしい。
それまで他の国との交流を断絶していたのを取りやめ、西洋から入ってくる文化を積極的に取り入れるようになった。
それまで着物が中心だった服装も洋服という文化が取り入れられ、その他にも食事に大衆娯楽なども大きく変わったのだという。
というのも、私が生まれたのがこの『和洋統合令』が発令されてから十年以上後の話で、物心ついた時にはこんな風に変わっていく町しか知らなかったからだった。
絶えず変化をしていて、そうやって変化していく町並みが自分に重なって居心地がいいのかもしれない。
私はそんな町の流れに逆らうように、下町を北へ進んでいた。
「あ、ここだ」
喜美さんから教えてもらった道の通りに進むと、小山に続く石造りの階段があった。下町の喧騒は遠くなっていて、風が木々を揺らす音だけが心の中を吹き抜けていく。
「よしっ」
私は最近買ったばかりの革製の鞄を背負い直すと、そのままずんずんと階段を上っていった。
雑木林といった風の、日の光が薄くなった階段を進むのは少しだけ恐怖心を煽られるけど、視界の先で終わりを告げるように差す日の光のおかげで、自然と引き返す気にはならなかった。
少しして、視界が開けた。
「わぁ……」
階段終わりにある鳥居をくぐった先には、簡素で小さいながらも立派な造りの拝殿があった。
群青の瓦とそれを支える松の木造りの拝殿は、経年を感じさせながらもしっかりと手入れされているようで、濃淡のある茶色をしている。
左手に見えるのは手水舎のようで、水が流れる音が葉擦れの音に交じって聞こえた。
私の足元から拝殿までは薄灰色の石畳が続いていて、まるで私のことを迎え入れてくれているよう。
小山の頂上をそのまま開拓したようで、下からでは分からなかったけど下町を一望できるようになっていた。
西の方角を見ると、太陽が地平線へと差し掛かって、空を鮮やかな朱色に染め上げているのが見える。
「綺麗……」
私は思わず呟いて、いけないと首を横に振った。
今日は早く帰って次の劇団のオーディションの準備もしなくちゃいけない。
時間は有限で、まだまだ未熟な私が持て余していい時間はちょっとだってないのだ。
それに神社に夜お参りするのは、祀られている神様へ失礼になってしまう。
鳥居に一礼をして、手水舎で口と手を清めてから石畳の参道へ戻った。
拝殿の方へ進んでいくと――
「――っ?」
西日に照らされる人影がいた。
人影はお賽銭箱に上がるための石階段の右端に座っていて、膝元に置いた雑記帳に万年筆を走らせている。
体格からして男の人だろうか。
近づいて、最初に目に留まったのは風に揺れる赤茶色の髪の毛。それがすぐに、西日を反射させているからだと理解して、同時に透き通るような黒髪なのだと分かった。
深い藍の鮫模様の着物と、その上には宵闇を思わせるような黒紫の羽織りが細く長い体躯を覆っている。
「……ん?」
近づいて来る私の気配に気が付いたように、その人は膝元から視線を上げた。
「あ――っ」
息を呑む、とはきっとこういう時に言うのだろう。
同時に、心臓の鼓動が一段階早くなって頬に熱が宿った。
風に揺れる前髪は眉毛に掛かるくらいの長さ。
夜の海を思わせる深い黒の切れ長な二重の眼差しと、すっと通った鼻筋にきめの細かい肌はあまり日焼けを知らないようだった。
儚げで寂しげ、それでいてどこか強い意志を感じさせる風体の男の人。
雲間を抜けた西日が彼を再び照らし、ただ彼が座って何かを書き留めているだけの風景を非日常の舞台の上のように演出する。
そんな幻想的な光景に足を止めて見惚れていた私に、その人は小首を傾げた。
「アンタ、ここの参拝者か?」
「あ、あの……はい、そんなところです」
低く、だけど威圧感のない声色。
まさか急に話しかけられるなんて思わなくて、私は尻すぼみになりながら言葉を紡いだ。
そんな私の様子を気にした感じもなく「そうか、こんな時期に珍しいな」とだけ呟くと、再び視線を膝元の方へ移す。まるでもう会話は終わり、といった感じだった。
気まずい空気が流れる。
あ、でも時間ないんだった……私は弱気になりそうになる心を何とか押し込んで、お賽銭箱の方へと足を進めた。
本坪鈴から垂れ下がる鈴紐に手をかけ、がらんがらんと鳴らす。それから財布の中から既に取り出していた小銭をお賽銭箱の中へ投げ入れた。
深めに二礼してから、胸の前でぱんぱんと二回拍手をする。
願い事はもちろん『これから』のことについて。
奇跡が起きて昨日の劇団に受かっていますように、そして早く舞台に立てますように……あとは、健康かな。
それと一番大事なこと――私を『女優・綾瀬川 京』にしてください。
きっとこれが、一番強いお願い事。
私は私が好きじゃない。
だから、好きじゃない私が好きになれる様になりたい――だから、そうなれるように合わせた手を握りこみながら強く念じる。
ある程度お願いを心の中で呟いたところで、私はもう一度礼をして瞼を持ち上げた。
「……よしっ」
そのまま帰るために石段を下りたところで――
「――アンタ、舞台女優になりたいのか?」
「えっ」
驚いて声の方へ振り向くと、さっきの男の人が雑記帳へ視線を落としたまま呟くように言った。
同時に、私の頬に羞恥心という名の熱がどんどん上ってくる。
「なっ、え――っ?」
「声に出てたからな。悪い、聞くつもりはなかったんだ」
「さ、さっきの声に出てた……⁉」
心の中だけの……しかも一番恥ずかしい部分を聞かれた私は、へなへなと足の力が抜けてその場に蹲る。
まさか赤の他人に――しかもこんな子供っぽい目標を、こんな綺麗な人に聞かれちゃうなんて!
昨日のオーディションでの失敗が可愛いものに思えてしまうくらいだ。今すぐにでもここから逃げ出したい……。
「ど、どうしたんだ急にうずくまって……具合でも悪くなったのか?」
「うぅ、体調はとってもいいです……まさか大きい独り言になってると思わなくて、それが恥ずかしくて、って感じです……」
「恥ずかしい? 今のどこに恥ずかしいところがあったんだ?」
私が泣きそうになってる顔を持ち上げると、西日を反射させる瞳と視線が絡んだ。
瞬間、私の中の時が止まる。
近くで見る彼の顔は、細くしなやかな柳を思わせる流麗さがあった。
お互いの間を通り抜けていく風が、いたずらに私と彼の髪の毛を揺らすのだけが嫌に鮮明で、何よりも穏やかな時間。
何かを言わなきゃと必死に回る脳みそは、接点のない歯車の様にぐるぐると意味のない運動を続ける。
そんな思考の中で、一つの疑念が浮き上がった。
(なんで、笑わなかったんだろう――)
――私の夢はいつだって『みんな』に笑われた。
『えぇ、京ちゃんが舞台女優になるの? そんなにおどおどしてる女優さんウチは知らなぁい』
女学院の時の演劇部の女子の言葉が反響する。
『あのなぁ……上がり症のヤツが大人数の前で舞台に立てるのか? 別に無理とも言わないが、お前さんとこの家柄なら別に無理にそんなことしなくても縁談には困らないだろ?』
進路を聞かれた先生にもそう言われた。
『別に、無理に目指す必要ないんじゃない? 向き不向きはあるだろうし、それに京ちゃんの性格だったらすぐに辞めたくなると思うよ』
幼なじみの男の子は、少し心配そうな表情でそう言った。
『お前には無理だ』『もっといい道がある』『あの子が女優は厳しいんじゃないかしら?』…………。
こんな私の夢を笑わないで聞いてくれたのは両親と、あとは優しい喜美さんくらいだろう。
だけど、笑われ過ぎた私にはその三人すら、どう思っているのかさえ分からなくなっていた。
たぶんだけど、三人は私を傷付けないために『君ならなれるよ』と優しい言葉を投げてくれたに過ぎない。
でも、この人はその三人とも違う。
真剣に私に向き合おうとしてくれている。
どれくらい時間が経っただろうか。
彼は私の言葉を待っているように、ただ静かに視線をこちらへ向け続けていた。
私は大きく息を吐き出して、震える口で言葉を続ける。
「あ、あの……どうして貴方は笑わなかったんですか?」
「笑うって何を?」
一瞬思考が空白になりそうになる。
でも、ここで言葉を詰まらせたらいけない気がして、私は必死に言葉を紡いだ。
「私みたいな冴えない女が女優を目指すこと、とか? 普通に考えたら女優になれる人って綺麗で、華があって、明るい人だと思うんです」
「確かに、俺の知ってる女優もそんな奴らが多いかもな」
真顔で呟かれた言葉に私が内心でやっぱりそうだよなぁ、って思ってると「でも」と彼は言葉を続ける。
「適性の話をしてるんなら、アンタの言う通りなんだろう。でも、それと俺がアンタを笑うことになぜ繋がるんだ? 俺はそこを聞いている」
「だ、だって普通に考えたらおかしくないですか? 私みたいな冴えない人間にはなれっこない目標を言ってるなんて馬鹿みたいだし……それに、なれないなら最初から目指さない方がいいのかなって自分でも思ってて」
「なるほどな……」
私の言葉を聞いた男の人は顎に手を当てる。
なんだか目を離してはいけない気がして、西日が差す彼の横顔を私は静かに見つめた。
彼の口が動く――
「——つまりアンタは『神様に頼りたいくらいの叶えたい夢を諦めろ』って俺に言って欲しいのか?」
「っ、それは……っ」
胸の奥底を撫でられたような、痺れるような感覚が走る。
誰にも触れられたくなかった場所を見透かされたようで、呼吸がうまくできない。
でも、ここで黙り込んだら駄目だ。
私はぎゅっと拳を握って――強がりの仮面を演じる。
「べ、別に諦めたいわけじゃないんです! ただ、上手くいってないだけで本当はもっとちゃんと出来るはずで、だから決して諦めたくはないです……」
最初こそ勢いがあったけど、後半にかけて私の言葉は失速していった。
それと同時に、自分でも驚いてしまう――こんな弱音、今まで誰に言ったことがなかったから。
そんな私の言葉を聞いて、男の人は安心したように微笑む。
それまで彼を包んでいた硬派な印象が消えた、優しく穏やかな笑みだった。
「そうか、それならいいんだ。きっと神様って奴らは不器用で気まぐれだけど、アンタの頑張りは見てくれてると思うからな。それに、アンタが必死に何かを願ってる姿は綺麗だったか――」
——と、言葉の途中で切って男の人は口元を腕で隠した。
その瞳にはしまった、という感情が宿っていて……最初は言葉の意味が理解できなかった私も、その言葉の意味が分かっていくにつれて脳みそに熱が籠っていく。
私が願ってる姿が綺麗……?
「ぁ、っと……綺麗、ですか……?」
「本当に変な誤解はしないでくれ何かを必死に祈ってる人は総じて綺麗に見えてしまうんだ決して何かやましい事があったとかそういう変な意味があった訳じゃない……っ」
早口で捲し立てて来て、私は少し圧倒されながらも「だ、大丈夫です分かってるので……」となんとか返答。
男の人は私のその様子に安心したように大きく息を吐きだした。
少しの沈黙が流れる。
私はその気まずさを紛らわすために、さっき彼が言った中で気になっているものを聞いてみることにした。
「えっと、さっき言ってた『神様が不器用で気まぐれ』ってどういう意味だったんですか? 私の知ってる神様の雰囲気と違って……それに、貴方はなんだか神様を知ってるみたいな感じだし……?」
私の質問に少し落ち着きを取り戻したのか、それでもちょっと照れくさそうな雰囲気を持った顔で私の方を見た。
なんだか今までの彼の雰囲気との落差が可笑しくて、なんだか自然と頬が綻んでしまう。
「神様って言葉を使ったからややこしかったかな。例えば、何かを願うって基本は『夢とか目標に対して叶います様に』って願うだろ?」
「確かにそうですね。さっきの私のお願いも似たような感じでした」
私が頷くと、彼は言葉を続けた。
「そんな目標とか夢はあくまで『明日を生きていくための原動力にしか過ぎない』ってことだ。人はそれを神様へ願うって形にして祈るけど、全てが叶うわけじゃない。機会や立場……あとは人に恵まれないこともあるだろ?」
視線を西日の方に移す男の人に釣られて、私も「はい」と頷きながら視線をそちらへ向けた。
太陽はちょうど遠く見える山間の中に消えていこうとしている。
夕暮れに沈み始めた下町から、ガス灯の明かりがつき始めていて、ゆっくりと夜の闇の中に世界が飲み込まれ始めていた。
「でも、俺も最近気が付いたんだが、きっとそれは全てじゃない。大事なのはその道行の中で何を学び、得るかだと思うんだ」
「学び、得るですか?」
男の人が頷いたのが視界の端で分かる。
「そうだ。だからアンタの言ってた女優への道のりも、肩肘を張らずにその道行を楽しんでいくことが大事だと俺は考えている。神様も人間と同じで辛気臭いところよりも楽しんでるやつの隣にいたいと思うんだ。だから、その夢が叶いっこ無いってアンタを笑う意味なんて俺にはないよ」
「楽しむ……わかりました、頑張ってみます!」
男の人の方を見ると「頑張るのはいいが、ほどほどにな」と苦笑いに似た笑みを浮かべていた。
私はそのまま立ち上がって、歩き出す。
数歩歩いたところで肩越しに振り返ると、彼は再び雑記帳に視線を落としていた。
私はまた前を向くと階段の方へと歩き出す。
ここに来る前の悩みが少し和らいだように、頬を通り抜けていく風はいつもよりも陽気なように思えた。
◆◇◆◇◆
京が立ち去って、すぐのこと――
「――唯一郎くんにしては珍しいこともあるじゃないか。あんなにお喋り出来たんだね」
「あ……四楼さん。お疲れ様です。見てたんですか?」
拝殿の裏側から砂利道を踏んで歩いてくる声の主に、雑記帳に落としていた視線を落としていた男――佐伯 唯一郎は、少しばつの悪そうな表情を浮かべる。
そんな彼に四楼と呼ばれた男性は、あえて彼の雰囲気を無視するように軽妙な笑みを浮かべていた。
くるくるとした特徴的な電髪は、東都の住人ではまず見ない金髪。
背の高い方である唯一郎よりも高い体躯は、深い茶の洋礼装に身を包んでおり、その上には浅葱色に色とりどりの扇があしらわれた一見すれば女物のような羽織を羽織っていた。
そんな四楼がぱちん、と指を鳴らすと彼の背後から狐面を被った巫女装束の女性が虚空から現れる。
スラッグのポケットに仕舞っていた紙を彼女に渡すと、無言で拝借した彼女は一歩後ずさったと同時に再び虚空の中へと消えた。
そんな奇怪な様子を見慣れているのか、唯一郎はさして驚いた風もなく見つめる。
「見ていたと言うよりも、聞いていた感じだね。それよりも僕は君が意外にお喋りなことに驚いているよ。もっと君は無口だと思っていたけど、意外と女の子には甘いのかな?」
「そんなことないですよ。ただの興味本位です」
茶化すように言う四楼に、唯一郎は内心に宿った照れを隠すように頭の後ろを雑に掻きながら返答する。
そんな唯一郎の要素を楽しむように、四楼は薄く笑みを浮かべながら「じゃあ、そう言うことにしておいてあげよう」と言った。
「それよりも、彼女は何というか……うん、すごくいいね。君がお気に入りにするのも納得だよ」
「誤解しか無い言い方はやめてください」
「あはは、ムキになって反論するあたり自覚あるんじゃ無いかな? その証拠に、彼女が立ち去ってからの方が君の筆は進んでいるようだしね」
四楼がスッと刺す指の先には、唯一郎の膝元に置かれた雑記帳があった。
痛いところを突かれた唯一郎は、何かを諦めたように深く息を吐き出す。
山間に落ちていた夕日は、もう少しすれば完全に落ちる頃合いだ。
一条だけ差し込む濃い橙色の光に目を眇める四楼の方へ、唯一郎は若干非難めいた視線を送る。
「会った時から思ってたんですけど……四楼さんは腹の黒い人ですよね」
「褒めても何も出ないよ? それに腹が黒いよりも世渡り上手って言って欲しいね」
鳥居に向けて歩き出す四楼の背を、唯一郎も手荷物をまとめて追いかける。
石畳を歩く二つ分の足音を確認して、四楼は肩越しに振り返って言った。
「そしたら決まりだ――彼女を僕達の『神楽座』に加入させよう」
唯一郎は無言でその言葉に首を縦に振ると、それに満足したのか四楼は前を見たまま振り返ることはなかった――
◆◇◆◇◆
――無人となった祈結神社には、静謐さだけが残った。
ただ、周りの木々が風に揺れる音の中には『その運命』を喜ぶような音色が混じっている
『人の子ら』はまだこの出会いが東都――いや、日ノ國全土を巻き込む大きな潮流になることを知らない。
否、それは神にさえも分からないことだった。




