第一節
東都・下町のとある一角の喫茶店にて——
――外から流れてくるのは、馬車が目的地に向けて地面を踏む軽快な音と、五月の陽気に浮かれた下町の住人の笑い声だった。
楽しそうだなぁ、と私——こと綾瀬川 京は他人事のように考える反面、人生ってどうしてこうも上手くいかないんだろうとも思う。
愉快な人たちの声が、まるで自分のことを笑っているようにすら思えた。
考えすぎかもしれないけど、上手くいってない時はどうしたって、負の方向へ向かう思考を止める事はできない。
「……楽しそうだなぁ」
気を紛らわすように小さく呟いて、店内を見渡した。
『喫茶・しをり』。
人生の栞を挟む感覚で、小休憩の場所にしたいという願いが込められた素敵なお店。
そんな木造りのカウンターが目立つ喫茶店は、テーブル席にもお客さんの姿は見えない。
先ほどまでは昼下がりの喫茶時間を楽しむ常連さんがいたが、みんな仕事やら用事やらで帰ってしまって、今は閑散としている。
人の気配はカウンター越しでお皿を拭いている店主にして私の雇い主の女性——喜美さんがいるだけの静かな空間だった。
齢三十五歳にして、白磁のように滑らかで綺麗な肌。
化粧は最低限に抑えているけど、逆にそれが彼女の大人としての『背伸びをしない美しさ』を引き立てている。
目を引く真っ白のエプロンの内側には、橙色を基調にして白の立涌模様が入った着物が、ピンと伸びた背筋にお団子でまとめられた髪型によく似合っていた。
喜美さんを目当てでお店に来る男の人もいるのも納得の美人さんだ。
私は切り替えるように、視線を店の扉の硝子に反射する自分の体へ視線を向ける。
朱色の上に白の線が走る網代模様の着物には、喜美さんと同じように白いエプロンを身に着けていた。
肩元まで伸びた髪はお下げにして、前髪を綺麗に切りそろえられている。
幅が長い奥二重の瞳は濃いこげ茶色をしていて、洋喫茶よりも街道沿いにある茶屋の娘と言われた方が納得できる風貌だった。
体全体を包む雰囲気にはまだ幼さが張り付いている。
つまりは大人の雰囲気をまだまだ纏えていないってことだ。
あと十年で私は喜美さんの様になれるのだろうか……なれる気がしない。
もっと変わらないと――私は『あの時』の自分から変わるって決めたから。
でも、変わらない現状と目標との差を考えると、何度もため息が出てしまう。
「……はぁ」
「どうしたの京ちゃん? 溜息なんて吐いてたら幸せが逃げちゃうわよ?」
喜美さんはぱっちりとした二重の瞳を私の方に向けながら、少し呆れたように笑みを浮かべた。
私は切り替える様に、下がっていた気持ちを無理矢理盛り上げる。
「だって、ぜんっっっぜん舞台のお仕事ができないんですもん! 溜息の一つだって吐きたくなりますよぉ……」
「あらあら、そうなのね……あれでも、お仕事できないって昨日受けてきた劇団面接だっけ? 受かる自信あるし、お店にも顔を出せなくなるかもって息巻いてなかった?」
「そ、それは――」
——そう言われて脳裏を過るのは、昨日あったオーディションでの出来事だった。
上がりすぎて自己紹介で言おうとしてた内容を飛ばし、それで焦ってしまって台詞読みでかみかみになってしまい、それを何とか挽回しようとして演舞を行うも、盛大にこけて鼻血を出す始末。
帰り際、合否は後日お知らせしますって言われたけど、結果なんて分かりきってることだからその場で落としてほしいくらいだった。
思い出すだけで顔から湯気が出てしまいそうになる……あぁ、穴があったら入りたいってこの事なのかな。
そんな私の様子を察してか、喜美さんはそれ以上聞いてこなかった。その代わりとでもいうように「あら、いけない……夜の仕込みしてくるから、京ちゃんが上がるまでお店番お願いしていい?」といって奥へと引っ込んでいく。
私は気の抜けた返事をしながら、日の光が差し込む窓の外を見た。
「……頑張らなきゃなぁ」
ううん、ここで弱気になってどうするの!
私は気合を入れなおすようにパンっと頬を叩く。うじうじしてちゃ昔のままだし、切り替えなきゃ。
こんな私でも舞台の上でなら変われる。
だから舞台に立って、あの日見た『奇跡』を今度は私が誰かに見せたい。
「ううん、頑張るぞー!」
現状は女優の卵以下の存在なんて、一番私が分かってる。
でも、それを嘆いてたって変わらないし、何にもならない。
そのためにも今頑張れることを頑張るのが大事だし、そういう全力な女の子を『京』にするって決めたんだ!
そうと決まれば掃除から、とカウンターとテーブルを拭く用の布巾を手に取ったところで――
「――あ、そうだった京ちゃん。言い忘れてたわ」
「き、喜美さんっ! お店の奥に行ったんじゃ……っ!」
店の奥へと引っ込んでいた喜美さんが、何かを思い出したような表情でひょこっと顔を出した。
もしかしてさっきの大きい独り言聞かれてた……⁉
恥ずかしさで湯気が出そうなほど赤くなった私が視線を向けると、そんな独り言を聞かないふりをしてくれた喜美さんが笑顔のまま続ける。
「今日ってもうすぐ上がりの時間よね? もし暇があったら近くの『祈結神社』に行ってみたらどうかしら?」
「え、えーっと……『祈結神社』ですか?」
聞き馴染みのない、といった私に「そっか、京ちゃんはこの辺りの出身じゃないから知らなかったかしら?」と質問が投げ返されたので、私はこくんと首を縦に振った。
「祈結神社、といっても私たちがそう言ってるだけで、本当の名前はもうわからないの。でも、この辺りの人たちは昔から『祈結神社にお参りしたら願い事がかなった!』なんて言われてるくらいなのよ」
「そう、なんですね」
半信半疑、といった感じに頷く私に喜美さんは頷く。
「あくまで願掛けみたいなものよ。それに神様へ目標を伝えておくことで、その目標は自分だけのものじゃない感じがしない?」
「うーん……言われてみれば、そうかもですね」
少し考えながら答えた私に「じゃあ私は仕込みに戻るから、上がるときは教えて頂戴ね」と言って、喜美さんは再び奥のほうへと戻っていった。
「……今は神様にでも頼ってみたい、かな」
お仕事終わったら行ってみよう。
私はむん、と気合を入れなおして掃除を再開させた。
◆◇◆◇◆
―—今にして思うと、運命のようなものだったのかもしれません。
それは祈結神社を訪れたことで、本当に私の運命が変わってしまったのだから。
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