第六節
「——いったん止めようか」
四楼さんは、ぱんと丸めた脚本と手のひらを叩く。
その音に荒立ちの途中だった私たちは動きを止めて四楼さんの方へ視線を送った。
午前中は、昨日の段階で四楼さんが気になっていた場面のみの読み合わせの『抜き読み』から入った。
私も妙さんから昨日にもらった助言を頭の片隅に置きながら台詞を追いかける。
『まぁ、まずは役になりきるのも大事だけど|周りの人も意識すること《・・・・・・・・・・・》だねぇ。昼間のを見てたら京ちゃんは自分のことに手いっぱいになって周りが見えてない感じがしたかな。大事なのは間と呼吸を合わせること。多分だけど明日も抜き読みで読み合わせはすると思うし、そのあたりを意識してみてやってみて』
そのおかげもあって、昨日は役の通りにやらないとと思っていた体の力が抜けて、詰まることなく台詞を追うことができた。
妙さんの方へ視線を送ると、片目を閉じながら指で丸印を作ってくれた。
私は上がりそうになる頬を必死に抑えながら、読み合わせはなんとか終了。
そのまま昼食を食べて午後に入り、今度は荒立ちをすることになった。
それまでの読み合わせと違って、実際に動きを付けながらの立ち稽古に代わって、私はまた一つ難易度が変わったように感じた。
その辺りもいろいろな舞台を見て勉強し、そして端役とはいえ学生時代に舞台に上がった経験があるからある程度は通用すると思っていたけど、そんなに甘いものではなかった。
他の人の間と呼吸に合わせるのは当然として、位置取りや立ち回り上の導線などを意識しなきゃいけない。
平面的に追えばよかった読み合わせとは違って、今度はそれが立体的になったようだった。
同じ舞台の中にいるはずなのに、自分だけが別の場所にいるようだった。
読み合わせの時よりも合わない視線に、呼吸のずれと、その失敗を取り戻すために立ち位置を先回りしておこうとするとそれが裏目に出てしまって、立ち位置を間違えてしまう。
今こうして止められているのも私が原因だった。
私が立ち位置を意識し過ぎてしまったために台詞を飛ばしてしまい、四楼さんが中断をしてくれた。
一呼吸おいて、四楼さんは私の方へ視線を向ける。
「うーん、京ちゃんちょっと肩に力入り過ぎかな。そんなに慌てなくて大丈夫だから周りの速度に合わせて行くようにしよう。それにまだ荒立ちで、劇の進行と自分の立ち位置を確認する段階だから変に気負わなくて大丈夫だよ」
「わ、分かりました! 気を付けます!」
私は四楼さんに頭を下げると、隣にいた朗太さんは「俺らで出来るだけ助けるからガンガン行こう!」と言ってくれる。
私はその言葉がとても嬉しい反面、とても申し訳なさを感じてしまうけど、それでも止まってはいられない。
私は他の人に比べて何歩も後ろを歩いてるんだ。
だから、こんな事で挫けてたらいつまでも憧れにはなれない。
と、その後も四楼さんに何度も止められながら稽古を続けていき――
「——よし、それじゃあ休憩にしようか。ここ最近暑くなってきてるから水分補給も忘れずにね」
四楼さんが休憩の指示を出して、私達は休憩のために部屋の端の方へはけて行く。
私も持って来ていた手提げ袋の元へ行くと、中に入っていた水筒を取り出して口に運んだ。
ぬるくなった水だったけど、水分不足の体には何よりも嬉しい。口を水筒から離して窓の方を見ると、穏やかな西日が差し込んできている。
もう夕方……あっという間のような、でも長いような不思議な感覚——
「——京ちゃん、今って大丈夫?」
「あ、八重人くん。大丈夫だけど……何かあったかな?」
声のした方を向くと、少し不安げな視線を向ける八重人くんが立っていた。
「荒立ち苦戦してるみたいだから、大丈夫かなって心配になっちゃってさ。昨日も遅くまで妙さんと三人で喋ってた疲れとか出てない?」
「疲れは大丈夫だよ。心配してくれてありがと」
心配掛けちゃったのか、と私は内心反省をしながらも心配してくれた八重人くんへ笑みで返す。
そんな私の様子に「それなら安心したよ」と八重人くんはいつもの表情に戻った。
「でも、京ちゃんも大変だよね。演劇ほぼ初心者であんなにすごい人たちに囲まれて演技なんて、僕なら嫌になって逃げだしちゃうかも」
「正直逃げ出せるなら逃げだしたいくらいだよ……」
あはは、と私は乾いた笑いを浮かべた。
今の環境できっと重圧を感じない方が無理だし、何よりもできない自分に嫌気が差す。
ただそれでも逃げたら今までの自分と同じだ。
私に再び不安げな視線を向ける八重人くんへ視線を向ける。
「でも、ここで一番何もできない私が諦めたら全部が台無しになっちゃう。だから逃げないし、逃げたくないの」
「そっか。京ちゃんは強いね」
そう言いながら、八重人くんは目線を私と合わせるために屈んだ。
なんだろうと思っていると、手に持っていた脚本を私の近くに広げて「見て」と言って、彼は脚本の方を指をさす。
そこに書かれているのは、いくつかの長方形の中に丸が何個か配置されたもの。そこに矢印と、その根元には注釈のように何やら走り書きが書かれていた。
「これ、今日僕が稽古中に書いてたんだ。舞台上での大まかな人の流れと……あとは、照明がどう当たるかの予想図」
「え?」
それを私に見せてどうなるんだろうと考える前に、八重人くんは笑声のまま続ける。
「一応これでも裏方志望だったからね。僕はまだ演技的な面で神楽座のみんなの足を引っ張っちゃう分、こういうのを書いて自分の立ち位置は把握しておこうと思ってね」
「あ――この丸と矢印って人と、その人の動きってこと? それにこの書き込みの量って、もしかして通しでの動きを全部書いたってこと⁉」
私が驚いて彼の方を見ると、少し恥ずかしそうに「まぁ書けちゃうくらい僕の出番は少ないからね」と八重人くんは頬を掻く。
「それで見てて思ったんだけど、たぶん京ちゃんは点で考えすぎてるんだと思う。なんていうかなぁ……うーん、この時間にはこの場所にいなきゃ! って思っちゃう癖があるんじゃない?」
「そ、そうなのかな? うーん、私があんまりピンと来てないんだけど、どうしたらいいのかな? これ以上ほかの人にも迷惑かけたくないし、もし八重人くんの視点で気づいてることがあったら教えてくれないかな?」
私の言葉に八重人くんは「うーん……」と言いながら腕を組んだ。
「僕はどっちかっていうと裏方の視点の話だからなぁ。でもたぶん、京ちゃんは時間を意識しすぎなんだと思う。確かに時間も大事なんだけど、なんていうんだろ……流れっていうか、呼吸? みたいなのがあるじゃん?」
「昨日言ってた妙さんの読み合わせの助言にあったの『間』とかの話?」
八重人くんは「まぁ似てるんだけど、ちょっと違うかも」と眉間に皺を寄せる。
「なんていうんだろ……たぶん、まだ京ちゃんの動きは生きてないんだよね。そこにいるだけの動くゼンマイ人形に近い感じかな。だから他の人も呼吸が合わせられなくて、周りがもたついちゃうのかなって思う」
「な、なるほど……?」
私の分かったような分からないような曖昧な表情に、八重人くんは少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「ごめんね、僕この辺の感覚の言語化って苦手なんだ。ただそれでも分かる――たぶん京ちゃんはまだ空気になじめてないんだと思うよ」
そのまま彼は、背後へ親指を立てる。
「その点で言ったら、そういうのが上手だなって思うのは朗太さんかな。ほら今も輪の中心になってみんなをまとめてるでしょ?」
言われて八重人くんの親指の先にいる人物へ視線を向けた。
そこには休憩中にも関わらず、楽しそうに笑みを浮かべながら他の団員と談笑をしている朗太さんがいる。
いつも誰かと話してるとは思ってたけど……確かに、荒立ちの時にも何かあったらすぐに彼が助けを出してくれてた気がする。
「……私はあんな風にはなれないなぁ」
ポツリと自然と漏れ出ていた言葉に「それは違うよ」と八重人くんは優しく否定した。
「僕が言いたいのはそういうことじゃないんだ。ただ、何がどう違うっていうのはたぶん京ちゃんも稽古の中で分かっていくんじゃないかな?」
と、そこでパンと乾いた音が部屋全体に反響する。
そちらの方へ視線を向けると四楼さんが「よーし、休憩終わり。次の荒立ちが終わったら今日は終わりにしようか」と、休憩の終わりを知らせていた。
私はまだ胸の中にもやもやしたものを抱えながら、立ち上がった八重人くんと一緒に四楼さんの方へ歩き出した。
◆◇◆◇◆
その後の稽古も変わらず、私の失敗が続きながらもなんとか終わった。
「はぁ……」
静けさの漂う廊下を私は一人歩く。
夕食を済ませて、今はそんなに多くはない自由時間の最中だったけど、誰かと話したり何かをしようとは思えなかった。
というよりも、心の中にいるもう一人の自分が『京にそんなことしてる時間あるの?』としきりに言ってくるからだった。
だからこうして一人になって自問自答できる場所を探すように、私は湿気の混じった風が流れる共用廊下を当てもなく歩く。
「……どうしよう」
一人になると押し寄せてくるのは、宵の闇に似た真っ黒な不安。
このままの自分でうまくいくのかとか、私が主演となったときに出ていったと言っていた女優の人の方が良かったんじゃないかとか……考え出すと思考は負の方向へ転がり始め、坂道を落ちるようにどんどんと悪い考えがめぐっていく。
せめてもの抵抗として、まだ稽古着からは着替えていなかったけど、正直汗でべたべたになっているため今すぐにでもお風呂に入りに行きたい。
でも、それで誰かと会うの嫌だなぁとか、そんなことを考えていると――
「——ん?」
歩いていた廊下の先に人影が見える。
誰だろうと目を細めると、妙さんと朗太さんが何やら二人で話しているようだった。
二人ともまだ稽古用の衣装に身を包んでいる。何かあったのかな?
と、そんな風に考え事をして立ち止まっていた私に気が付いた妙さんがこちらへ手を振る。彼女の特徴的な橙色の稽古着と、後ろで一纏めにされた髪がゆらゆらと揺れた。
「あっ、京ちゃん!」
「おぉ、噂ってするもんだな!」
「こんばんは。えっと、噂ですか?」
少し距離が離れていたから小走りで近づくと、朗太さんも振り返って豪快な笑みを浮かべた。
私が軽く会釈をしながら近づくと、妙さんが「うん、ちょうど京ちゃんのことを話してたの」と笑う。
同時に、チクリと胸に嫌な棘が刺さった気がするのを見て見ぬふりをしながら、私は二人へ視線を向けた。
「えーっと、もしかして今日の稽古で私が荒立ちをうまくできてなかった件ですか?」
「あぁ、京が今日失敗しまくった件だ! 話が早くて助か――っごふ⁉」
急に朗太さんが苦悶の表情を浮かべるから、私の両肩がビクッと驚きで跳ね上がる。
そのまま脇腹を抑えてうずくまる朗太さんに「アンタって本当に思いやりがなさすぎるのよ」と妙さんが呆れたように言っていた。
どうやら彼女の肘鉄が朗太さんの脇腹に突き刺さったみたい。うわぁ、痛そう……。
「あ、あの、それで何か私に用事があるんじゃ?」
「うん、あるよ。もし良かったらなんだけど、今日この後って暇だったりしない? もし別の用事が入ってるなら、そっちを優先して大丈夫なんだけどさ」
妙さんの質問に「この後はお風呂入ろうかなくらいで、用事はないですけど……」というと、彼女はパチンと指を鳴らす。
「うん、なら良かったよ――」
そのまま私の肩に腕を回して、いたずらっぽく笑みを浮かべた。
「——これから秘密の特訓しに行かない?」




