第三節
多々美にはなんだか、いつもとは違う静けさが漂っていた。
静けさというよりもどこか重たい感じが近いかもしれない。
薄曇りの空は太陽の光が希薄で、どんよりとした空気をさらに重くしている。身に纏う着物と袴が、そんな多々美を流れる風を受けて寂しげに揺れた。
「何かあったのかな……?」
道行く人たちの表情もどこか重たく、前までの楽し気な雰囲気は消えていた。
街を流れていく喧騒は物悲しくて、聴こえてくる音楽隊の演奏も今日は速度を落としたものになっている。
視線を巡らせると、路面電車の向こう側に白煙が上がっているのが見えた。
空へと立ち昇っていく煙と同時に、隣を歩く老夫婦が心配そうな声をあげる。
『あれは……火事か? 昨日も火事があったみたいだし、放火なら早く犯人が捕まって欲しいものだな』
『あら、放火犯の仕業なの? お隣さんは昨日の火事は火の消し忘れって言ってたけど』
「っ」
東都の喧騒の中で、私は心臓がギュッと掴まれるような感覚になる。
同時に心の中に宿るのは、不安をかき消すために灯った決意の焔。
私は舞台に立てることを喜んでいたけど、同時に忘れてはいけない現実があることを思い出した。
私がこれからやる演劇によって、これ以上火事を起こさないようにしないと――
「――おはよう綾瀬川。時間通りにちゃんと着けたみたいだな」
「あ、唯一郎さん。おはようございます」
背後から声がかかって、私が振り返る。そこには着流しをいつものように着こなす唯一郎さんが片手を上げていた。
今日は気温と湿度が高いからか、羽織は身につけていないようだった。
ペコっと頭を下げると唯一郎さんは笑みを浮かべる。
私が時間通りに来ていることへ安心しているような雰囲気だった。
「昨日はちゃんと眠れたか?」
「それが……楽しみすぎてあんまり眠れませんでした。でも、多々美に来るまでの電車の中で仮眠取れたので今は大丈夫です!」
「そうか。しっかり休むのも仕事の一環だから、寝れる時はしっかり寝るんだぞ?」
そう言いながら歩き出す唯一郎さんの背中へ、私は「はい、気をつけます」と返事をしながら着いていった。
いつもよりも落ち着いた街の喧騒の中を、私と唯一郎さんは会話もなく歩く。
少し手持ち無沙汰になって、私は前を歩く唯一郎さんの方へ声をかけることにした。
「あの、稽古場って結構離れてるんですか?」
「離れている……といった方がいいかもしれないな。言葉にしにくいから、その辺りも着いてからのお楽しみってことにしといてくれ」
「そう、なんですね。分かりました」
歯切れ悪く言う唯一郎さんに、私も曖昧に頷きながら付いていく。
少しして、いつもの裏道へ入っていった。
そのまま神楽座の事務所がある建物へ入っていき、そのままいつも通り神楽座の事務所の前にたどり着く。
いつも通りの見慣れた共用廊下には――普段はいない人だかりが出来ていた。
まばらに置かれているのは、それぞれの荷物だろうか。
知らない人もいる……重心を唯一郎さんの方へ無意識に寄せると、その中でも特に特徴的な金髪の人が私と唯一郎さんへ笑顔を向けながら手をあげた。
「あ、京ちゃんと唯一郎くんも無事に到着か。よかった、時間通りだね」
唯一郎さんの声に周りにいた人の視線が一斉に向いた。
そんなに一気に見られると思っていなかったから、私は驚いて唯一郎さん服の裾をそっと掴んでしまう。
と、その中の数人が私へ好奇的な笑みを浮かべながら近づいて来た。
「おぉ、この子が噂の京ちゃんか! 思ってたよりも若いんだな!」
「ほーら、アンタみたいなむさ苦しいのが行くから京ちゃん怖がっちゃってるじゃない。ごめんねー、急に変なのから声掛けられたらびっくりだよね?」
「あ、いや……そ、そんなことはないです」
豪快に笑いながら近づいてくる大柄な男性と、それを止める綺麗な女の人。
私は手を振りながら答えていると、その女性の後ろからまた別の女の人がひょこっと顔を出した。
私と年齢はそんなに変わらないだろうか――その女の人は、じーっと半目の瞳で私のことを見つめてくる。
「あ、あの、えーっと?」
「意外と普通? いや、でも……不思議な感覚」
「ほらほら、あんまり時間はないんだ。自己紹介は『向こう側』に行ってからにしようね」
と、そんな私に助け舟を出すように四楼さんが手をパンパンと叩く。
その声に応じるように、私の方へ向けられていた意識は四楼さんの方に向いた。
私も行かないと、と歩き出そうとした時に肩越しに振り返った唯一郎さんと視線が絡む。
「大丈夫か?」
「はい、大丈夫です……ただ少しびっくりはしちゃって」
私が胸に手を当てて肩で息を吐き出しながら答えると、彼はそっと笑みを浮かべた。
「神楽座の奴らは少し変わった奴が多い。ただ悪い奴らじゃないから、もし何かあったら俺でも四楼さんにでも言ってくれ」
「ありがとうございます。そしたら何かあったらお二人に頼るようにしますね!」
唯一郎さんは少し照れくさそうに「あぁ、そうしてくれ」と言うと、四楼さんの方へと歩き出していく。
私たちが近くまで来たことを確認した四楼さんは、満足そうな表情を浮かべた。
「よし、それじゃあみんな揃ったみたいだし準備も大丈夫そうだね」
「あ、あのー……稽古場に集合かと思っていたんですけど、まさか事務所を稽古場にする感じですか?」
すっと手を挙げながら言う私に、四楼さんは不思議そうな表情をする。
「あれ、京ちゃんに説明は……してなかったね、ごめん。ただ実際に説明はそのあとでも大丈夫かな?」
片目を閉じながら言う四楼さん。
私は今は頷くことしかできないので、とりあえず頷きながらことの成り行きを見守ることにした。
そのまま四楼さんは、神楽座の事務所の扉の前に立つと――ふっと、空中を手で切るような動作をする。
それに呼応するように扉の隙間から淡い光が溢れ出し、そして何かの終わりを告げるように消えた。
しん、とした静寂が廊下を包む。
「よし、これで大丈夫だ」
静寂を破るように四楼さんは扉を開けると、そのまま中へ入っていった。
他の人も見慣れた光景なのだろう。特に何も言う事はなく置いていた荷物を持って事務所の中へと入っていく。
扉によって視覚になっていて中の様子は見えないけど……中に入れば四楼さんや唯一郎さんが言っていた意味が分かるのかな?
私も肩に背負っていた荷物を背負い直して、扉の前に立つと――
「——え?」
扉の先に広がっていたのは外の景色だった。
山間なのだろうか、生い茂る木々に吹き抜けてくる風には緑の匂いが混じっている。
むき出しになった土と、爽やかな緑風に乗って聞こえてくるのは淡い音階の小鳥の囀り。
呆然と立ち尽くす私の視界の先で、小さい体躯からは想像できないくらいの大荷物を持った蒼狛くんが振り返って手を振った。
「ミヤコお姉ちゃーん、ぼーっとしてたら扉閉じちゃうよー!」
「う、うん……すぐ行くね!」
私が踏み出すと、板張りの地面から一転して雨によって少し地面が柔らかくなった土の感触が足裏を伝う。
完全に山間の中にいる――そう思って振り返ると、そこには先ほどまで私がいた筈の事務所前の廊下は消えて、木の葉によって天蓋が作られる山道があるだけだった。
「……どういうこと?」
何が起こっているのか全く分からなかった。
ただ、ここで立ち止まっていてもしょうがない。私は細く息を吐き出しながら、先を歩くみんなの背中を追いかけた。
少し歩くと、山道の中に開けた場所が現れる――
「——ここがこれから僕たちが稽古をする場所だね」
開けた場所の中心には、雲間から差し込む陽の光を受ける木造の建物。
大きさは普通の家屋の何倍もあり、振り返って私たちの方へ視線を送る四楼さんが小さく見えるほどだった。
そのまま建物の中へ入っていく四楼さんに続くように、ほかの団員の人もそれぞれの荷物を抱え直して入っていく。
私はごくっと喉を鳴らした。同時に手のひらは温度を失って感覚が遠くなっていく。
肩から大きく息を吐き出して、身震いしそうになる体をなんとか落ち着かせた。
「ここから――」
――始まるんだ。
私の女優としての一歩目が、ようやく踏み出せる。




