第3話|え、距離感バグってません?
「……お目覚めですか、“お姫様”」
その声で、わたくしはぱちりと目を開けた。
(……カリーネさん!?)
寝台の脇から聞こえたのは、昨日もお世話になった ──
いえ、昨日もしっかりマウントを取ってきた ──
あの銀髪副官の冷たい声だった。
「魔王様が“朝食を共に”と。すぐに参れとのことですわ」
「……えっ!?」
目が一気に覚める。待って、それってつまり ……!
(魔王様と、ふたりで、朝食!? この寝起き顔で!?)
慌てて跳ね起きて、侍女を呼ぶ間も惜しんで、ぐいぐいドレスに腕を通す。
髪もざっくりまとめて ──
でも、襟元がちょっとずれてて、あわあわ!
(なにこの強制恋人イベントみたいな展開 ……!)
扉を開けると、カリーネは、ぴしっとした軍服姿で、わたくしを一瞥した。
「…… その程度で、まあ“及第点”ですわね」
「…… ありがとうございます?」
「別に褒めていませんけれど」
(朝からテンプレ毒舌、絶好調 ……!)
カリーネは、容赦ない速度で歩き出す。
わたくしは慌てて裾をたくし上げ、必死についていく。
(せめて、“魔王様と朝食”って心の準備がほしかったです ……)
辿り着いたのは、昨日と同じ、黒と金を基調とした大広間。
けれど、今は舞踏会ではなく ──
「……っ」
食卓の端に、静かに座っていたのは、魔王様だった。
あの漆黒の礼装に、深紅の瞳。
「ようやく来たか。遅かったな」
「し、失礼いたしました ……!」
(やだ、この空気 …… どう見ても“恋人の朝”感がすごいんですけど!?)
魔王様は、わたくしを見つめたまま、静かにカップを傾ける。
その所作が、いちいち絵になるのがずるい。
いや、そういうことじゃなくて ──!
「よく眠れたか、姫君」
「え、ええ、おかげさまで ……」
(あれ? さらった張本人が“よく眠れたか”って聞くのおかしくない!?)
もうツッコミどころが多すぎて、感情が追いつかない。
なのに、魔王様は一切崩さず、ただ静かに ──
でも確実に距離を詰めてくる。
(この人、絶対……距離感バグってますわ!)
◇◇◇
「…… 少し、話をしようか」
「えっ、あの、どこで?」
「俺の部屋で」
「…… は、はい?」
(ちょ、ちょっと待ってください魔王様?)
甘いクロワッサンの余韻もどこへやら。
まさかの“魔王の私室”へご案内 ──
という展開である。
わたくしの混乱などお構いなしに、
魔王様はすっと立ち上がり、すでに歩き出していて。
(このテンポ、速すぎません!?)
そのあとを追うわたくし。
さらにそのあとを、ぴたりとついてくる副官カリーネさん。
(たぶん、今この人 …… わたくしの背中に殺気、向けてますよね?)
けれど、魔王様が「下がっていい」と一言告げると、
カリーネさんはピシッと敬礼して、
無言のままくるりと向きを変え ──
(あっ、いま絶対、睨まれた ……!)
そして、たどり着いた“魔王の部屋”──
黒と赤、そして金の縁取りが施された、
やたら豪奢な調度品。
(…… 宝石箱の中に迷い込んだようなって感じですけど、なぜか落ち着かない)
そんな部屋の中央、ふかふかのソファに座らされて。
向かいの魔王様が、静かに紅茶を注いでくれるという。
(いま、これ、謁見?
それともお茶会?)
「落ち着いているように見えるが、まだ混乱しているのか?」
「え …… まあ、多少は ……」
「当然だ。昨日まで“人間の王女”だったのだから」
「…… 一応、今日も王女ですけれど ……?」
魔王様はわたくしを見つめながら、ふっと目を細めた。
「…… お前はここで、これから生きていく」
「へ?」
「安心しろ。閉じ込めるつもりはない。ただ、“帰らせるつもりもない”」
「っ ……!?」
(こ、こわっ! サラッと言いましたわこの人!?)
「お前が“思い出す”までは、な」
「思い出す …… って、前も言ってましたけど、いったい、なにを?」
「いずれ、わかる」
(出た、“いずれ”!)
「じゃあ聞き方を変えます。
“思い出したら”、どうなるんですか?」
今度こそ、と詰め寄るわたくしに ──
魔王様は、唇だけで静かに笑った。
「それも、“いずれ”だ」
「ずるいですわ!」
ぷるぷると睨み返そうとした、そのとき ──
「…… その顔も、懐かしい」
「っ ……!」
(な、なにいまの ……)
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
見られた。まっすぐに。
わたくしの“なにか”を、
魔王様は、確かに覚えているみたいに ──
「お前は …… ここにいた方がいい」
「は、はい?」
(いま、なんと ……?)
魔王様の声は、驚くほど静かで。
怒っているでもなく、憐れんでいるでもなく、ただ ──
揺るぎない確信の色。
「今のエルヴァンシア王宮に、お前の居場所は、もうない」
「……っ」
(え、それ …… どういう意味?
知ってるの?
なにか見たの?)
口を開きかけたその瞬間、
魔王様の手が、すっと伸びて、
わたくしの前に差し出された。
(え、ちょ……え!?)
指先が、そっと頬に触れる。
その手は意外なほどあたたかくて、
でも、指先が震えてる気がして──
「…… お前は、まだ思い出していない。
だが ──」
一拍、間があって。
「…… 俺は、覚えている」
「っ……」
(…… なに、それ ……)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
怖いとか、混乱とか、そういうのじゃない。
もっと、ずっと奥のほう。
触れられたことのない場所に、
じんわりと染み込んでくるような、そんな痛み。
(…… 知らないはずの感情なのに、なんで、こんな ……)
魔王様は、それ以上何も言わず、
そっと手を離した。
その動作まで丁寧で、優しくて。
なのに、わたくしの頭の中は、
ずっとざわざわしたままで。
「…… 今日はもう休め。
疲れているだろう」
「でも、わたくし、
なにも思い出していませんわよ?」
「いいさ。お前がここにいるだけで、充分だ」
(──意味が、わからない)
でも、どこか …… 懐かしいような。
あのとき香った、香油の匂いとも違う、
“誰かを思い出すような匂い”がして。
わたくしは、結局なにも言えないまま、
ただ、魔王様の顔を見つめていた。
◇◇◇
やがて、ノックの音。
カリーネ副官が、ぴしっと姿勢正しく現れる。
「…… 案内に参りました」
魔王様に向けて、完璧な礼。
そのあと、ちらりとわたくしに向けられた視線には ──
うん、やっぱり、ちょっとだけトゲがある気がする。
「では、“客室”へご案内しますわ。どうぞ、こちらへ」
(“客室”って、なんかイヤミに聞こえるの、気のせい?)
わたくしは無言のまま、カリーネのあとを追いながら、
さっきの魔王様の言葉を、ぐるぐると反芻していた。
(…… わたくしには、もう“居場所”がない?)
(── 思い出す? なにを?)
(“覚えている”って、魔王様はいったい ……)
でも──
(それより …… やっぱり気になるのは、あの距離感)
距離、ゼロ。
視線、強すぎ。
態度、やたら優しい。
そして、あのセリフ──
「…… お前がここにいるだけで、充分だ」
(…… え、やっぱりバグってません!?)
階段を降りながら、わたくしはこっそりため息をついた。
心臓が、まだ落ち着かない。
“誘拐”されたはずなのに、
いつの間にか“なにか別の話”になってきている気がして……
わたくしは、その正体を探るように、
カリーネさんの背中を、黙って追いかけていた。
◆あとがき◆
ご覧いただき、ありがとうございました。
攫われたはずなのに──
気づけば、甘すぎる朝食と、誰もが動揺する“魔王の私室”。
そっと頬に触れる手。
すれ違う記憶。
そして、意味深なひとこと。
まだヒロイン自身も気づいていませんが、
恋の導火線は、もう……。
次回はいよいよ、逃走劇へ。
「脱出未遂、そしてバレてた」──
果たして、お姫様の運命やいかに?
引き続き、お付き合いくだされば嬉しいです。