第5話|お姫様、攫われました
──どなたですか?
誰かの、震えるような声が会場に響いた。
でも、それに答える者はいない。
応える必要などないとでも言うように、
その“存在”は、静かに、確実に──この場を支配していた。
扉が、音もなく開く。
冷たい風が、吹き込んでくる。
「……きゃっ、寒っ……!」
「窓……? いえ、風向きが……逆……?」
会場の薔薇がざわめき、燭台の火がふるえた。
重厚な絨毯の端がふわりと持ち上がる。
(なに、この空気……)
冷たいのに、熱を孕んでいて。
ぞくりと肌が粟立つのに、なぜか目が離せない。
……異質だった。
明らかに、この“世界”のものではない。
けれど。
抗えない。
そんな“圧”が──そこに、あった。
そして。
「……招かれていないのは承知の上だ」
その声が落ちた瞬間、会場の空気が変わった。
低く、艶やかで、耳の奥に直接響くような声音。
誰のものでもない。けれど、誰もが本能で理解してしまう。
「──まさか……!」
「黒い礼装……黒髪……紅玉の瞳……」
「レオナルト=アルセイン……っ! ま、魔王……!?」
ざわめきが、悲鳴に変わる。
一斉に騎士たちが動く。
剣に手をかけ、間合いを取り──
「やめろ」
たった一言で、動きが止まった。
誰も、言葉にできなかった。
何が、今の声に含まれていたのか。
魔力? 威圧? 殺気?──違う。
それは、“絶対”だった。
何もしていないのに、剣が鈍る。
目の前の“何か”が、圧倒的で、異常で、
でも、それでいて、完璧な美と風格を備えていた。
(……この人が、“魔王様”?)
わたくしは、思わず見惚れてしまっていた。
否応なしに、視線が引き寄せられる。
そこに立っていたのは──
黒の礼装。
月光をまとったような漆黒の髪。
そして、赤く、深く、すべてを見透かすような瞳。
彼は、まっすぐに、わたくしを見ていた。
「来るのが、遅くなってすまない。アリシア」
(……え?)
わたくしの──名前?
ここで?
この場で?
一番、馴れ馴れしく──あたかも、“迎えに来た”ように。
(知ってる? わたくしのことを……?)
どくん、と胸が鳴った。
場違いなほど、強く。
「……っ、魔王ッ!!」
ゼノが叫ぶように立ち上がる。
でも、魔王様──レオナルトは一切、動じない。
「悪いが、婚約発表だとかいう茶番には興味がない」
「な……」
「この姫は、俺がもらっていく」
一瞬、時間が止まった。
(……え?)
何を、言ったの──この人。
誰よりも堂々と、誰よりも直球で。
ここが王城だろうと、国王がいようと、関係ない。
ただ、わたくしに向かって宣言した。
(“俺がもらっていく”……?)
言葉の意味を、理解した瞬間──
場が、動いた。
◇◇◇
「なっ──! ふざけるな、貴様ァァァ!!」
ゼノが吠えるように叫んで、前へと踏み込む。
その瞳は、完全に激情に呑まれていた。
「ゼノ様っ、危険です、お下がりを──!」
近くの騎士が制止しようとした、その時。
「……遅いな」
魔王様の指が、ほんのわずかに動いた。
バンッ!!!
何かが炸裂した音。
でも、何も見えなかった。
目に見えない衝撃が、ゼノの身体を吹き飛ばす。
「ぐっ……ッ!!」
彼は勢いのまま、背後の柱に激突する。
装飾の一部が砕け、白い粉塵が舞った。
「ッ……くそ……っ、アリシアを……返せ……!」
ゼノは血を滲ませながら、なおも立ち上がろうとする。
その顔には、痛みよりも──狂気が滲んでいた。
(あれが……ゼノ……?)
優しくて、穏やかで、いつも“完璧な婚約者”を演じていた彼が。
こんなにも執着に染まった目をしていたなんて。
「待て、魔王──!」
今度は兄、エドワルドが前へ出た。
銀の軍装に身を包み、剣の柄に手をかける。
「この場において、武力をもって姫に手を出すなど……
貴様がどれほどの存在であろうと、我が王家が許すはずがない!!」
その声は震えていた。
怒りのせいだけじゃない。
……わたくしにはわかる。
(お兄様……“怖い”のね)
この場を支配する、“何か”の本質に、気づいているから。
「アリシアは、王家の宝だ。勝手に持ち出すことなど──」
「違うな」
魔王様は、断言した。
「“宝”ではない。“人”だ。……そうだろう?」
(……っ)
その言葉に、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
今まで、誰からも言われなかった。
“姫”とか“花嫁”とか“婚約者”とか。
そればかりで、わたくし自身を見てくれる人なんて、誰もいなかったのに──
「……姫を、返していただきます」
静かな声が、魔王様の背に向かって放たれた。
護衛騎士、セイル。
いつの間にか、わたくしのそばから離れて、魔王の前へと立っていた。
剣はまだ抜いていない。けれど、空気が緊張する。
「それは、あなたの手に委ねられる存在ではない」
「……ふん。だが、お前にも見えていないようだな」
魔王様は、わたくしを一瞥することもなく、そう言った。
まるで──全てを見透かしているかのように。
「アリシアは、“仮面”をかぶっている。
本当の顔を、知っているか? 本当の声を、聞いたことは?」
セイルがわずかに眉を動かす。
「あなたに、その真実が見えるとでも?」
「見えるさ。お前たちよりも、ずっとな」
一瞬、空気が張りつめた。
誰もが動けない。息すら詰まる。
その中で、魔王様だけが──まっすぐ、わたくしのもとへと歩いてくる。
(……なに、この人……)
怖い。
怖いのに、視線が離せない。
一歩近づくたびに、空気が変わる。
……わたくしの“世界”そのものが、変わっていく。
◇◇◇
魔王様──レオナルトは、わたくしの前に立ち、
まるで物語の終幕のように、手を差し出してきた。
「アリシア」
たった一言。
それだけで、世界の色が変わる気がした。
「……はい?」
わたくしは、自分でも気づかぬうちに応えていた。
声が震えていた。
でも、魔王様はその震えさえも、全て受け止めるように──笑った。
「もう、仮面はいいだろう?」
(……っ)
わたくしの中で、何かが崩れた。
ずっと張り詰めていたもの。
演じていた“完璧な姫”という仮面。
誰にも気づかれないようにしてきた、孤独と恐怖。
全部、この人には、見抜かれていた。
「……あなた、なぜ……わたくしのことを……」
問いかけるわたくしに、彼は迷いなく言った。
「覚えていなくてもいい。“昔”の話だ。
だが、お前が誰よりも縛られていたことは、知っている」
(……知ってる?)
記憶の奥に──ふわりと浮かぶ、
小さな、あたたかな手のひら。
優しい声。
“もう大丈夫だ”って、眠るわたくしの手を握ってくれた──
(……あれは……)
でも。
思い出す暇もなかった。
「行くぞ、アリシア」
魔王様が、わたくしの腰を抱き寄せる。
「えっ、ちょっ……まっ──きゃっ!?」
宙に浮いた身体。
周囲の景色が、一瞬で遠ざかっていく。
「お止めなさいッ! アリシアは王家の──!」
「だから、連れていくんだ」
ばさっ!!!
漆黒のマントが舞い上がり、
その場に、深い“闇”が口を開ける。
「アリシア様──っ!!」
「返せ……返せ……アリシアを──!!」
「おのれ魔王……っ!!」
兄の声も。
護衛の悲鳴も。
婚約者の狂気も。
全部、遠くなる。
わたくしのすべてを包み込むように、
魔王様の腕が、しっかりと、わたくしを抱いていた。
「さらばだ、地上の人間ども」
魔王様の声が最後に響いた時──
わたくしは、連れていかれた。
この宮殿から。
この国から。
この運命から。
そして、誰の脚本でもない“物語”へ。
攫われた姫は、
──魔王と、出逢った。
◆あとがき◆
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
えっ、まさかの「さらわれエンド」!?
アリシア姫、婚約発表の場で堂々と攫われました。
──でも、ここからが本当の物語。
次回からは第2章
『囚われの塔と黒衣の男』が始まります。
✨第2章は【7月5日(土)】より連載開始予定です!
たくさんのアクセス、本当にありがとうございます!
第5話の更新後、想像以上の反響をいただき、驚いております……!
本作は「共通ルート」から分岐していく形で進んでいきます。
それぞれの“もしも”の未来を、ぜひ楽しんでいただけたら嬉しいです。
まずは“魔王様ルート”から──
7月5日、第2章でお会いしましょう!
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次章もどうぞよろしくお願いいたします!