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第3話|風は軽やかに舞う

 庭園の一角、笑い声がひそやかに膨らんでいく。

 誰かが「見た?」と扇の陰で囁き、別の誰かが頷く。

 春の光に透ける花びらの向こう、ほんの一瞬交わされたという視線――それが本当にあったのかどうかは、誰も確かめていない。

 けれど、噂とは往々にして、事実よりも早く花開くもの。


 「ええ、間違いなくあちらをご覧になっていましたわ」


 並んで歩く令嬢が、扇をわずかに傾けて声を潜める。

 春の光が花びらを透かし、その影が頬をかすめていった。


「本当に? 見間違いではございませんの?」

「見間違いではありませんわ。それに、お相手も間違いなくご覧になられたはず」

「まあ……それは、本当ですの?」


 もう一人が、花の合間からそっと視線を送る。

 足取りはゆるやかに、それでいて噂の熱だけが少しずつ速まっていく。

 なんといっても、先月の夜会でのことは、彼女たちの記憶から薄れることはない。

 王の宣言、それに続く答礼――誰もが成立したと思ったはずだ。


「……それに、あれを反対している方もいらっしゃるのでしょう?」

「まあ、だからこそ余計に続きが気になるのよ」


 母たちの駆け引きなど、娘たちに関係がない。

 彼女たちの中では、視線ひとつで物語は動き出し、反対の声は恋物語を彩る障害に変わる。

 実際に視線が交わったかどうかなど、もはや重要ではないのだ。

 家の思惑に引き裂かれる恋人たち――そう信じるからこそ、噂の熱はますます高まっていった。


「それに……殿下、少し足を止めておられたでしょう?」


 日傘で隠されてはいたが、アリシアが一瞬、足を止めたのを彼女たちは見逃さない。


「まあ、そう言われれば」

「であれば、やはり偶然ではなくてよ」


 砂利を踏む音に混じって、小さな笑い声が幾つもこぼれる。

 庭の風は軽やかでも、その囁きは重なり合って濃さを増していった。


「……ご覧になって? あの藍に、銀が入っているでしょう」

「ええ、しかも陽の光で銀糸がきらきらして……あれは――」


 扇を口元に寄せ、視線をそっと斜めに落とす。


「そう、グラナート様よ。ほら、王女殿下のお色と……あの方の――」

「……呼び合っているみたい」

「まあ……そんなふうに見えるなんて」

「見えるだけではありませんわ、ほら、あの裾の刺繍も……」


 花の合間から見える二人は、決して並んではいない。

 それでも、その色味が同じ視界に収まれば、偶然と思う方が難しい。


「藍なんて珍しくないけれど、あの銀の入れ方は特別ですわ」

「ねえ、見て。立ち止まった時にちょうど光が当たって……」

「本当に……合わせていらっしゃるよう」

「でも、そんなこと……」


 花の影が揺れ、銀糸の光もまた揺れた。視線を交わすでもなく、ただ同じ場にいるだけ――それだけで噂には十分すぎる。


「じゃあ、やっぱりそうなのね?」

「ふふ……わたくしの家の者が、衣装部屋の仕立て職人から聞いたそうですの。あの銀糸の刺繍は、急ぎで入れられたのですって」

「まあ!」

「だからこそ確信できますわ。あれは合わせるつもりで選ばれた意匠ですのよ」


 庭園の花の香りの中、噂は、陽射しを受けて開く蕾のように、静かにその形を整えはじめていた。

 春の風が花びらを揺らすたび、囁きもまた小さく揺れながら、確信めいた熱を帯びていった。



◇◇◇



 噂好きの笑い声は、花の合間を抜けて反対側の小径にも届いていた。


「……また始まったな」

「視線があったとか、色がどうとか。ああいう話は、勝手に転がっていく」

「放っておいても?」

「転がる方向次第だ。味方にすれば盾にもなるが、敵に回れば足かせになる」

「……今回はどっちだと思う?」

「今のところはまだ判断しづらいな。見ている者の立場によっても違う」


 そこで、ふと彼は視線をそらした。

 笑い声の輪の中には、見慣れた後ろ姿――自分の姉の姿があった。

 母と同じく社交界で鍛えられた口はよく回るが、今は完全に恋物語の観客席の顔だ。

 頭が痛い、と小さく息をつきながらも、口を出す気にはなれなかった。


「おい、あそこにいるの、マルガレータ嬢じゃないのか?」

「今はその名を呼ばないでくれ。母上があれを見たら、絶対に正座での説教に巻き込まれるのが目に見えている」

「ファビアンのところ、そういう面では苦労しているからな」

「……苦労で済めばいいが」

「まあ、姉君も楽しそうだし、あれはあれで役に立つ時もある」

「それがいつかは分からんがな」


 言いながら視線を戻すと、少し離れた場所に立つあの男――ゼノ=グラナートが目に入った。

 表情は穏やかだが、立ち位置も視線の配り方も計算され尽くしている。

 感情を悟らせぬまま場を支配するのは、あれは才能か、それとも鍛えられた癖か。


(おいおい、王女殿下から視線を外さないだと? 本当にあいつか……?)


 視線の先をすっと追ったファビアンの背筋に冷や汗が落ちる。だが、表情は変えず、周囲との話題に戻った。

 さまざまな声がささやきとして風に乗っているのは間違いない。そんなやり取りの向こうで、エドワルドはただ沈黙を保っている。

 何も言わず、何も動かない――それがどれほど場の印象を変えるか、彼らにもよく分かっていた。


「……あれが長く続くとは思えないな」

「あれじゃ賛同も反対も集まらない」

「沈黙も戦術のうちだが、度が過ぎれば隙になる」

「そうだな。場合によっては別の名が挙がるかもしれん」


 その言葉に、誰かの視線が遠くへと流れた。

 霞む地平の向こうに、今は届かぬ駒がひとつ。

 風向きが変われば、盤上に出ることもあるのではないか――そんな予感だけが、静かに残った。


 政治の盤面は、令嬢たちの恋物語のように単純ではない。

 今はまだ揺れていない駒も、時が経てば動き出す。



◇◇◇



 春の日差しは柔らかいとはいえ、午後になるとお茶を楽しもうとする人々も増えてくる。

 散策していた人々は、やがて季節の花々を背にしたテーブルへと移り、思い思いに腰かけていた。

 さきほどまで庭園の一角で弾んでいた噂は、今やこの場にも静かに忍び込んでいる。

 視線が合っただの、色が呼び合っているだの、軽やかな囁きは人波の隙間をすり抜け、耳元で花びらのようにひらひらと舞う。


「……王女殿下、お着きになったわ」

「やっぱり、王太子様のお席にいらっしゃるわよね?」

「当たり前じゃない。何を馬鹿なことを仰るの?」


 その小さな興奮の渦を、少し離れた位置から令息たちが眺めていた。


「動くのか?」

「さあな、ようやくかもしれん」

「もし動かなければ、積み上げたものが無駄にならないか?」

「だからこそ見ているんだろう。どこで一手打つのか最適なのか」


 座っていたエドワルドが静かに立ち上がった。

 足元の花びらがわずかに舞い、視線はまっすぐアリシアへ向けられる。

 近づく彼女に一歩歩み寄り、軽く会釈をして席を示した。


「花は楽しめたかな?」

「ええ、お兄様。どれも本当に見事なものばかり。庭師の丹精には褒美が必要ではありませんこと?」

「お前がそういうのなら、考えておこうか。たしかに、この時期にあれだけの花を揃えるのは並大抵ではないからね」


 にこやかな表情を浮かべながら言葉を交わす兄と妹。

 その様子を遠巻きに見ていた人々の間に、かすかなざわめきが走った。


「笑ったように見えたけれど」

「いや、あれは……どうとでも取れる」


 令息の一人が、眉をわずかに寄せた。


「結局、沈黙を崩さなかったな」

「沈黙も武器になるが、長く続ければ鈍らせもする」

「だが、今はまだ鋭い。あのままなら誰も下手に動けない」

「だからこそ読めない。そして、読めないのは厄介だ」


 足元に散る花びらと、わずかな風の音だけが、その場に残った。

 熱を帯びた噂も、冷ややかな観測も、その一瞬で同じ沈黙に包まれていった。

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