第2話|扇の影、春の光
芽月の初日、王宮の庭は朝から香り立っていた。若葉が陽を透かし、春の風が花弁をさらう。
今日は王宮の庭園が解放される日――その空気を吸い込みながら、アリシアは朝食後の紅茶を味わっていた。
「アリシア様。本日のご予定の確認です」
女官長フェルミナの声に軽く頷くと、彼女は淡々と言葉を続けた。
「本日の庭園解放の際、王太子殿下がご一緒なさいます。中央の歓談スペースでご挨拶を。その後は庭師が丹精込めた花々をご覧いただけます。茶席もございますので、休息を取られる場合はそちらへ」
「わかりました。お兄様とは、ずっとご一緒かしら?」
「いいえ。ご挨拶の時だけで結構です。その後は、わたくしとマティルダがおそばに控えます」
(お兄様とご一緒なのね。たしかに庭園解放ならおかしくはないけど……。
でも……翠月の夜会を思えば、こういう時こそゼノ様ではないの?
やっぱり、まだ……?)
胸の奥に小さな疑問を抱えながらも、それを口にはしない。
いつも通りの朝の光の中で、庭園解放の日は静かに幕を開けようとしていた。
◇◇◇
「やはり……中央庭園ですわね。見渡すばかりの花々、見事としか言いようがございませんわ」
「そうですわね。それに、本日はお茶席までご用意されておりますわね」
「花も見事ですが、それを手に取る方がいてこそでは?」
「ええ……顔ぶれも実に華やか。これだけの方々が揃うのは、年に一度ですもの」
「中には、少し意外なお顔もございますけれど」
「ふふ、それは後ほど──わたくし、主人と一緒に少しご挨拶をしてまいりますわ」
そう言って扇をそっと打ち合わせ、笑みを深める婦人。
扇の影で交わされる小声が、春の光に紛れて流れる。
ふいに、その声がぴたりと止まった。
視線の先、王族が姿を見せたのだ。人々は一斉に膝を折る。
顔を上げた婦人たちの目に映ったのは、春の光を背に並び立つ兄妹――藍と金が重厚に、ペールブルーと銀青が柔らかく映えていた。
その配色を、彼女たちの視線が逃さない。
「ご覧になりまして? 藍と金ですわ」
「ええ、妹君はペールブルーに銀青」
「前回よりは近うございますわね」
「まあ、あの時は袖口に銀青があるだけで、あとは白でしたもの」
「それでも……揃えてはいらっしゃらない」
「昼間の庭園なら、それが正しいのでしょうけれど」
「ええ……でも、あの夜会のあとですもの。つい、期待してしまいますわね」
扇の影が、静かに春風を受けて揺れる。
彼女たちの一人が思い出したように口を開いていた。
「でも……今は銀青といえば、妹君と別の方では?」
「ま、あれを見せつけられたら、そうなりますかしら?」
扇の陰で視線が交わる。
「おかげで心穏やかではない方がお一人」
「まあ、若い方はお考えをまとめるのにお時間がかかるのでしょう」
「それはそうと、本日、その方は? お見えになっていますでしょう?」
扇が揺れ、視線が歓談中の人々の間を渡っていく。
「ご覧になって……ずいぶん深みのある藍ですこと」
「それだけではありませんわ。あれほどの仕立てを、この時期に用意できるのは限られておりますもの」
「まあ……やっぱり、あちらと響き合う色合いですわね」
柔らかな陽射しに、銀がふと煌めく。扇の端が静かに揺れた。
「陽の加減で……別の色にも見えますわね」
「ふふ、あまり近づけば、陽だまりの猫にひっかかれましてよ」
「そうでしょうかしら? あちらで毛づくろいに夢中のようですけれど」
扇の影で囁かれる声はあたりに流れることはない。それでも、話題の中心となっているゼノは何事かを感じているのだろう。
視線を流すと、別の輪に加わる母の姿があった。
穏やかに談笑するその横顔は、こちらへ向けられる気配を見せない。
それがかえって「これくらいあしらえずに、王女の隣など片腹痛い」と告げているようで──
(これくらいは自分でさばけということですね。わかりましたよ、母上……)
エドワルドとアリシアは、他の招待客との歓談に笑みを交わしている。そこへ加わることもできたが、それでは違う──そう思った。
静かに視線を巡らせ、噂をしている婦人たちの輪へと歩みを向ける。わずかに揺れる扇、その奥に潜む視線が、春の光の中で鋭さを増していた。
一人の婦人が微笑みを深め、探るように口を開く。
「……やはり、そのお色は“どなたか”を意識されたのですの?」
「春ですから。光に映える色を選んだだけでございます」
別の婦人が、わずかに身を傾けて囁いた。
「ええ……まるで、銀青のようにも見えますわね」
「そう感じられたなら、私の選びは間違っていなかったということです」
扇の影で視線が交わり、婦人たちの唇にかすかな笑みが滲む。
それ以上は踏み込まず、扇をゆるりと閉じて礼を交わす。
だが、そのまま解けた輪の視線は、自然と別の一点へ――
春の光の中、兄とそば付きに声をかけるアリシアへと流れていった。
「お兄様、庭師が丹精込めた花を見てこようと思いますわ。フェルミナ、ついてきてくださるわね」
「アリシア、茶席で待っているよ。せっかくの花だ、おまえが愛でれば皆も喜ぶだろう」
「王女殿下、日差しが強うございます。こちらの日傘を」
そう言ってマティルダが差し出す日傘を受け取ったアリシアは、茶席に続く道へと足を踏み出していた。斜め後ろに控えたフェルミナが、咲き誇る花のあれこれを告げる。その半歩後ろに控えた形でマティルダが続いていた。
王女主従が移動する先で人々がそれぞれに膝を折り、カーテシーをする。
アリシアはにこやかに笑みを返しながら歩を進めていたが、ふと足を止めた。
「……あら?」
フェルミナが小首を傾げる。
「どうかなさいましたか」
(あちらに――いらっしゃるのは……)
木立の向こう、春の光を受けて深藍がしっとりと映え、光をはじく銀糸が淡く揺れていた。
視線がそちらへと向かった瞬間、その色の主もまたこちらを見た。
ほんの一拍、互いの視線が絡み合う。
だが、あくまでもそれだけ。
次の瞬間には、アリシアは何事もなかったかのように視線をもとに戻していた。
「どうということはありませんわ。ちょっと、あちらで何かが光っているのかと思いましたから」
「さようでございますか。お気になるのでしたら、誰かにいって、確かめさせましょうか?」
フェルミナの声にアリシアは軽く首を振りながら静かにこたえる。
「皆さまに余計なお手間はかけられませんわ。
何もないと申しましたでしょう? 気にしなくてよろしいの」
「かしこまりました」
「ええ、あなたの気遣いはわかっていますもの」
そう言いながら、アリシアは花に手を伸ばしながら歩いている。しかし、その内心はどこか複雑なものがあるのだった。
(これまでなら、何も言わなくても、いつの間にか横にいらしたのに……
そのことが不思議で仕方がなかったけれども――)
春の日差しは柔らかいが、時に鋭く目を射す。
目を細めたその瞬間、ふと蒼みを帯びた藍と白金のきらめきが視界をかすめた気がした。
けれど、それを追うことなくアリシアは花へと視線を戻す。
その様子を遠目に見ていた令嬢たちの間に、小さなざわめきが走った。
「ね、ねぇ。あれって……」
「見つめてる? 見つめあってる?」
「そんなことありませんでしょう? 偶然じゃないの?」
令嬢たちはさらに顔を寄せ合い、笑いと囁きが止まらなかった。
「日傘がなければ、もう少しはっきりわかるのに」
「そのようなこと、はしたないと言われましてよ?」
「あれが気にならないっていうの?」
令嬢たちのさんざめきが風に乗って流れていく。
そんな声も耳に入らぬのか、アリシアはフェルミナとマティルダを引き連れて、ゆったりと歩を進めていった。
その歩みの後ろで、穏やかな空気がそっと流れを変え、別の輪のざわめきを静かに運んでいた。




