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第1話|ざわめきと沈黙の奥に

 昼下りの王女宮は、翠月の光を受けて静まり返っていた。

 窓辺の白いカーテンが揺れるたび、中庭で響く笑い声や足音をかすかに届ける。


「ねえ、あのドレスの色合わせ見た?」

「ええ。まさか、殿下ではない方との色合わせなんて」

「つまり、もう決まってたってこと?」

「そうじゃないの? だって、あの夜会の前からそんな噂だったじゃない」

「今朝も、誰かがもうすぐ布告が出るって話をしてなかった?」


 中庭の花壇のあたりだろうか。水の落ちる音と一緒に、侍女たちの声が風に乗って届く。

 本のページをそっと閉じ、アリシアは短くため息を吐いた。


(……お兄様。どうして、あの時に何も仰らなかったの?)


 あの夜、父である王の宣言のあとの兄の沈黙。

 一週間を経ても、まだ解ける気配はない。そのためか、王宮の内も外も、静けさの奥にざわめきを孕んでいた。

 耳に入る噂は、どれも確かめようのないものばかり。だからこそ、どうしていいのかわからない。


「アリシア様、来週の庭園解放の際のお召し物の選定に衣装室へお越しくださいと。フェルミナ様もすでにお待ちでございます」


 マティルダの声に軽くうなずき、アリシアは席を離れた。


「ありがとう、マティルダ。本日の当番はイレーヌとセリナなのね。庭園解放の折なら、明るい色の方が映えるでしょう。一緒に選んでくださるかしら?」


 その声にイレーヌとセリナは揃って頭を下げる。


「いってらっしゃいませ」


 マティルダの声に送られるようにして、アリシアは王女宮を出ていた。

 そんな彼女が本宮殿へ続く回廊を歩いていた時、渡り廊下の先に、見慣れた背があった。

 儀礼課の職員や近衛の責任者と並び、何やら書付を手に話している。


 ゼノだ。


 こちらに気づくと、ほんの一瞬だけ視線が揺れ、すぐにそれを覆い隠すように軽く会釈を返してきた。

 その仕草に、アリシアの歩みがわずかに緩む。


「……グラナート様」


 呼びかけても、返ってきたのは口元のわずかな動きだけ。

 その奥にあるはずの感情までは、彼女には読み取れなかった。


 そのまま、彼は職員たちと歩き出した。

 足音が遠ざかり、曲がり角の向こうに姿が消える。


 ──あの頃なら、必ずこちらに来てくれたのに。


 視線を落とし、胸の奥に小さなざわめきを抱えたまま歩を進める。

 廊下の端で控えていたイレーヌが、さりげなく口を開いた。


「庭園開放の打ち合わせだそうです。……表向きのことですので、王女殿下にはお知らせしなくてもよいと王太子殿下が」

「お兄様が?」

「はい。お衣装を選んだりでお忙しいだろうことを考慮された、お心遣いかと」


 それは、心遣いなのだろうか。

 それとも──。



◇◇◇



 その日の午後、王宮の前庭はいつもより人の出入りが多かった。

 庭園開放の準備が進んでいるのだろう。儀礼課の職員や下働きの庭師が、花壇や通路を行き来している。


「次は噴水の周りを……」

「はい、警備の配置はその後で」


 そんな声が窓越しに聞こえてくる。そんな中、アリシアは衣装室でその日のドレスを選んでいる最中だった。

 今回の庭園解放は昼間。だからこそ、夜会の時ほど堅苦しいものではない。そのことが分かっているのだろう。セリナの表情はどことなく安心しているし、イレーネはそれでも吟味する目を捨ててはいないようだった。


「アリシア様、こちらのドレスはいかがでしょうか?」

「イレーヌ、こっちの方がアリシア様には似合うって」

「セリナ。いくら昼間の会だからって、足元が見えすぎるのは良くないのよ」

「そうなんですか?」


 窓から射し込む柔らかな光が、布地の淡い色をきらりと浮かび上がらせる。

 セリナが選んだドレスのスカート丈に、イレーヌが小さくため息をつく。

 アリシアは笑みを浮かべただけで、特に咎めることはない。


 少し離れた鏡台のそばで、衣装を抱えた二人の侍女が小声を交わしていた。


「あの方、本当に遠慮がないわね」

「でも殿下がお許しなんだから、いいのでしょう」

「……まあ、だからこそ、あんなふうに口が利けるんでしょうね。普通なら首が飛んでもおかしくないわ」


 一方、そのさらに奥、窓際近くでは別の侍女たちが身を寄せ合い、より小さな声で囁き合っていた。


「そういえば、先ほどグラナート様をお見掛けしましたわ」

「ええ、相変わらず素敵な方。……ってことは、王女殿下にご挨拶?」

「いいえ。特にお言葉もなく、すぐ奥へ行かれたみたいよ。今は庭園解放のご準備でしょう?」


「それもそうね。でも、ちょっとお疲れのご様子じゃなかった?」

「……殿下のお顔が晴れていらしたから、きっと大丈夫よ。王太子様の機嫌も良さそうでしたし」

「そうね、あの方のお顔色が良い時は、だいたい周りも平和だもの」


 耳の端に届いた言葉に、アリシアは視線だけを落とす。

 ──お疲れ、なのかしら。それとも……。



◇◇◇



 衣装を選び終わったころには午後のお茶の時間も過ぎていた。


「セリナ、帰ったらお茶を淹れてくださるかしら?」

「はい、アリシア様」


 セリナの明るい声が回廊に響く。その時、耳になじんだ足音がアリシアの耳に届いていた。


「お兄様」

「……アリシア。今日は何かあった?」

「ええ、今度の庭園解放の時のドレスを決めていましたわ」


 にこやかに笑いながら告げる妹に、エドワルドも同じ表情で返している。


「そういえばそうだったね。この前から、庭師たちが張り切っている。きっと、見事な会になるだろうね」

「ええ、わたくしも楽しみにしていますわ」

「アリシアが楽しみにしているといえば、誰もが張り切るだろうね。それはそうと、その日は銀青?」


 庭園解放の時の衣装についてだろう。そう思ったアリシアだが、ふっと答えが一拍遅れてしまっていた。


「さすがに昼間に銀青は……裾の刺繍に銀青薔薇は入れていますが……」

「……そうかい?」


 わずかに細められた兄の目が、一瞬だけ探るような光を帯びる。すぐにそれは柔らかな色に戻った。


「たしかに日中の庭園で銀青は重いだろうね」

「ええ、ですのでイレーネの意見を参考にして、ペールブルーのオーガンジーにしてみましたわ」

「なるほど……アリシアに似合いそうだ」


 兄はそう言いながら、視線を回廊の外へと移した。そこには、庭園の手入れにいそしんでいる庭師たちの姿がみうけられる。


「……そういえば、お兄様」

「うん?」

「夜会のとき、お父様のお言葉のあと……どうして何も仰らなかったのです?」


 言葉にしてしまえば、胸の奥の小さな棘がはっきりと疼いた。

 兄は、ほんの一瞬だけ足を止めた。

 けれど、その間を埋めるように歩を進め、穏やかな声で応じる。


「……あれは、わたしの役目ではないと思ったからだよ」


 アリシアは、返す言葉を見つけられずに瞬きをした。

 彼の横顔はいつも通りの落ち着きを湛えていて、そこに揺らぎは見えない。


「王の宣言と王太子の言葉。さすがに重すぎるだろう。

 だから、あの場は父上の言葉だけを残すべきだと考えた」


 そう言いながらも、エドワルドは視線を前に向けたまま、口の端だけで微かに笑った。

 磨かれた床をゆっくりと歩きながら、彼はふと立ち止まり、傍らに控える侍女へ視線を向ける。


「……もっとも、そのせいか、あちらこちらで小鳥が騒がしいらしいね」

「小鳥、でございますか?」


 自分に対しての声だろうと判断したイレーネが静かにこたえる。それに対して、薄い微笑みを浮かべながらエドワルドは言葉を続けていた。


「そう。それだけじゃない。どうやら、最近、王女宮に見慣れぬ子猫が紛れ込んでいるらしいね」


 その声にセリナはきょとんとした顔をする。一方、イレーネは小さく瞬きをしてから、唇に笑みを浮かべていた。


「まあ……それはまた、可愛らしいこと」

「可愛いかどうかは、さておきだよ」


「殿下、もしかして──その子猫は牙を隠しておられる、と?」


 イレーネがからかうように囁けば、セリナは「えっ、猫なのに牙って」と首を傾げる。

 エドワルドは笑みを深めるでもなく、淡々と答えた。


「牙も爪も、隠しているうちは問題ないよ。……だが、うっかり引っかかれたら、傷は意外と残る」


 彼は歩みを再開しながら、低く続ける。


「もし見かけたら、マティルダに親猫のところに送り返しておくようにと。……放っておくと、小鳥たちが必要以上に騒ぎ立てかねない」


 回廊を抜ける風が、言葉の最後をさらっていった。



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