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拐われたお姫様ですが、勇者ではなく魔王様を好きになりました  作者: Aldith
第6章|微笑みの裏側で (ゼノルート)
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第4話|決まらぬまま、動き出す

 儀礼課の執務室に、いつもより早く人が集まっていた。

 壁際の窓から差し込む朝の光が、積み上がった羊皮紙の山を白く照らす。

 書記官たちは席に着いたまま、互いに視線だけを交わしていた。


「政務課か? いや、儀礼課から……」

「政務課は動いてないと聞きました」

「じゃあ、どこへ問い合わせろと──」


  朝の執務室は、囁きとも溜め息ともつかぬ声で満ちていた。


「……で、来ていないのか?」


 低く落とされた声が、部屋の空気を一段と重くする。

 課長席の前に立つ若い補佐官が、手元の書類束を抱え直した。


「はい。昨夜の王命に関する布告文は、まだ政務課から降りておりません」

「そんなはずはない」


 机上の羽ペンが、かすかに軋む音を立てる。


「陛下があれだけ公然と……いや、あれは確かに王命だったはずだ」

「ですが、王太子殿下からの追認も、側近を通した伝達も……」

「何も、か」


 短いやり取りの後、沈黙が落ちる。

 その沈黙の中で、紙の匂いとインクの香りがやけに濃く感じられた。

 課長は椅子にもたれ、指先で机をとんとんと叩いた。


「つまり──王命としての形は整っていない。そういうことだな」

「はい。このままでは、儀礼課として正式な次の段取りに移れません」


 場の隅で様子を見ていた書記官が、恐る恐る口を開く。


「……では、昨夜のあれは、式次第に記録しなくても?」

「馬鹿を言うな」


 課長の声が鋭くなる。


「記録には残す。だが、それは“発言”としてだ。正式文書とは別物だ」


 その場にいた全員の表情が曇る。

 発言と布告では、意味がまるで違う。

 布告は儀礼課と政務課を通して全貴族へ通知されるが、発言だけではただの“出来事”で終わってしまう。


「第六記録室は?」


 課長の視線が部屋の奥に向く。

 そこには、調整役として同席している第六記録室のフロイライン=リースフェルトがひとり、静かに立っていた。


「昨夜の議事録……いえ、式録はすでに清書中です」

「王命としてではなく、発言としてか?」

「はい。ただし、脚注に“陛下のご発言は広間全体に聞こえるものであった”と明記します」


 課長は小さく頷き、だがすぐに眉間に皺を寄せた。


「……それでは、こちらも動きようがないな」


 室内にため息が重なった。

 昨夜の場面を知る者にとって、それは婚約発表に等しい出来事だった。

 だが公式な形を伴わなければ、礼儀も準備も、何一つ進められない。

 儀礼課にとってこれは、最大級の膠着状態だった。


 その沈黙を破ったのは、儀礼課調整官のクラウス=リースフェルトだった。


「……四男、お前のところで王命として記録してくれれば、こちらも動けるんだがな」

「兄上、冗談はやめてください」


 フロイはきっぱりと言い返す。


「記録室は事実を記す場です。政務課からの正式な布告なしに“王命”と書けば、即日差し戻されますよ」

「だが、昨夜の場にいた者は全員、あれを王命と受け取った」

「受け取った、では駄目なんです。形式がすべてです」


 きっぱりとしたフロイの声に、室内の何人かが小さく頷く。

 儀礼課は段取りの責任を負い、第六記録室は記録の正確さを守る──立場が違えば、優先順位も違う。


「……なら、お前たちはどうするつもりだ」

「発言として記録し、脚注をつける。それ以上は政務課の動きを待つしかありません」


 クラウスは深く息を吐き、机上の羊皮紙を軽く叩いた。


「待っていたら、各家から問い合わせが殺到するぞ」

「それはそちらの仕事でしょう」

「……お前な」


 兄弟の視線が正面からぶつかる。

 互いに引く気配はなく、その間に他の書記官たちがそっと距離を取った。


「儀礼課としては、すぐにでも婚約式の段取りに入らなければならないんだ」

「第六としては、誤った形で記録を残すわけにはいかないんです」


 短いやり取りの中に、それぞれの部署の立場と焦りがにじむ。

 クラウスは腕を組み、しばし黙った。

 やがて、抑えた声で言う。


「……政務課に催促は?」

「午前中に一度行きましたが、『確認中』の一点張りです」

「確認中、ね……」


 クラウスの眉間に深い皺が刻まれる。

 その言葉は、官庁の世界では“結論が出せない、あるいは出したくない”の婉曲な表現だった。

 そんな兄弟のやり取りを横目に、他の文官たちも慌ただしく動いている。


「政務課が駄目ならどこへ……」

「越権にならないところって、どこだ?」


 声が交錯し、インクの匂いと混じって室内の空気をさらに熱くする。

 沈んだ空気の中、年長の書記官が小さく呟く。


「……これは、長引きますな」


 その一言に、場の全員が顔をしかめた。


 誰も口を開かない時間が、やけに長く感じられた。

 窓の外からは昼の鐘の音が微かに響く。

 しかし、部屋の空気はまるで曇天のように重い。


「……このままでは、外が先に決めてしまいますね」


 書記官のひとりがぽつりと言った。


「何をだ」

「“婚約は成立した”という事実を、です。

 正式な布告がないまま、噂だけが独り歩きすれば──それが“事実”になります」


 フロイが小さく頷く。


「第六としても、それは避けたいんです。ですが、記録は記録です」

「記録より先に、社交界が動き出す。すでにあちらこちらのサロンで噂がばらまかれているはずだ」


 クラウスの声は低い。


「陛下の発言が式録に載れば、少なくとも『王命の可能性あり』と解釈される」

「それが勝手な解釈を呼ぶのです」


 クラウスは無意識に机を指で叩き、短く息を切った。


「解釈しなきゃ動けないんだよ、こっちは!」


 クラウスの押し殺した怒声が響き、数名の書記官が息を呑んだ。

 昨夜の広間にいた者なら、理由は嫌でも分かる。

 ──陛下の宣言の後、王太子殿下が一言も祝辞を述べなかった。

 その沈黙が、布告を止めている。


 発表されたはずの婚約が、制度の上では“何も始まっていない”状態で宙ぶらりんになっている。

 儀礼課は、布告が来ればすぐに段取りを動かせる体制を整えておく必要がある。

 だが「布告待ち」の状態では、何一つ公式には動けない。


 フロイは視線を伏せたまま、静かに言った。


「兄上、正式な王命は、王太子殿下の追認があって初めて成立します」

「……つまり、あの沈黙が」

「はい。現時点では、何も始まっていません」


 その事実が、改めて場の空気を冷やす。

 昨夜の光景を知る者には、婚約発表に等しい場面だった。

 しかし、制度の上では──何も決まっていない。


 机上の羊皮紙の山が、やけに白く目に映る。

 その中には、婚約式や贈答品、席次の段取り案がすでにいくつも含まれていた。

 だが、すべては「布告」がなければ使えない紙束にすぎない。


 課長がゆっくりと立ち上がる。


「……政務課からの正式文が届くまでは、全て保留だ。外部からの問い合わせには“確認中”とだけ答えろ」


 その言葉は、場にいた全員にとって敗北宣言にも等しかった。

 フロイは深く一礼し、持参した書類を抱えて退出する。

 廊下に出た途端、背後の扉が静かに閉まった。

 扉一枚隔てただけで、空気の色が変わる。

 だが、重いものが肩に乗っている感覚は変わらない。


(このままでは……)


 外の世界は待ってはくれない。

 今ごろ、貴族街のサロンや茶会では、昨日の出来事が語られているはずだ。

 細部が削られ、時に盛られながら、別の物語へと形を変えて。


 フロイは階段を下りながら、心の中でため息をついた。

 第六の机に戻れば、式録の清書が待っている。

 脚注に「広間全体に聞こえる発言」と書き添えた、その一行が、これからどれほどの波を立てるのか──。


 一方、儀礼課の執務室に残ったクラウスは、机上の紙束を押しやるように両手で払った。

 段取りは整っている。

 だが、それを動かすための最後の一押しが、どこからも来ない。


 窓の外を眺めれば、昼の光の下を馬車が行き交っている。

 あの中には、昨夜の話をもう別の形で語っている者もいるだろう。

 ──決まったはずのことが、決まっていないまま動き出している。


 胸の奥にじわりと広がる焦りを、クラウスは深く飲み込んだ。

 次に動くのは、政務課か、それとも──。

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