第3話|噂は熱を帯びて
翌日の昼下がり。
昨夜の舞踏会で陛下が口にしたあの宣言──王女殿下をグラナート公爵家嫡子に、というお言葉。
あれで縁談は確定だと、多くの者が信じていた。
けれど、その場で王太子殿下は何も仰らなかった。
たったそれだけのことが、こうして昼下がりのサロンを満たす話題になっている。
陽射しの差し込む大きな窓辺に、花柄のソファと丸いテーブル。銀盆の上で揺れる紅茶の香りは、菓子の甘い匂いと混じり合い、部屋全体にやわらかな幕をかけていた。
──表面だけは。
「……嘘ですわ」
深紅のリボンをあしらったドレスの胸元が、わずかに上下する。白手袋の指先は、紅茶のカップを持ち上げようとしても小さく震えていた。
「たしか、話を進めていると家宰が……。お返事がないなんて、よくあることでございましょう?」
そう口にしながらも、視線は昨夜の光景から離れられない。王太子殿下が立たなかった、あの瞬間を。
「まあ、それはずいぶんと古いお話ですこと」
向かいの席の令嬢が、わざとらしくカップを傾けながら微笑んだ。
「先日、わたくしの家には丁寧なお詫び状が届きましたのよ。封蝋もきちんとあって……とても正式なものでしたわ」
「でも、お詫び状なんて、ただの儀礼ではありませんこと?」
「……お詫び状を、ただの儀礼文だと思っていらしたの?」
扇の陰から放たれた一言に、場の空気がぴりりと張り詰める。紅茶の湯気が一瞬で冷えたような感覚が広がった。
「まあ……お里が知れましてよ」
「お詫び状を受け取るほどのご縁もない方には、そう映るのでしょうね」
「まあ、それは──」
言葉の端がかすかに揺れたところで、淡い水色のドレスの令嬢が静かに割って入った。
「こちらでは、昨年の終わりから話が変わっておりましたのに」
「まあ、そんな時期から? それは……どちら筋からのお話で?」
「もちろん、直接伺いましたわ。あの家の方から」
「まあ、それはご丁寧に。けれど、そのような話は広まるのも早いものですわね」
「ええ。ですから、耳に届いた順が、動ける順というものですのよ」
その言葉に、いくつもの視線が交わる。
「もしや……昨年の終わりから、もう決まっていたのではなくて?」
別の席から身を乗り出す声。
「どうしてそう思われますの?」
「だって、昨夜のお二人、これ以上ないくらい意匠が揃っていましたもの」
銀青の意匠──同じ模様ではないが、互いに呼び合うように計算された装い。偶然と呼ぶには整いすぎていた。
「いつもでしたら王太子殿下との合わせのはずなのに、ちょっとおかしいと思ったんですの」
「あなた、本当に目が早いのね」
「普段は刺繍まで揃えていらっしゃるのに、昨日は殿下の礼服が藍を外した白一色。代わりに、グラナート様の袖口と王女殿下のドレスの銀青が、まるで呼び合っていましたわ」
「しかも胸元の留め具まで同じ色。宝石まで揃えていらしたのは見事」
「ええ、しかも昨年の春の夜会では殿下と完全に揃えていらしたのに」
「揃えるお相手が変わった……ということでしょうね」
「まあ、誰に合わせるかで、あれほど印象が変わるものなのね」
兄と妹が並んで入場したときのかすかな違和感──それは王太子とのずれと、ゼノとの揃いが同時に存在していたからだ。
白礼服は王家としておかしくはない。けれど王女の銀青に合わせるなら、本来は藍に銀糸を添えるのが最も映えるはず。
それなのに、殿下は白一色で、差し色が袖口の銀青にとどまっていた。
そしてその銀青こそが、ゼノの装いと呼応していたのだ。
息が詰まるほどの沈黙が落ち、やがて低く同意の吐息が重なる。
「だからでしょうか? 殿下が何も仰らなかったのって……」
「それだけではありませんわ。殿下……お立ちにもならなかったでしょう?」
「ええ、普通でしたら、あの場は『妹を頼む』と仰るはずなのに」
「お考えあってのことかもしれませんけれど──」
口元だけは優雅に保たれている。けれど、その声は棘を忍ばせていた。
「あら、仕方がございませんでしょう? 殿下がどなたをご覧になっているのか、有名ではございませんの」
その言葉が落ちた瞬間、背筋が同時に強張る。
よもや、この場でそんなことを口にするとは──。
けれど、言った本人は平然として続けた。
「あちらこちらからのご縁を、すべてねじ伏せられておりますのよ。それに、視線に耐えられず逃げた令嬢もいるとか」
「そ、それは噂だけでございましょう? よもや、本気でのことだとは……」
「ええ、思ってなどおりませんわ。でも、囀る小鳥は多いものでしてよ」
「小鳥は何でも面白おかしく囀りますものね。真に受ける方がどうかしていますわ」
「まあ、真に受けずとも、耳には残りますでしょう?」
「……そうして何度も聞けば、いずれは事実のように聞こえてくるものですわ」
「そう、だからこそ火のないところに煙は立たないとも申しますもの」
「まあ……おそろしいお言葉」
笑みの端にだけ、冷えた光が宿る。
そのやり取りは、優雅さの下に鋭い刃を隠したまま続いていった。
カップを置く音すら止まり、菓子の甘さが妙に際立つ。
沈黙が降りてきた──昨夜の舞踏会で、殿下が何も言わなかったあの瞬間と、同じ重さで。
「でも、陛下のお言葉は間違いなくありましたわよね?」
「ええ、はっきりと。それに応えられた方も……」
「ですわよね。普通ならそこで決まり。我が家など、母が早速に目の色を変えておりましたもの」
「あなたのところは、本当に耳が早いこと」
一人の令嬢がカップを置き、嫣然と微笑む。
「あら、用意周到とおっしゃっていただきたいですわ。準備は万端にしておかないと足をすくわれますもの」
「たしかにそうですわね。衣装や宝石、どのように格を揃えようかと悩まれる方も多いのではありませんかしら」
「本当に……。ドレスにしても飾りにしても、手配が遅れたら目も当てられませんわ」
「あら、それはそちらの腕が短いというだけのことではありませんの?」
「まあ、では今度はぜひ腕の長さを競ってみましょうか」
「ふふ、それは面白うございますわね──負けた方は来季の色を譲るということで」
「色だけで済みます? 宝飾商の予約もお忘れなく」
「まあ、それは手厳しいこと。けれど先週のうちに青玉は押さえてございますわ」
「ご安心あそばせ。こちらも別筋で確保済みですの」
小さな笑いがいくつも漏れ、それに混じって諦めの吐息も落ちる。
それは楽しげでいて、どこかに棘を含んだ響きだった。
この日、サロンで交わされた言葉は、一つの輪の中だけで終わることはなかった。
同じ出来事は語り手によって少しずつ形を変え、隣の席へ、またその隣へと渡っていく。
やがて、それは家族や友人への手紙に、夕餉の席の話題に紛れ込み、屋敷の使用人の耳にも届いた。
真実と虚飾が入り交じりながら、淡く、あるいは誇張され、静かに広がっていく。
窓辺では午後の光が傾き、レースのカーテンの裾に影を落とす。
紅茶の香りが薄れるころには、噂もすでに最初の形をとどめていなかった。
銀青の意匠は、もはや“お揃い”ではなく“婚約の証”と語られ、
王太子の沈黙は“縁談を拒んだ証”にも、“妹への溺愛の証”にもすり替わっていた。
ひとたび形を変えた物語は、もう元には戻らない。
聞き手にとって都合のよい色を帯び、その色をまとったまま次の耳へと渡っていく。
やがて、最後の客が扇を畳み、菓子皿が片付けられるころ。
屋敷を出た侍女の足取りは軽く、別の邸宅の門をくぐる。
夕暮れまでには、別のサロンで同じ話が始まるだろう。
そして翌朝には──街角のカフェで、さらに別の物語が重ねられているはずだった。




