第2話|祝辞なき夜
白い列が最後の一回転で波を鎮めた。裾が余韻を引くように揺れ、楽師は終止の和音を静かに落とす。
拍手が花吹雪のように広がり、やがて静けさが戻ってくる。
磨き込まれた床には、いくつもの足跡の弧が重なっている。視線は自然と壇上へ集まり、銀糸の幕がふっと揺れた。
「次は……?」
問いかけに返事はなく、兄は杯をわずかに傾けるだけだった。
奏者の手が弓を下ろす。次の曲は来ない。大広間の空気が一拍だけ深く沈み、遠くで誰かが息を呑む。
——合図を待っている。夜の“本題”は、ここからだ。
静まった奥で、ゆるやかに椅子が引かれる音がした。
「……陛下が」
近くの席で誰かが息を潜める。視線が壇上へ吸い寄せられ、燭台の炎が揺れ、銀糸の幕が上がっていく。
「陛下のお言葉にございます」
典令女官の澄んだ声が響き渡った。
王が一歩前に出る。会場をゆっくりと見渡すその視線に、誰もが息を詰める。
「諸君、今宵は新たな社交の季節を祝う日である」
低く響く声が、天井の装飾に反射して戻ってきた。
アリシアは兄の横顔をちらりと見た。変わらぬ穏やかな表情。だが、その視線の先は壇上に固定されている。
扇の陰で交わされる小声、わずかにざわつく衣擦れ。次の言葉を待つ空気は、張り詰めた糸のように細く、長く伸びていた。
王は壇上で一度だけ視線を巡らせると、ゆるやかに口を開いた。
「我が愛娘、アリシア=リュミエールは——」
わずかに間を置く。その間すら、場の空気を支配しているようだった。
「——ゼノ=グラナートの求婚を受け入れる」
ほんの一瞬、静寂が落ちた。
視線が一斉に王太子席へと向かう。白礼服の兄は変わらぬ穏やかな表情で立ち、頷きも反論もせず、ただ場を見渡している。
その沈黙が、空気にわずかな波を走らせた。
やがて、青年が進み出て深く一礼し、静かな声で答礼を述べる。
「この上なき光栄。命を賭して姫様をお守りいたします」
「……殿下は?」
誰ともなく漏れた囁きが、さざ波のように広がっていく。
本来ならば、兄であり王太子である彼が真っ先に祝意を述べるはず――それが慣例であり、儀礼の正しさでもあった。
だが、沈黙。理由も意図も語られない。
(……これは、承認とは限らない)
長く宮廷にいる者ほど、その重みを知っていた。王命と王太子の言葉は対になって初めて絶対となる。片方が欠ければ、宣言は“約束”にも“決定”にもならない。
アリシアは、そのやり取りを黙って見つめていた。兄の沈黙の意味を測ろうとしているのか、その表情は読み取れない。
王は動じる様子もなく、すでに決められた台本をなぞるように言葉を続ける。
「この結びつきが、我が国の未来をより確かなものとするであろう」
その声とともに、壇上から視線を下ろした。
青年は再び深く一礼し、定位置へ戻る。
それを目にしていた扇の陰で幾つもの囁きが行き交う。
「まさか、グラナート家とは……」
「でも、お似合いですわ」
「お似合いかどうかは……」
柔らかな笑みと、わずかに硬い声音が入り混じる。
「……これでグラナートは一歩抜けたな」
「いや、殿下のお言葉がなかった。あれがどう響くかは、まだわからん」
「ふん、祝辞を飛ばすほど単純なお立場ではないさ」
「しかし、前からわかってはいたがグラナートの奴、本気だったか」
「あいつの噂、知っているだろう。氷も氷」
「舞踏会も見合いも、全部すり抜けるくせに……それがあんな顔するんだな」
杯の縁を指でなぞりながら、若い令息たちは視線だけで壇上と王族席を往復させていた。
その少し後方では、もっと剣呑な声が交わされる。
「まったく……大人げないというか、嘴が黄色いというか。こと妹君となれば、なおさらな」
「おそらく、三月。それ以上は荒れる」
「西の海も、静かなうちはよいのですがな」
「今は。……ただ、荒れる時は荒れる」
「でしたな。祝儀の手配もありますし、他も見繕いましょうか」
「その方がよきかと」
視線がいくつもこちらに注がれる。その中には、好奇も探りも、隠しきれない嫉妬もある。
その中のいくつかの声がアリシアの耳にも届いてくる。
「姫様、お幸せそうで」
「あの意匠を見せつけられたら、察せ、というものですわよね」
「明日からは忙しくなりますこと。いろいろと手配しませんとね」
「あら、もうお一方──殿下はあの通りですけれども?」
「仕方がありませんわよ。なにしろ、ちょっと熱病をこじらせているだけの若者ですもの」
檀上ではゼノが王の横に控え、その姿を多くの目が追っていた。
祝福と嫉妬は、光沢のある絹のように、同じ空気の中で揺れている。
拍手がひとしきり収まった後も、会場の空気にはわずかなざわめきが残っていた。
瑠璃色の宝石が光を弾き、杯の中の赤ワインが揺れる。その向こうで、若い令嬢が一瞬だけ目を伏せた――嫉妬か、諦めか、見分けはつかない。
「嘘、嘘ですわ……たしか、お話を進めていると家宰が言っていたはずなのに……」
「それって、お話が古いですわよ。先日、丁寧なお詫びのお手紙が参りましたもの」
「ひょっとして、ただのお詫びだと思っていらしたの? お里が知れましてよ」
「だって……そんな、急に手を引くなんて……」
「急に? まあ、そう見える方もいらっしゃるのね。こちらでは昨年の終わりから話が変わっておりましたのに」
うなだれる令嬢たちの間に、言葉ともつかぬ囁きが幾筋も交わされていく。
「……殿下、お言葉を掛けられなかったわ」
「ええ、本来でしたら『妹を頼む』と仰るはずなのに」
「お立ちにもならなかったのですものね」
「以前から妹君に並々ならぬ関心をお持ちとの噂でしたけれどもね……」
「まさか、陛下のお言葉に対してのお返事もなさらないとは思ってもおりませんでしたわ」
扇の陰で交わされる婦人たちの声は、穏やかな笑みと裏腹に探るような色を帯びていた。
兄は変わらず穏やかな表情のまま、杯をゆっくりと回している。
その姿に不自然さはない。けれど、この場にいるものの誰もが、エドワルドの「妹を頼む」の一言がなかったことを忘れはしないだろう。
「殿下もお考えがあってのことなのでしょうけれど……」
「ええ。けれど、あれほど公然と何も仰らないのは……」
扇の影から洩れた小声が、あたりに流れていく。
王が壇上から降りたことで、場の空気は再び華やかさを纏い始めている。
笑い声が徐々に広がり、楽師の弓が新しい旋律を奏で始めた。
それでも、いくつかの視線はまだこちらに注がれている。
「……あの視線、お気づきですか」
背後に控えるマティルダが、わずかに声を潜めて告げる。
「ええ」
扇を半ばまで開き、形だけの笑みを返す。
まさか、この場で父の口から――王としての宣言を聞くことになるとは思っていなかった。
あちらこちらから聞こえる声は、まるで最初から決まっていたかのように響いてくる。
十七になれば、婚姻の話は避けられない……頭ではずっとわかっていた。
それでも、今こうして突然、目の前に差し出されると、胸が詰まる。
……気づけば、自分もそれを当然のことのように信じ込んでいたのかもしれない。
そして、用意されていなかったダンスカード。父は、最初からこの宣言のために用意しなかったのだと、今ならわかる。
それだけに、兄の沈黙が怖かった。
(お兄様……お父様のお言葉になにもおっしゃらないのって……良くないのではないかしら?)
兄は依然として言葉を発しない。
その沈黙が、この場にいる人々の記憶に深く刻まれることは間違いない――そんな予感が胸を締めつける。
(わたくしは婚約したの? そうではないの?)
胸の奥に、冷たい水が静かに広がっていく。
拍手が再び巻き起こり、デビュタントを飾る令嬢たちの舞踏の輪が広がっていく。
純白のドレスが波のように揺れ、光を弾くたびに場のざわめきは柔らかく変わっていく――けれど、兄の沈黙だけは心から離れなかった。




