第1話|祝夜の幕開け
一年の社交シーズンの始まりを告げる翠月十五日の夜会。王家主催の特別な夜は、刻限を待たずに熱を帯びていた。
大広間の扉の向こうから、弦の低い前奏と笑い声が、花の香りと一緒にこちらへ流れ込んでくる。百合と薔薇、銀青を基調に整えられた飾りは、天井から落ちる光を受けて静かにきらめいた。
控室では、女官と侍女たちが最後の仕上げに余念がない。
姿見の前に立つアリシアは、深く息を整え、緊張をほどいた顔を保とうとしていた。王女としてこの夜に臨む、その振る舞いを乱すわけにはいかない。
「ねえ、マティルダ。今日のエスコートは、お兄様のはずよね?」
「はい。殿下がまもなくお迎えにいらっしゃると、お知らせがございました」
「そう。……じゃあ、ファーストダンスも、お兄様?」
問いかけに、マティルダの指が一瞬だけ止まる。糸切り鋏が光をのぞかせ、すぐに彼女の手の内で静まった。
「本日は、陛下のご意向がございます。ダンスカードのご用意は不要、とのことに」
「不要?」
小さな鈴を鳴らしたような響きが、場の空気をわずかに揺らす。
「いつもは前日には届くはずでしょう?」
「翠月の祝夜は特別でございますゆえ。儀礼局も各家の対応に追われております。例年どおりとは……」
「とは、いかないのね」
マティルダは微笑を崩さない。けれど、その指先がかすかに震えているのをアリシアは見た。問いを重ねようとしたその瞬間、別の声が割って入る。
「姫様」
イレーヌが裾をそっと持ち上げ、目を丸くする。
「なんて見事な刺繍でしょう。銀青薔薇とツタ模様の取り合わせ、姫様に本当にお似合いです」
「ありがとう、イレーヌ」
「衣装室でも、皆がため息を。他にもご衣裳はありましたが、やはりこれが一番でしたね」
「やっぱり、これにして良かったかしら。一目見た時からとても気に入ったのよ」
アリシアの言葉に、マティルダがやわらかな声で引き取る。
「姫様に似合うことだけを考えて仕立てられたものですわ。お目に留まるのも、気に入られるのも当然ですわ」
穏やかなやり取りの中でも、先ほどの一言は鈴の音のように残っている。
ダンスカードは不要──父の意向。今まで一度もなかったこと。それは誰かのためなのか、あるいは誰とも踊らない夜という意味なのか。問いは胸に置かれたままだった。
そんな中、控室の扉が二度、軽く叩かれる。女官長フェルミナの確認ののち、扉は静かに開いた。
「アリシア、準備はいいかい?」
白礼服の兄、エドワルド。光の粒を背に、いつもの穏やかさで立っている。アリシアは自然に笑みを浮かべ、その礼服に視線を滑らせた。……少し、違う。
これまでなら、彼女の装いと意匠全体が呼応していた。それが今夜は、銀青を差し色に添える程度にとどまっている。
ということは、エスコートはしても、ダンスの相手はしないのかもしれない。そう感じたのか、ふと口をついて出る。
「お兄様、今日はわたくしのお相手はしてくださいませんの?」
「どうして、そんなことを?」
「前におっしゃっていましたでしょう? パートナーとして踊るなら、意匠は揃えるものだって。でも……」
「そう言えば、今日は銀青をほとんど使っていないな。だったら、踊ってもらえないのかな?」
からかうような兄の声音は、いつもと変わらない。アリシアはツンと横を向いて返す。
「知りませんわ。お父様がダンスカードは不要とおっしゃっているのですもの」
兄は眉をひそめ、すぐに笑みを戻す。
「今年は例年よりもデビュタントが多いからね。父上もそれを考慮されたんだろう。それよりも時間だ、広間で待っている人たちがいる」
そう言って手を差し出す兄に、アリシアは指先を預けた。背後でマティルダとイレーヌが揃って礼を取る。
「では、姫様。よき夜を」
「――いってらっしゃいませ」
「ええ」
扉が閉じる音は、衣擦れの余韻に紛れて消えていった。
◇◇◇
「エドワルド王太子殿下、アリシア王女殿下、ご着席にてございます」
典令女官の澄んだ声が大広間に満ちる。
視線が一斉に集まり、低い歓声が波のように広がった。兄が椅子を引き、妹は王家の席に腰を下ろす。
銀糸の幕がふわりと揺れ、楽師たちの前奏が高まっていった。
「──翠月の祝夜、開幕にございます」
宣言と同時に、場の空気が引き締まる。
会話の糸がほどけ、中央へ視線が集まった瞬間、ひとりの青年が歩み出た。
「アリシア王女殿下」
必要なだけの響きで名を呼ぶ声。余計な感情は混じらない——けれど、その調子を知っている彼女には、わずかな熱が混ざっているようにも聞こえる。
ゼノ=グラナート。完璧な所作で深く一礼し、片手を差し出す。その仕草は、まるでこの場を予期していたかのようだった。
「陛下のご下命により、ファーストダンスを務めさせていただきます」
その一言に、兄の肩がわずかに強張るのを、すぐ隣で感じる。胸の奥に、説明のつかない鼓動がひとつ落ちた。
(——なぜ、ゼノ様が?)
立ち上がり、その手を取る。指先が触れた瞬間、靴のリボンから袖口の紋章まで——細部の色も模様も、今宵の装いと完全に呼応していることに気づく。
この衣装は王から賜ったもの。仕立て場に立ち会ったのは限られた女官のみで、意匠が外へ漏れるはずがない。それにもかかわらず、先ほど見た兄の礼装とは明らかに揃え方が異なっている。
「……どうして、そんなに揃っているの?」
思わず声に出すと、ゼノはわずかに目を細めた。
「偶然ではございません」
その短い答えが、かえって胸をざわつかせる。
近くの紳士が口元を押さえ、離れた席の婦人たちが互いに小さく頷き合った。
視線が鎖のように連なり、低いざわめきが波紋を描くように広がっていく。音楽は途切れない。それでも、わずかに緩んだ弓の音が、この場の動揺を告げていた。
伯爵夫人が扇で口元を隠しながら子爵夫人に何事かを囁き、すぐさま別の席で若い令息がその言葉を受け取ったように目を細める。
この場に集う者の多くが、舞台の中央を注視しながらも、それぞれの思惑を胸に秘めていた。
二人が中央へ進むと、自然に人垣が割れる。
左右から注がれる視線は、好奇と探りが入り混じった色を帯びている。
扇の陰で交わされる視線、笑みを湛えながらも止まる手、微かに上がる息——誰もが言葉を選び、表情を飾っていた。
縁どるように並ぶ視線の中、兄の視線が妹をかすめ、その奥に複雑な色が揺れた。
「姫様」
低く呼びかける声。返されたのは、形式どおりの言葉だった。
音楽が変わる。
一拍、二拍——踊り出す合図が床を通じて伝わる。最初のステップで、裾がふわりと広がり、銀青の刺繍が光を拾った。
星屑のようなきらめきに、幾人かの貴婦人が扇を止める。
「――お見事ね」
「揃えてあるのよ。見なさい、袖口の紋」
そんな囁きが交わされ、音楽に紛れて消えていく。見せたい者にだけ届く強度で、意匠は語っていた。
一曲が終わる。拍手が波のように広がり、王女は礼を返す。青年もまた完璧な礼を取り、その瞳を向けた。
静かなその奥に、何も映らないようでいて、確かに何かを潜ませている。そう感じた瞬間、指先にかすかな熱が残っているのに気づく。
「ありがとうございました、グラナート様」
「光栄にございました、姫様」
形式どおりのやり取り——けれど、その形式は、意志を包む器にもなり得る。
楽師が次の曲を告げた。今度は今夜がデビュタントの若い令嬢や令息たちの時間だ。
揃いの白いドレスがさざ波のように広がり、大広間は再びざわめきに満たされる。
笑い声が花びらのように舞い、光に溶けた。
祝夜は、まだ——始まったばかり。
 




