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第5話|これは、私の選んだ道──

窓から差し込む朝の光が、カーテン越しに柔らかく差し込んでいた。


──この部屋にも、もう慣れてきた。


最初はただ眩しくて、やたらと天井が高くて、落ち着かない空間だと思っていたのに。不思議と今は、そこにある重厚さや静けさに、安心を覚えている。



ふと、寝台の隣に置かれた銀のティーカップに目をやった。昨日の夜、レオナルトが「寒くないか?」なんて訊いて、何の前触れもなく淹れてきた紅茶。


魔王が淹れるお茶って、もっと恐ろしく苦いとか、謎の薬草が入ってるとか、そういうのを想像してたんだけど……思ったより普通で、ちょっと甘くて、優しい味だった。



起き抜けの髪にそっと手をやりながら、鏡をのぞき込む。


……王国の姫だったころの自分とは、もうどこかが違っている気がした。


装飾も、侍女も、命令も、今はない。けれど──



「わたくし、変わったのかしら」



つぶやいた声が、意外と静かに響いた。

この場所で過ごす日々は、まだ始まったばかり。でも、確かに思える。


私はもう、“誰かに返される姫”じゃない。

ここで生きることを、自分で決めた。




***




──階段を下りる音が、やけに大きく響いた気がした。


裾に金糸の刺繍が施されたドレス。襟元は高く、胸元は控えめ。けれど、仕立てそのものに威厳が宿っている。わたくしの意見など一つも通っていない、ヴァルド側の“選定衣装”。


不思議と、いやではなかった。

たしかに、荘厳すぎて歩きづらいし、腰もきつい。でも、この場でわたくしがどう見られるかを、彼らはとても真剣に考えてくれたのだ。



──魔王の隣に立つ者として。



扉が開いたとき、空気が一変した。

魔王レオナルト・アルセイン。その隣に立つのは、かつて王国の姫と呼ばれた少女──わたくし。


重臣たちの視線が、一斉にわたくしへと注がれる。

王国では決して味わうことのなかった種類の緊張感。けれど、不思議と怖くはなかった。


すぐ隣に、彼がいたから。


レオナルトは何も言わなかった。ただ、視線だけで「気にするな」と告げてくれる。

その気配に背中を押されるように、わたくしは静かに一礼した。


──王国の姫ではなく、この世界で生きる一人の存在として。




***




儀式の間中、ずっと背筋を伸ばしていたせいで、肩がこわばっていた。

ようやく扉が閉じ、わたくしは長く息を吐く。レオナルトと並んで席に着いた──というより、彼がそう促してくれたから。



「お疲れ様、アリシア」



静かに告げられたその声だけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。

わたくしはそっと頷き、膝の上に手を重ねた。



「……思っていたより、ずっと緊張しましたわ」

「そう見えなかった。君は立派だったよ」



わずかに笑みを浮かべる彼の横顔に、思わず見とれてしまう。

きっと、わたくしがヴァルドに来てから──いいえ、それよりもずっと前から、この人はずっと、こんな風に見守ってくれていたのかもしれない。



「……わたくし、ちゃんと“伴侶候補”らしく見えていましたかしら?」

「見えていたよ。いや、それ以上だ」



そう言って、彼はわたくしの手をとった。

ゆっくりと、まるで壊れものに触れるような手つきで、その手の甲に唇を落とす。



「誰よりも誇らしく、気高く、美しい。君こそが、この座にふさわしい」



その言葉に、鼓動が跳ねた。

わたくしのなかの「姫」は、こんな風に言われたことなんて一度もない。

誰かの“妹”でも、“保護対象”でもなく、ひとりの“女性”として名を呼ばれ、尊ばれること。



──ああ、この人は、やっぱり“魔王様”なのだわ。



強くて、優しくて、恐ろしくて、けれど、誰よりもわたくしの心を見ている。

その手を引かれ、膝の上に導かれた瞬間、思わず息を呑んだ。



「……っ、こんな場所で……」

「会議は終わった。これは、私的な時間だ」



悪びれることなく言ってのける彼に、わたくしは顔を真っ赤にしながらも、彼の胸元に額を預けた。



「……ずるい方、ですわ」

「君がそう言うなら、ずっとずるくあろう」



胸の鼓動が、ゆるやかに、けれど確かに重なっていく。

わたくしはその音を聞きながら、そっと目を閉じた。


こんなにも穏やかで、こんなにも満ち足りた時間が、確かにここにある。

誰のものでもない、わたくしたちだけの時間が。




***




彼の腕の中は、驚くほど静かだった。

威光も、威圧も、ここにはない。ただ、温かな体温と、ゆるやかな鼓動と。



「……アリシア」



その名を呼ばれるたび、わたくしの中で何かが満たされていく。



「君が“王国”ではなく、“自分の意志”でここを選んだこと……心から、嬉しく思っている」

「……わたくしも。あのとき、言えてよかった。わたくしは、“ここ”を選ぶと」

「けれど──それは、始まりにすぎない」



ふと、彼の声音がわずかに変わった。

低く、穏やかで、けれどその奥に何かを秘めた響き。



「これから先、君が“この城”で、“私の隣”で生きていくなら──君には“伴侶”としての在り方を知ってほしい」

「……それは……」



思わず言葉を詰まらせる。

けれど、それは恐れではなかった。ただ、あまりにも実感がなさすぎて──それほどに、夢のようだったから。



「いま、すぐにとは言わない。だが、私は“魔王”であり、そして“男”だ」



彼の指先が、わたくしの頬をそっとなぞる。

その瞳は、もうどこにも逃がしてくれないと告げていた。



「君が、“魔王の伴侶”となる覚悟があるなら──」

「──あります」



思わず、食い気味にそう答えてしまった。

彼の瞳がわずかに見開かれ、次いで優しく細められる。



「……まだ何も言い終えていないのに、君は本当に勇敢だ」

「おそらく……それは、あなたに教わったのだと思いますわ」



わたくしは、そっと彼の手を取った。

この手が、何度もわたくしを守ってくれた。

暗闇の中から連れ出してくれた。夜の空に立ち、光を示してくれた。



「……あなたとなら、どんな未来でも歩いていける。そう思ったから、わたくしは“選んだ”のです」



すると彼は、わたくしの手の甲に再び口づけを落とし、それからそっと額を寄せた。



「では、アリシア。契約しよう」

「け、契約……?」

「私が“君だけの魔王”になる契約だ」



耳元で囁かれたその言葉に、心臓が跳ねた。

思わず目を見開いたわたくしを見て、彼は少年のように笑う。



「いまはまだ、“約束”にすぎない。けれど、いつか──正式に、誓おう。誰の前でも、堂々と」

「……っ、もう……」



顔が熱くなって、言葉が出てこなかった。

けれど、その“約束”が、どれほど特別なものであるかだけは、全身で感じていた。




***




窓の向こうに、ヴァルドの空が広がっている。

青くはない。けれど、不思議と暗くも感じなかった。

瘴気に包まれた空の下で、あの人と共に見る世界は、なぜかこんなにも温かい。



「……今日は、静かですね」



ぽつりと呟いたわたくしの声に、すぐ隣の温もりがそっと応える。



「君がいると、どんな空も穏やかになる」

「……また、そうやって……」



恥ずかしくなって目を逸らしたけれど、心の奥はふわふわと甘く揺れていた。

こんな朝があるなんて、昔のわたくしはきっと知らなかった。

王宮の光の中で、誰かに決められた道をただ歩くだけだったあの頃には。


けれど、いまは違う。

わたくしは、自分で“ここ”を選んだ。


誰かの妹としてでも、姫としてでもない。

“アリシア”として、この手を伸ばし、この温もりを掴んだ。


あの夜の扉は、もう閉じた。

そして、新しい扉が──この朝の光の中で、そっと開いたのだ。



「……これは、わたくしの選んだ道ですわ」



そう、胸の中で静かに呟く。

誰に届かずとも、確かな意思として。


隣にいるのは、あのとき手を伸ばしてくれた人。

いまはもう、幻ではない。この現実の中で、わたくしの隣にいる──わたくしだけの、魔王様。




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