第4話|姫と魔王の選択
あの瞬間から、何かが変わった。
もう“誰かに返される”のではなく、私はここにいると決めた──そういう夜だった。
ああ、もう、これは──。
夢なんかじゃなかった。現実。圧倒的に、現実。
目の前にいるこの人が、証明してる。
「お目覚めか、アリシア」
深紅の瞳が、ふわりと笑った。
その声音は、以前に比べてずいぶんと穏やかで……どこか、優しすぎるくらいだった。
「……っ、また、勝手に人の部屋に……!」
「勝手に攫った男に、今さら言うか?」
「言うに決まってるでしょうがッ!」
私が怒鳴ると、魔王レオナルト=アルセインは、ひどく満足そうに目を細めた。
「ふむ。良好な寝起きと判断してよいな」
「そういう問題じゃないのよッ!」
この男は、本当に──!
でも。
胸の奥が、くすぐったくなる。懐かしいような、安心するような……そんな感覚があるのは、どうしてなんだろう。
「ここは……どこ?」
「“私の城”だ。もうすぐ正式に、お前の城にもなるかもしれんがな」
「は……?」
何その意味深な言い回し。いや、今さら意味深じゃない言動のほうが珍しいけど。
「アリシア。選べ」
魔王が、私の前にしゃがみ込むようにして目線を合わせた。
赤い瞳が、真っすぐに私を射抜く。
「人の世に戻るか。あるいは──この魔の王の隣に立つか」
「……っ」
「無理にとは言わん。だが、私はお前を“囚人”にはしない。お前がどちらを選ぼうと、それが私の答えになる」
選択肢を与える、と彼は言う。
でもそれは、どちらを選んでも“私が選んだ”ことにされるようで……ずるい。
「ねえ、レオナルト。わたくしが“戻る”って言ったら……あなた、どうするの?」
魔王は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
そして、口元にふわりと微笑みを浮かべる。
「……また攫いに行くまでだ。今度は、世界ごと敵に回してでもな」
「……はあああああっ!?!?
な、何それ……! さらっと怖いこと言わないでよっ!」
思わずベッドの上で後ずさると、魔王様は──
なんか、すっごい哀しそうな顔になってるんですけど!?
「……怖いか?」
「そ、そりゃあもう! 何をどうしたら“世界ごと敵に回す”なんてセリフが出てくるのよ……!?」
「……お前に触れようとした連中に、世界の存続を語る資格があると思うか?」
「うっ……」
言葉に詰まった。
……そうだった。
私が“戻る”というのは、あの場所へ戻るということ。
過剰な庇護。歪んだ愛情。
どこに行っても、逃げても、誰かの手に握られた首輪の感触がついてくる世界。
「私はただ、お前に選んでほしいのだ」
レオナルトは立ち上がり、私に背を向けた。
「このままでも、お前はここで生きていける。私の庇護のもと、何も恐れることなく」
「……あのね、魔王様」
「ん?」
「あなた、“囚人じゃない”って言うけど、庇護って言葉も、ある意味じゃ──」
「違う」
私の言葉を、ぴたりと遮った声。
「囚人と伴侶の違いを、私は知っている」
「──え」
振り返った彼の瞳が、冗談ひとつ浮かべていない真剣そのもので──
私はなぜか、どきん、と心臓を跳ねさせていた。
「……伴侶って。誰が、誰の、って話?」
「ふむ。今のは仮定だ。だが」
魔王様はふっと目を細める。
その唇が紡いだのは、あまりにもさらっとした、でも決定的な一言だった。
「私の隣に立つのがお前であってほしい、とは思っている」
「…………っっっっ!!!」
待って、いまのセリフ、反則じゃない!?
テンプレすぎて逆に心臓が痛いんだけど!?!?!?
「ま、まだ返事なんてしてないからね!? 勝手に“そういう前提”で話進めないでよね!!」
「もちろん。返事は急がん。何百年でも待とう」
「だから待つ気満々なのが怖いってば……!」
言いながらも、私の中のどこかが、確かに揺れている。
──選べるなんて、思ってなかった。
誰かに決められるのが当たり前で、
心を動かすことすら、誰かの許可が必要だったのに。
……この人は、それを「お前の意思で」と言った。
どれだけ身勝手でも、独善的でも──その一点だけは、ちゃんと私を人として見てくれているような、気がした。
「……ねぇ、魔王様」
「ん?」
「あなた、ずるいわよ」
口を尖らせてそう言うと、彼は少しだけ首をかしげた。
「わたくしがどんなにあなたのこと嫌いって言っても、絶対に怒らないでしょ」
「当然だ。お前が私を嫌うのは、お前の自由だ」
「わたくしがここを出て行って、誰か他の人のところに行ったら?」
「連れ戻すが?」
「……やっぱり怖いわ」
ぶつぶつ言ってはみるけれど、
その度に返ってくる答えが、なんだか妙に心地よい。
「でも、ね。さっき思ったの」
ぎゅっと、胸の奥にしまっていたものを掴むようにして、私は言葉を吐き出した。
「“選べ”って、あなたは言った。……そんなの、はじめてだったの」
レオナルトが、少しだけ目を見開く。
でも何も言わず、黙って──私の言葉を、待っていてくれる。
「わたくしね、あの国では……選ぶことなんて、なかったのよ。
お父様が決めた婚約者。お兄様が決めた護衛。服も、言葉も、歩き方まで」
指先が、小さく震えているのが分かった。
でも、それでも私は、ちゃんと、顔を上げて──魔王様を見た。
「だから、これが……“わたくしが決める”ってことなんだって、いま思ってるの」
「……アリシア」
「わたくし、ここに残る。……魔王様の隣に、いるって、決めたの」
一拍。
それだけの沈黙のあと、魔王様はふわりと、微笑んだ。
「……そうか」
それだけで、私の胸は、またドクンと高鳴る。
次の瞬間。
ぎゅっ、と。
彼の腕が、私の肩を優しく包み込んだ。
「っ……ちょ、ちょっと!? な、なにして──!」
「すまない。だが、今だけは……これだけは、許してくれ」
低くて、震えていて、それでいて、とても温かい声。
「お前のその言葉を、私は──何より欲しかった」
「…………っ」
……バカ。
こんなこと言われたら、もう、どうしたって──。
「……ったく、やっぱり、あなたってずるいわ……」
私の呟きを、彼は小さな笑みで受けとめる。
その瞬間、部屋の扉がノックもなく開いた。
「──おやおや、お邪魔でしたかしら?」
「ちょっ……カリーネ!? ノックぐらいしなさいよ!!」
「ですが、お二人とも長いことお部屋にこもっておられるので……つい心配で♪」
絶対心配してないその声に、私は思わず唇を噛んだ。
「さて、陛下。姫様の“正式なご滞在”に向けて、そろそろ御前会議のご準備を。あ、でもご安心くださいね、姫様」
「……なにが?」
「もう皆、わかってますもの。“姫様は陛下のもの”って」
「……なっっ……!」
「では、良き夜を♪」
ぴしゃりと閉まる扉の音が、妙に腹立たしかった。
「……なにあの副官。ホント、ムカつく……」
「ふ、ふふっ……ははっ」
「なに笑ってるのよっ!」
「いや……お前がここにいて、怒って、笑って、そうやって文句を言って……それが、どうしようもなく、嬉しい」
「……っ」
──ほんとに、ずるい。
でも。
こんなふうに笑う魔王様なら……私、きっと、何度でも、攫われてやってもいい。
「……ただいま。魔王様」
「──おかえり、私の姫」




