第3話|姫の決断、婚約者の沈黙
重たい扉の開く音に、思わず肩が跳ねた。
──来たのだと、直感する。
広すぎる謁見の間。その扉の向こうから、足音が響いてくる。ゆっくりと、けれど迷いのない足取りで。
姿を現したのは、黒地に金糸の礼装に身を包んだ男だった。腕には、王家の紋章を掲げた赤い腕章。
ゼノ・グラナート。
わたくしの──かつて“婚約者”と呼ばれていた、王国きっての名門の跡継ぎ。
その背後には、セイルの姿があった。
今は何も言わず、わたくしの視線を受けることもなく、ただ静かに従っている。
ゼノはまっすぐ進み、玉座の前で立ち止まった。そして、一枚の文書を掲げ、よく通る声で告げる。
「我がエルヴァンシア王国は、王家の威信と民意に基づき──王女アリシア殿下の即時返還を要求する」
その瞬間、空気が凍りついた。
(……返還、って)
堂々としたその声には、感情の揺れなど微塵もなかった。淡々とした正論。儀礼としての言葉──
でも、それは、まるで“通告”のように聞こえた。
ゼノの姿が、紅い絨毯の彼方で、遠いものに見えた。
「……当然の権利だ。王家の姫が、他国に囲われるなどという事態は──
到底、看過できるものではない」
その一言で、わたくしの中に刺さっていた何かが、静かに軋んだ。
(わたくしは、“返されるもの”……?)
◇◇◇
「……姫君」
ゼノの声が落ちた。静かで、低くて、それなのに胸の奥に刺さるようだった。
彼は一歩、前に出る。ゆるがぬ足取り。その仕草一つひとつまで、どこか計算されているように見えて
──わたくしは無意識に息を詰めた。
「このまま戻らねば、王国に不和が生じる」
淡々とした声が、謁見の間に響いた。
「王家は貴女の不在を“誘拐”として扱っています。民は混乱し、貴族たちは疑念を募らせている。
……この状況が長引けば、王国全体にとって致命的だ」
その一言一言が、冷たく耳に届く。正論。わたくしにも、それはわかっていた。
「姫君を奪還せねば、王家の威信は地に堕ちる。それは国家の基盤が揺らぐということです」
まるで、感情というものを削ぎ落として並べた言葉たちだった。
「貴女の居場所は、あくまで王国の中にあるべきです。
王女として、民のため、王家のために」
静かで、整っていて──でも、どこまでも冷たい。
わたくしは、膝の上で握りしめた手に、ほんのりと汗を感じていた。けれど、逃げるわけにはいかない。
「……わたくしは」
喉が、ほんの少しだけ震えた。でも、声は出た。
顔を上げる。ゼノの視線を、まっすぐに受け止めた。
「誰の“所有物”でもありませんわ」
その瞬間、すぐ傍らで気配が動いた。
レオナルト様が、わたくしの言葉に微かに──
本当に、微かにだけれど、微笑んだように見えた。
◇◇◇
空気の冷たさが、まだ肌に残っていた。
その中で、レオナルト様が、ゆっくりと一歩、歩み出る気配がした。
振り返るまでもなく、その存在が近づいてくるのがわかる。背筋が自然と伸びるような──
けれど、不思議と怖くはなかった。
「……返還を望むなら、持ち帰ってもかまわない。
王国の姫として、王家の元に戻すというのなら、それも一つの道だ」
静かな声。その言葉には、不思議なほどに力があった。押しつけるのではなく、ただ真っ直ぐに、そこにある。
「だが──」
わたくしの目の前で、彼が立ち止まる。
ゆっくりと顔を上げると、レオナルト様の紅い瞳が、まっすぐにわたくしを見ていた。
「君がこの手を取り、私の傍に立つことを“自ら選ぶ”のなら──
それがすべてだ」
その声に、命令も強制もなかった。あるのはただ、問いかけ。そして、まるで祈りのような誠実さ。
胸の奥が、ふっと熱くなる。
(選ばせようとしている……)
奪うでもなく、閉じ込めるでもなく。
彼は、ただ“選ばせて”くれる。わたくし自身の言葉で、わたくし自身の未来を。
差し出されたその手を、わたくしは見つめた。
「アリシア。決めるのは君だ」
その瞬間、わずかにゼノの眉が動いたのが、視界の端に映った。何かを言いかけるような空気だったけれど、彼は何も言わなかった。
セイルもまた、沈黙のまま、わたくしの横顔を見つめていた。
──選ぶのは、わたくし。
たった一人として。
◇◇◇
ゼノが無言のまま身を引きかけた、そのときだった。
控えていたセイルが、そっと一歩、前へ出た。
その気配に、自然と視線が引き寄せられる。
彼は、わたくしをじっと見つめていた。鋭くもなく、冷たくもない瞳で。ただ、まっすぐに。
「……アリシア様。あなたの選択は変わらないのですか?」
静かな声だった。責めるようでも、押しつけるようでもなく、ただ確かめるように。
その問いに、思わず胸がぎゅっとなった。
ああ、この人は、わたくしのことを“誰かの大切な人”としてじゃなく、“わたし自身”として見ようとしてくれていたのだ──と、今さらながら気づいた。
目を伏せる。ほんの少しだけ、迷いがよぎる。
でも、それでも。
わたくしは、顔を上げた。しっかりと、セイルの目を見て、言葉を紡ぐ。
「……セイル。あなたが来てくれて、本当にうれしかった」
本心だった。救われた。心が、ほどけるようだった。
けれど──それでも。
「でも、わたくしはもう、“誰かに守られる”だけの存在ではありませんの」
言いながら、少しだけ手が震えていた。でも、それを隠すことはしなかった。
「自分の足で立って、自分で選ぶ。それが、わたくしの──」
言葉の先は、声にならなかったけれど。
セイルは、黙ってわたくしを見つめていた。
やがて、ほんの少しだけ目を細めて──微笑んだように見えた。
◇◇◇
静かだった。
誰も、何も言わない。
けれど、その沈黙が何より雄弁に、わたくしに問いかけてくる。
──どうするのか。
どこに立ち、誰の隣に歩むのか。
ゆっくりと息を吸い込んだ。胸の奥が、ほんの少しだけ軋む。でも、それすらもう、迷いではなかった。
「……わたくしは」
言葉が、自然とこぼれる。
「“王国の姫”ではなく、“アリシア”として生きます」
その瞬間、自分の中で何かが、静かにほどけていった。
誰かの期待でも、家名でも、役目でもなく──ただ、“わたくし”として選ぶ。
レオナルト様が、一歩、近づいてきた。
そして、何も言わずに差し出されたその手を、わたくしは迷いなく取った。
温かかった。強くて、けれど優しい。
目を向けると、セイルがこちらを見ていた。
口は開かず、ただ、わたくしとレオナルト様の手を見つめて──それから、静かに一礼した。
何も言わず、振り返りもせずに、背を向けて歩き出す。
その姿に、わたくしはそっと目を閉じた。
ありがとう、セイル。
──さようなら。
ゼノは、最後まで何も言わなかった。ただ、その冷たい視線だけが、わたくしの方を射抜いていた。
けれど、それも、やがて静かに背を向ける。足音が遠ざかり、重い扉が閉じられた。
その音が、過去に線を引いたように感じた。
これで、もう後戻りはできない。
レオナルト様の手を握ったまま、もう一度、顔を上げた。
彼の瞳が、まっすぐにわたくしを見ていた。
姫としてでも、政略の駒としてでもなく──ただ、“アリシア”として。
その確かさに、胸の奥が熱くなる。
こんなふうに、見つめられたことがあっただろうか。
過去ではなく、未来の中にわたくしを置いてくれる人。
その存在の重みが、手のひらを通して伝わってくる。
ふと、静寂が訪れた。
さっきまであれほど冷たかった謁見の間の空気が、どこかやわらいでいた。
扉の向こうに過ぎ去ったのは、過去なのだと、ようやく実感できた。
でも──わたくしは、悔いていない。
だって、これは。
「わたくしが、選んだ道なのですから」