第2話|魔王の正体
何度も同じ夢を見る──
わたくしの指を優しく包んでいた手。
触れられただけなのに、まるで心ごと抱きしめられたような気がして、息が詰まりそうだった。
(あれは……過去? それとも、ただの幻?)
──「あなたに、もう一度会いたいと、ずっと願っていた」
あの声が、まだ耳の奥で揺れている。
そして、今。
わたくしは、その人の腕の中にいる。
目覚めたとき、隣に彼の姿はなかった。
代わりに──窓辺に、風に揺れる黒い上衣。
昨夜、彼が羽織っていたものだ。胸元には、わずかに紅い刺繍が覗いている。
(この人は……)
──魔王、レオナルト。
黒髪と紅い瞳。
けれど、わたくしの記憶の底に眠っていたその人は、銀髪だった。
(……髪の色が違う。でも、あの時の……)
五歳の頃。王家の静養地で、ほんの数日のあいだだけ会った“お兄様みたいな人”。
森で迷っていたわたくしを助けてくれて、一緒に花をつんで──
最後の日に、名前を呼んでくれた。
(ずっと、夢に見ていた。けれど、なぜか顔だけが思い出せなかったのに)
あの人だったなんて。
彼は、わたくしの従兄──
そして、わたくしと同じ王家の血を引く人。
(でも……それだけじゃ、ない)
この想いは、ただの偶然ではないと、身体の奥が知っている。
名前も知らなかったあの時から、わたくしは、ずっと──
そっと、胸に触れる。
あの時も、今も、同じ場所が、こんなにも熱い。
***
彼が、この国で魔王となっていることに、わたくしはまだ現実感を持てずにいた。
けれど、あのときの瞳は──間違いなく“覚悟”の色をしていた。
燃えるような赤ではなく、静かに燃え尽きるような、深く澄んだ黒。
「……あの、」
わたくしは思いきって口を開いた。
「レオナルト様は……どうして、“こちら”に……?」
その言葉に、彼の視線がわたくしを捉える。
問いの意味を悟ったのだろう。彼はゆっくりと頷いた。
「エルヴァンシアの王統において、私は“本来の継承者”となるべきだった」
「そう、ですわね。お父様の前に王として立たれていた方がお父様なのですもの」
「けれど、私は選ばれなかった。いや、選べなかった、というべきか」
淡々と語られる口調には、怒りも悲しみも感じられなかった。ただ、その静けさこそが、むしろ胸を締めつける。
「私は、母とともにヴァルドに返された。まだ、三歳だった。誰も私に問うことなく──だが、それが“当たり前”の処置だったのさ」
「当たり前……?」
「父は王だった。だが、母は側妃だった。そして私は、まだ幼すぎた。……それだけの理由」
わたくしの指先が、無意識に震えた。
血筋。生まれ。順序。
それだけで、人生の意味が塗り替えられる──それは、王家に生まれたわたくしにとって、決して他人事ではなかったから。
「……でも、そんな運命に従っていたら、私は“私”じゃなくなってしまう」
ふと、以前のわたくしの言葉が頭に浮かぶ。
レオナルト様に、それを話した記憶はなかった。でも──
「だから私は、選んだのさ。自らの意思で、このヴァルドを生きることを」
レオナルト様の黒髪が、風に揺れる。
かつて銀だったその髪は、闇のような色に変わっていた。それは、彼が選んだ“在り方”の象徴。
「君が攫われた10歳の時──知っていたら、私が自ら動いていただろう」
「……え?」
「だが私は知らなかった。知った時には、すべてが終わっていた。そして……君を攫ったのが、母の一族の“末端”だったと聞いた時」
その言葉に、わたくしは息をのむ。
「私は、自らの血を切り捨てたよ」
わたくしの記憶のどこかに残っている事件。
それを引き起こした存在が、レオナルト様とも関係している。
それならば、わたくしが彼のことを思うのは――
「だが、私は……彼らとは違う」
レオナルト様の瞳が、まっすぐにわたくしを見つめる。
「私は、“この国の民”と選び合った。彼らが私を王と呼び、私はその信頼に応えた。それが、私の正体だ」
「…………」
彼の言葉が、心の奥に静かに落ちていく。
魔王──
それは、力で民を支配する恐怖の象徴だとばかり思っていた。
でも、レオナルト様は違った。
彼は、自らの意思で、この地に立ち、自らの血筋と決別し──そして、“信頼”によって王になった。
その姿は、王都でしか生きられなかったわたくしの目には、あまりにもまぶしく映る。
……ならば。
ならば、わたくしも──
わたくしもまた、「誰かの娘」「誰かの姫」ではなく、
この人の傍に在りたいと願ってしまうのは、罪なのだろうか。
(でも……これは、わたくしの想い)
誰にも強いられたものではない。誰かの期待を叶えるためでもない。
ただ、彼が生き抜いてきた“強さ”を、わたくしは美しいと思った。
──だから、惹かれた。
何も知らないまま、夢の中でさえ、彼に手を伸ばしていたのは……その想いの根っこが、ずっと変わらずにあったから。
***
「……レオナルト様」
小さく呼びかけた声が、思いのほか震えていた。
彼が、こちらを向く。
「……たとえ、何も知らなかったとしても。わたくし……」
言葉が、喉の奥で震える。
「あなたに……助けられたと思っています。何度も、何度も……」
あの夢の中で、何度も手を伸ばし、何度も救われていた。
誰にも見えない場所で、わたくしの心はあなたに触れていた。
──だから、あの時。
転移術式で攫われ、冷たい闇の中にいた時。
耳元でささやかれた声が、たとえ現実でなかったとしても。
「あれは……わたくしの記憶違いかもしれません。
……でも、それでもいいんです。
あのとき、聞こえた気がしたのは──
あなたの声でした」
涙が、ぽろりと頬を伝う。
でも、それを拭おうとは思わなかった。
この涙は、悲しみのものではない。だから、隠す必要なんてない。
「あなたがいてくれて……よかった」
そう言って、彼に微笑みかける。
レオナルト様は、何も言わず、ただ静かにわたしを見つめていた。
けれど、その手がそっとわたしの頬に触れた時、心がふわりとほどけた。
優しく、でも確かに、彼の指が涙の跡をなぞっていく。
「泣かなくていい。君はもう、ひとりじゃない」
その言葉は、まるで魔法だった。
言葉にできない想いが、あふれ出しそうになる。
でも、全部を伝えるには、言葉では足りなかった。
だから、わたしはただ──
その手に、自分の手を重ねた。
小さな手のひらと、大きな掌。
重なるたび、少しずつ、ぬくもりが伝わってくる。
「……あなたのことを、もっと知りたいと思ってしまいます」
その瞬間、彼の目がわずかに揺れた。
「どうしてこんなにも、胸が苦しいのか……理由を知るのが、少し怖いくらいに」
それは、恋というにはあまりにも未熟で。
けれど、ただの憧れとは違う確かさがあった。
わたしはもう、自分の心がどこに向いているのか、知っている。
だから、隠さない。
そして──
「あなたの名前を、もう一度……教えてくださいませんか?」
囁くようなその言葉に、彼は静かに頷いた。
「……レオナルト。レオナルト=アルセイン」
まるで、それがわたしのためだけにある音のように、彼はその名をくれた。
わたしは、一度だけ深く息を吸って、
──そして、
「……レオナルト様」
その名を、胸の奥から呼んだ。
彼の瞳が、かすかに揺れた。
いつか夢で見たあの光景が、今、現実になった気がした。
わたくしが呼ぶその名前に、彼が応えてくれる。
それだけで、胸が熱くなった。
言葉にできない想いが、確かにそこにあった。
──いつか、またすべてを忘れてしまっても。
きっと、何度でもこの名を呼ぶ気がする。
レオナルト。
あなたの名前が、わたくしの心を、こんなにも温かくしてしまう。
わたくしの中に残った“ぬくもり”の正体は、ずっと前から、変わらなかったのだと。
ようやく、気づいた。