第1話|忘れられた血
「……また、あの夢……」
目覚めた瞬間、唇から漏れた言葉に、自分でも気づかず溜息が重なる。
まどろみの中で感じていた“ぬくもり”が、指先からすり抜けていくようで──
わたくしは、そっと手のひらを胸元に押し当てた。
(あのときも、手を握ってくれた……)
夢の中で、わたくしの手を取ってくれた誰か。
銀の髪。赤い瞳。やさしい声。
ここに来てから、幾度となく見る“記憶のような夢”。
でも、そこに映るのは──まぎれもなく、魔王様。
(あれは夢じゃなくて……“過去”なの?)
──わたくしは、ほんとうに彼を、どこかで……?
考え出すと止まらない。
けれど、すぐに頭の奥がズキリと痛んで、思考が霧に包まれてしまう。
やっぱり、思い出せない。
わたくしが“ここ”に来た理由。
魔王様が、あのとき何を言っていたのか。
──なぜ、あの手に、あんなにも安心したのか。
(でも……)
「君は、“ここにいるべき存在”だ」
そう言ってくれたのは、たしかに彼だった。
わたくしの、手を取って。
そして、昨夜。
彼は、もう一度、同じ言葉をくれた。
◇◇◇
「……そろそろ、起きる時間です」
扉越しに、控えめな声が届く。
それは、今のわたくしにとって唯一“侍女”らしき存在──ヴァルド軍副官・カリーネ。
といっても、朝の身支度からして、すでにわたくしの手際に呆れ顔を見せるのが常なのだけれど。
「……今朝もお加減、優れませんか?」
「いえ、大丈夫。いま起きたところよ」
「それはようございました。では、お着替えの用意を」
まったく、ここの服はどれもこれも……
どこか「主張が強い」と言いますか、「布が少ない」と言いますか──
(絶対、カリーネの趣味よね)
「……ふふ」
思わず小さく笑ってしまった。
こんなふうに、笑える朝が来るなんて、思っていなかった。
たった数か月前まで、わたくしは王女宮の寝台で、
誰かの期待に応えることだけを考えていた。
父にとっての“誇りある姫”であること。
兄にとっての“守るべき妹”であること。
そのどれもが、わたくしを想ってのことだとわかっている。
でも──
(わたくしは、わたくしとして、どう在りたいの……?)
「……魔王様に、会いたいわ」
わたくしがそう口にするなんて、昔の自分が聞いたら卒倒してしまいそう。
でも、この胸の内にある想いは、もう否定できない。
彼に会いたい。
ちゃんと、言葉を交わしたい。
そして、……知りたい。
──あの人のことも。
──わたくし自身のことも。
『忘れられていたのは、君の方では?』
あの言葉の意味を、もう一度。
わたくしは、静かに寝台を降りた。
◇◇◇
ヴァルドに来てから、どれほどの月日が流れたのかしら。
こちらの暦に詳しいわけでもないから、はっきりとした日数はわからない。
でも、肌で感じる空気の冷たさや、城に差し込む陽の角度で、おおよその季節の変わりは察せられる。
(そろそろ、炎月になる頃かしら……?)
エルヴァンシアであれば、そろそろ夏支度に入る季節。
王女宮の庭園では、白いバラが咲き始めていたはずだ。
「懐かしんでいるのか?」
低く落ち着いた声が、背後から響く。
ふり返らずとも、誰の声かはわかる。
──レオナルト様。
「ええ。少しだけ」
わたくしは小さく答えて、石造りの窓辺に手を置く。
この地の陽射しは、どこか灰が混じったような鈍色で、あたたかいはずなのに、肌の奥まで染み込んでこない。
「……不思議ですわね。最初はこんな空気、息苦しくてたまらなかったのに」
「だが、今は?」
「慣れましたわ。たぶん──誰よりも」
ちらりと視線を向ければ、彼がわたくしを見下ろしている。
その紅の瞳は、いつもと同じように感情を読ませないまま、ただ静かに見つめていた。
「……姫君の体質は、この地に適している。元より、瘴気への耐性があるのだろう」
「耐性、ですか?」
問い返すと、彼は一瞬だけ言葉を切った。
まるで、何かを計るように。
「……この地に来て、体調を崩す者は少なくない。
だが、おまえにはそれがない。むしろ、より健やかになっているようにも見える」
「まあ、そんなふうに見えていたなんて……それはちょっと、恥ずかしいですわね」
わざとおどけてみせると、彼は眉をわずかに動かしただけで、それ以上の反応はなかった。
けれど、その沈黙の裏に──何か、伝えられていないことがあるような、そんな気配がした。
(……わたくし、本当に“ただの王女”なのかしら?)
そう思ってしまうのは、きっと彼のせいだ。
彼の言葉は、どこかいつも遠回しで、核心だけが隠されている。
けれど──優しい。
わたくしを突き放すことなく、ただ、静かに見守ってくれている。
「……この空も、悪くはありませんわね」
「気に入ったか?」
「ええ。最初は怖かったけれど、今は……少し、好きになりそうです」
そう口にした瞬間、彼の目がわずかに見開かれた。
ほんの、ひととき。
けれど、それだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
この人は、ほんとうに、わたくしの一言に──ちゃんと、向き合ってくれる。
それが、どうしようもなくうれしい。
◇◇◇
「……レオナルト様。どうして、あなたが“魔王”と呼ばれているのですか?」
わたくしの問いに、彼は少しだけ目を伏せた。
「理由はひとつではない。だが──」
その声音には、どこか過去を掘り返すような痛みが混じっていた。
「……私は、元々はエルヴァンシアで生まれた」
「……え?」
「父はエルヴァンシア王家の一員。現王の兄であり前王だった」
わたくしは、言葉を失って彼を見上げた。
「つまり……」
「ああ。おまえの父上と、私の父は兄弟だ。だから、私とおまえは……」
「……従兄妹、ということ……?」
「そうなるな」
レオナルトは淡々と言ったが、わたくしの胸はざわめいていた。
「だが──私が三歳の時、父は急逝した。
母はヴァルドの出身でな、遺された我々は、“静かに消える”ように王宮を去った」
「……」
「その時からだ。“忘れられた血”として扱われたのは」
彼の瞳に宿る紅の色が、かすかに揺れた気がした。
「間違いなく、エルヴァンシアの血は流れている。
だが、公式記録からも、家系図からも消された存在。それだけだ」
「……それは、あまりにも──」
「構わない。ヴァルドは、私を拒まなかった。この地で力を研ぎ澄ませ、生き抜いた。
だが──」
彼は一歩、わたくしに近づいた。
「だからこそ、エルヴァンシアの王女であるおまえが、ここにいる意味を……私は、受け止めてみたかったのかもしれない」
その声が、やけに優しくて、わたくしの胸はじんと熱くなる。
わたくしは、まだ何も知らない。
彼が背負ってきたものも、この国が抱える痛みも……なにもかも。
それでも。
「……わたくしは、この目で見てみたいと思います」
「何を?」
「この国の姿を、ですわ。
──この空の下に生きる人々が、どんな願いを抱いているのかを」
沈黙。
でも、それは拒絶ではなかった。
わたくしは一歩、窓から離れ、彼の方へと向き直る。
「あなたを排した王家の人間であるわたくしが、この国を好きになっても……構いませんか?」
問いかけた声に、彼の瞳が、ほんの少しやわらいだ気がした。
「……好きになってくれ」
彼がわたくしを見つめる目に、すこしだけ熱が灯った気がする。
「……おまえは、変わっている」
「ええ。でも、王女として飾られるだけの人生より、ずっと素敵だと思うのです」
そっと、彼の手に自分の指を重ねる。
「この国を、愛したいと思いました。──あなたと、ここで生きるすべてを」
彼が答える代わりに、わたくしの手を、そっと握り返してくれた。
それが、わたくしの最初の“選択”。
与えられるだけの王女ではなく、誰かの隣に立つ、ひとりの“わたくし”として。