第5話|もう、戻れない場所
わたくしが“この人”を選ぶと告げたその時、魔王様は何も言わず、そっと手を差し出してきた。
「……見せたいもの、ですか?」
わたくしは、差し出されたその手を見つめたまま、問い返した。
「君が“選んだ”夜に、ふさわしい景色を」
魔王様の声音は、ひどく穏やかで──でも、どこか切なげでもあった。
(選んだ……そう、わたくしは“この人”を選んだのだわ)
一度、深く息を吐いてから、わたくしはその手にそっと自分の手を重ねた。
「……案内してくださいませ、魔王様」
「レオナルト、と呼んでほしい」
「っ……」
その名は、まだ少し、わたくしには早すぎたかもしれない。
けれど──
「……レオナルト様」
その名を口にした瞬間、彼の瞳がかすかに揺れた。
嬉しそうに、けれど、ほんの少しだけ痛むように。
「……ああ、その呼び方は、やはり……懐かしいな」
「え……?」
「なんでもない。──行こう、姫君。君に夜の空を見せてやろう」
わたくしはそのまま、彼に導かれ、夜の廊下を歩いた。
誰もいない、静かな回廊。灯りは落とされ、壁の燭台がゆらゆらと揺れている。
足音だけが響く中、彼は一言も話さなかった。
でも、不思議と不安はなかった。
その手のぬくもりが、なによりも安心をくれていたから。
やがて、らせん階段をのぼりきった先──塔の天辺にたどり着くと、
「……まあ」
わたくしは、思わず息を呑んだ。
「これは……」
満天の星空が、そこには広がっていた。
まるで手が届きそうなほど近く、降るように瞬く光の粒たち。
満天の星空が、そこには広がっていた。
まるで手が届きそうなほど近く、降るように瞬く光の粒たち。
そのひとつひとつが、小さな宝石のように瞬き、夜空という名の天蓋にちりばめられている。
「この塔の名は、“天の階”という」
レオナルト様が、そっと言った。
「──君が“星空が好きだ”と、あの頃、そう言っていた。それだけだったが、ずっと覚えていた」
「わたくしが……?」
「あの頃は幼すぎて、ここへ連れてくることなどできなかった。だが、いつか見せてやりたいと思っていた」
彼の言葉が、わたくしの胸の奥で、優しく響いた。
「だから、今日こそ連れてきた。君が“選んだ”夜を、君と“見届けたかった”から」
──わたくしの頬に、なにか熱いものが伝った。
涙だった。
自分でも気づかぬうちに、あふれていた。
(どうして……この人の言葉は、こんなにも……)
「ありがとう、レオナルト様……」
わたくしは、そっと、彼の隣に立った。
そして──星空の下、彼と並んで夜を見つめた。
(こんな気持ちは、きっと……はじめてかもしれない)
塔の上は、静寂に包まれていたが、星空が近い。
まるで、ひとつひとつが手の届くところにあるかのようで──
「……きれい」
思わず、声が漏れた。
レオナルト様は、隣で小さく笑う。
「気に入ったか」
「はい。まさか、ヴァルドにこんな場所があるなんて……」
「知られぬからこそ、守られている」
その言葉に、少しだけ胸が締めつけられる。
この場所も──あの人も──誰にも知られてはいけないもの。
「……ここは、かつて王女のために造られたものだ」
「……王女?」
「ずっと昔の話だ。誰も知らぬ。知る必要もない」
わたくしは、横顔を見つめた。
風に揺れる黒の髪。
月明かりに照らされて、瞳の赤が、どこか哀しげに揺れていた。
(この人は──何を背負ってきたのだろう)
「……レオナルト様」
「なんだ」
「わたくしを、どうするつもりですか?」
問いかけは、風に溶けて消えそうだった。
でも、それでも──聞かずにはいられなかった。
「君が望むなら、返すこともできる」
「……!」
「だが、ここに残るというのなら──全力で守る。誰にも触れさせぬように」
「それは……」
まるで、選択を委ねられているかのようだった。
けれど、それはきっと──偽りではなく、本心。
だからこそ、怖かった。
「……わたくしには、まだ、わからないことがたくさんあって……」
「答えを急ぐ必要はない。だが──」
彼はふと、わたくしの手を取った。
冷たさも熱もなく、それでも不思議と、安心できる温もり。
「君の中に眠るものが、目覚めるその時。選ばねばならぬ」
「……選ぶ?」
「己が何者か。何を守りたいのか。誰の傍に、いたいのか」
その言葉に、胸の奥がずきりと痛んだ。
(選ぶ……わたくしが……? でも、どうして……この人の声が、こんなにも……優しいの?)
「誰の傍に、いたいのか」
魔王様のその言葉が、胸に刺さって抜けなかった。
──誰の、傍に。
お兄様の、優しい笑み。
セイルの、揺るがぬ忠誠。
ゼノ様の、完璧な微笑み。
あの人たちの手の中にいたわたくしは、
確かに、“王女”として大切にされていた。
……けれど、それは、ほんとうの“わたくし”だった?
「──わたくしは、ずっと、夢を見ていました」
「夢?」
「金の髪の少女が……銀の髪の少年と、手をつないで森を駆けていく夢。
それはきっと──幼い頃の記憶。でも……もう、顔が、思い出せないんです」
気がつけば、指先が震えていた。
何かが、ずっと胸の奥で、ざわついていた。
何かが、わたくしの中で叫んでいた。
「でも、今は……」
レオナルト様が、そっとわたくしの頬に触れる。
その手は冷たくも、熱くもなく。
ただ、確かに、わたくしを包んでくれる。
「怖いんです。選ぶのが。だって……一度、選んだら、もう戻れない気がして」
「そうだ。戻れぬ」
(──優しいのに、ひどいことを言うのですね……)
「だが──それでも、選ぶのは君自身だ」
「……レオナルト様は、わたくしが戻りたいと言ったら、どうなさいますか?」
「連れていこう。王の御座まで。堂々と、正面から」
「……!」
彼の瞳は、真っ直ぐで、嘘ひとつなかった。
そうして、わたくしはようやく気づく。
(……この人は、閉じ込めたりしない。選ばせてくれる)
閉じ込めるのではなく、問いかけてくれる。
怖がるわたくしを、否定せず、責めることもなく。
それなのに、不思議と、追い詰められているような気もした。
(──だって、本当に“選んでいい”と言われたのなんて、初めてだったから)
誰かの望む形に合わせて、誰かの願いに応えることが、“正しい”と思っていた。
わたくしが決めることはなかった。
だからこそ──
いま目の前にあるこの自由が、あまりにも、眩しすぎる。
けれど、
もし“姫”ではなく、“わたくし”という存在が、
この人にとって意味があるというのなら。
その言葉を、信じてみたくなる。
心のどこかで、ずっと望んでいたのだ。
誰かの理想ではなく、“わたくし自身”を見てくれる人を。
──誰かに、決められるのではない。
これは、わたくし自身の、人生なのだ。
「わたくしは──」
声が震える。
それでも、今だけは、目を逸らさないと決めた。
「わたくしは、あの人たちの“姫”ではなく……“わたくし”自身として、生きてみたい」
レオナルト様の赤い瞳が、ふわりと細まる。
「……そうか」
その一言は、なによりも優しい祝福だった。
月が、わたくしたちを照らしていた。
冷たい風が吹き抜ける。
けれど、背中を押すその風は──あたたかかった。
もう、戻れない。
けれど、それは、悲しいことじゃなかった。
これは──
(──もう、戻れない。でも、進んでもいいと……そう思えた)
◆あとがき◆
星空の下、わたくしは“もう戻れない”と気づきました。
でも、それは悲しいことじゃなくて、やっと、自分で決めたこと。
魔王様が教えてくれたのは、“選ぶ”ということの重みと、優しさ。
あの場所で流した涙は、きっと……忘れていた“わたし”が流したもの。
記憶はまだ戻らないけれど、心が選んだこの人となら、歩いていけそうな気がします。
これにて第4章、完結です。
次回、第5章──過去と今が交錯し、真実が、ついに姿を見せるとき。
引き続き、よろしくお願いいたします!