第2話|婚約者の笑顔が怖い
わたくしには、幼いころから定められた婚約者がいますの。
グラナート公爵家の嫡男、ゼノ=グラナート様。
容姿端麗、頭脳明晰、剣術にも優れ、礼儀も完璧──
お兄様と並んでも一歩も引けを取らない、まさに非の打ち所のないお方。
誰もが口を揃えて言いますの。「アリシア様とゼノ様はお似合いだ」と。
ええ、本当に、誰もが。
(でも……本当に、そうなのかしら?)
そんなふうに思うようになったのは、いつからだったかしら。
理由なんて、うまく説明できないけれど──ただ、時々、どうしようもなく“怖くなる”のです。
「今日もゼノ様、いらしてましたよね」
「そりゃそうよ。アリシア様の婚約者なんですもの」
「でも、婚約って、公に発表されてましたっけ?」
「幼い頃に定められたそうよ。王家と公爵家の結びつきは強いもの」
城内の回廊を歩いていると、聞こえてくる侍女たちの噂話。
わたくしは足を止めることなく、ただ静かに通り過ぎる。
「でも、あのお二人、やっぱりすごく絵になるわよね」
「けど……なんか、距離感が変じゃない?」
「え?」
「近いようで遠いっていうか……でも、目が合うと、空気が止まるの。なんか、普通じゃないって感じ……」
(……まただ)
どこにいても、わたくしたちは注目の的。
けれど、それが嬉しいと思ったことなんて、一度もない。
だって、彼女たちが言う“違和感”──それは、わたくし自身が、いちばん感じているのだから。
ゼノ様は、完璧です。
優しくて、気遣いができて、穏やかで、誰にでも紳士的。
わたくしに対しては、とくに丁寧に接してくださいます。
けれど、どうしてなのかしら。
ふとした瞬間、その笑顔の奥に──
ぞくりと背筋が凍るような“何か”を感じるのです。
(……わたくしの、気のせい?)
でも、あのとき。
──仲良くしていた侍女が、突然、辞めさせられましたの。
理由は教えてもらえなかったし、彼女からの手紙も、一通も届かない。
まるで、最初から“存在していなかった”みたいに。
そして、そういう時に限って──現れるのです。
「辛い時こそ、そばにいますよ」
優しい声で。
すべてを見透かしていたかのような、完璧なタイミングで。
(どうして、ゼノ様は、あんなふうに“ちょうどいい”時に現れるのかしら……)
偶然?
それとも──必然?
◇◇◇
「笑っていても心が読めないよね、あの人」
「うん。どこか、人間味に欠けるというか……」
控えめな声。けれど、耳を澄まさずとも聞こえてくる。
王宮の石造りの廊下には、噂話がよく響くのだ。
彼のことを、そう表現する声を何度耳にしたか分からない。
(……でも、婚約者なのですもの)
これから、長い人生を共にする相手。
不安に思うことなんて、あってはならないはずなのに。
「この前の不作のとき、ゼノ様が公爵家として援助なさったそうですよ」
「橋が流された村にも、資材と職人を派遣したって聞いたわ」
反対に、そんな話を耳にすると──
やっぱり、ゼノ様は信頼できるお方なのだと、胸を撫でおろしたくなる。
けれど。
その安心が続いたことは、一度もない。
(どうして、なのでしょう……)
たまに、彼の瞳の奥に見える影が、どうしようもなく不安を呼び起こすの。
わたくしでなければいけない理由。
なぜ、彼はそこまで完璧に“婚約者”を演じ続けるのか。
(わたくし……“使われる”だけの存在?)
そんな疑念が、心の底に巣をつくる。
そして、今日もまた──
「アリシア様。今日もお美しい」
完璧な笑顔と共に、ゼノ様が現れる。
まるで、噂話の締めくくりに、効果音のように。
「……ごきげんよう、ゼノ様。お変わりなく?」
「もちろん。アリシア様の笑顔を見るだけで、心が洗われますから」
(……そんなことで、洗われるものなのかしら?)
心の中で、誰にも聞こえない毒を吐く。
でも、それも一瞬だけ。
「明日の舞踏会、ご一緒できることを楽しみにしておりますよ」
「はい。わたくしも」
用意されたやり取り。繰り返される完璧なセリフ。
ふたりで演じる“理想の婚約者ごっこ”。
けれど、わたくしにはわかっている。
──ゼノ様は、わたくしの“何か”を見ているのではなく、ただ、わたくし“だからこそ”なのだと。
(だったら、わたくしじゃなくてもいいはずよね?)
けれど──
わたくしの心がそう言った瞬間、彼の視線がピタリと重なった。
まるで、内心のつぶやきが読まれていたかのように。
「アリシア様。最近お疲れでは? 心配です。何か気がかりがあれば……」
「い、いえ。わたくしは大丈夫ですわ」
「それは、よかった」
笑顔の奥で何かが蠢いている気がして、思わず視線を逸らしてしまった。
(……おかしい。わたくし、なにか、間違ってる?)
そんなふうに思うこと自体、間違いなのだと、どこかでわかっている。
けれど、それでも──
(ゼノ様の微笑みは、やっぱり……怖い)
◇◇◇
ゼノ様の言葉は、いつも完璧。
所作も、笑顔も、すべてが“模範解答”のようで──
だからこそ、わたくしの胸に残るのは、安堵ではなく、得体の知れないざわつきだった。
(わたくしの“何”を見て、ゼノ様は笑っているのかしら)
お兄様なら、感情がすぐに顔に出る。
嬉しければ頬が緩んで、怒ったときは子どもみたいに口を尖らせて。
でも、ゼノ様は──違う。
いつだって、穏やかで、優しくて、完璧で。
なのに。
わたくしが動く前に、すでに“答え”を知っているみたいな笑みを浮かべて、
まるで最初から、すべて“計算済み”だったとでも言いたげで──
(違う、違う。考えすぎ。そうよ、考えすぎ……)
そう自分に言い聞かせてみても、
ゼノ様の瞳を見るたびに、心が、じわりと冷えていく。
冷たい水の底に、ゆっくり沈んでいくような感覚。
呼吸はできるけれど、何かに首筋を押さえつけられているような息苦しさ。
──そういえば。
あの侍女が急に辞めたあの日。
わたくしを迎えに来たのは、いつもならお兄様のはずだったのに、
なぜかゼノ様が“たまたま”そこにいて。
“たまたま”お兄様の代わりに、わたくしの隣に立っていた。
(そんなに都合よく、偶然が重なるなんて……)
疑ってはいけない。
彼は、わたくしの婚約者。
婚約とは義務であり、政治的な責務。
王女であるわたくしには、何も言う権利などない。
「婚約者なのだから」
「王女なのだから」
その言葉だけで、すべてが封じられていく。
何かを感じたとしても、気のせいにしなければならない。
恐怖を覚えたとしても、それを“恐怖”と言ってはいけない。
──だって。
ゼノ様は、わたくしの“婚約者”なのだから。
「アリシア様。そろそろお部屋へお戻りになりますか?」
「ええ、そうね。ご一緒に」
自然と、隣に並ぶ歩幅。
わたくしの視線の先を先回りするように差し出される手。
すべてが“あたりまえ”で、“当然”のように構築されたこの世界。
(この人からは……逃げられない)
心のどこかで、そう思ってしまった瞬間、
背中にぞくりと冷たいものが這い上がった。
逃げ道なんて、最初からなかったのだと。
気づかないうちに、足元はすでに、網の目のような見えない鎖で縛られていて──
それを、“優しさ”という名の微笑で包んでいるのが、この人なのだ。
(ねえ、誰か教えて。わたくし、おかしいのかしら)
王女として、婚約者として、
わたくしは“正しく”あらねばならない。
けれど、胸の奥で何かが警鐘を鳴らしている。
ゼノ様の笑顔が、優しいほどに、息が詰まりそうになるの。
──逃げたくても、逃げられない。
だって、彼は“婚約者”なのだから。
◆あとがき◆
読んでくださって、ありがとうございます!
完璧な婚約者様。
誰もがうらやむ理想の相手……のはず、なんですけれど。
どうしてかしら。
その笑顔を見れば見るほど、息が詰まっていくようで──
次回は、ちょっと変わった「護衛」のお話です。
距離感、おかしくない? って思った時にはもう遅いかも……?
第3話『護衛のくせに、距離、近すぎるのよ』
ぜひまた、お付き合いいただけたら嬉しいです♡