第4話|わたしは、あの人を選ぶ
その夜、わたくしは──眠れなかった。
セイルの言葉が、頭の中を何度も繰り返していた。
『姫様をお守りするのが、僕の使命です』
『“あの頃の約束”を、僕は忘れていません』
──あの頃?
どの頃?
わたくしは、何かを約束したの?
セイルと……?
まるで深い霧の中に迷い込んだような思考の海。
記憶の底から浮かび上がってきそうで、けれど決して掴めない何か。
焦燥と、苛立ちと、そして……ほんの少しの不安。
(……でも)
いま、わたくしがここにいるのは──魔王様の意志によるもの。
そして、ここで過ごしてきた日々は、 決して、悪夢などではなかった。
冷たい石造りの天井を見上げながら、ひとり、そんなことを考えていたとき。
「眠れぬのか?」
扉の外から、低く優しい声が響いた。
この声だけで、どうして──こんなにも、呼吸が落ち着くのだろう。
「……魔王様」
そっと扉を開けると、そこにいたのはやはり、黒衣の魔王様だった。
肩までの髪が夜風に揺れて、そのまなざしは、まるで夜の海のように深く、穏やかで──
怖いくらいに、優しい。
「夜風にでも当たるといい。付き合おう」
そう言って、手を差し伸べてくれる。
わたくしは一瞬、戸惑った。けれど、その手を取るのに、そう時間はかからなかった。
ほんの数歩先を歩く彼の背中を、わたくしは黙って追いかける。
(……この人は、なぜ──)
なぜ、わたくしに、ここまで優しくしてくれるのだろう。
何も思い出せない、何も返せない、今のわたくしに。
それでも。
彼は、当たり前のように手を差し伸べて、こうして隣にいてくれる。
その理由を、わたくしはまだ知らない。
(……知らない。でも、安心する)
夜の回廊を抜け、魔王様が案内したのは、塔の奥にある中庭だった。
昼間は見かけない場所。きっと、魔王様だけが知っている特別な場所。
月明かりに照らされた庭園には、見たことのない花が咲き誇っていた。
漆黒のバラ。
闇夜の中で、ひっそりと、けれど確かに輝いていた。
「この花……」
わたくしが思わず声を漏らすと、魔王様はゆっくりと説明してくれた。
「“夜薔薇”と呼ばれている。エルヴァンシアには咲かぬ品種だ。君が気に入るかと思ってね」
「……綺麗ですわ」
そう口にした瞬間、わたくしの頬に、ふわりと夜風が吹いた。
その風に乗って、どこか懐かしい香りが漂ってくる。
そして──
その風の中に、あのときの記憶が……
銀髪の少年が、一瞬、重なって見えた気がした。
「……やはり、君は……あの頃と、変わらないな」
魔王様がぽつりと、そんなことをおっしゃった。
「え……?」
思わず顔を上げたわたくしに、魔王様は少しだけ目を細めて微笑まれた。
「昔の話だ。記憶が戻れば、いずれ君も思い出すだろう」
また──“思い出す”という言い方。
(魔王様は……わたくしの“過去”を知っている?)
その言葉の裏にある意味を、探るように見上げる。
けれど、深くて静かなそのまなざしは、何も語らず──まるで霧に包まれた湖のように、わたくしの思考をやさしくはね返した。
「……貴方は、わたくしに何を期待しておいでですか?」
問いかける声が、自然と震えた。
何を望まれているのか、それがわからなくて。
けれど、魔王様は一瞬だけ視線を伏せ、そして淡く微笑んで言った。
「“姫”としてではなく、君という存在そのものに価値があると思っている。それだけだ」
「……」
その言葉が、胸の奥にそっと触れてくる。
やさしく、けれど──確かに、今までのわたくしのすべてを否定するように。
わたくしはこれまでずっと、“姫”だから大切にされてきた。
家族に。王国に。婚約者に。
“姫”という肩書きがなければ、わたくしなど……と、どこかで思っていた。
でも。
この人は、違う。
わたくしという“存在”そのものに、意味があると……そう言ってくれる。
それが、うれしくて。
でも、怖くて。
そして、どうしようもなく、涙が出そうだった──そのとき。
「……おや、こんな夜更けにお散歩とは、余裕ですね」
背後から、冷たい声が響いた。
この声を、忘れるはずがない。
「……セイル」
わたくしが振り返ると、そこには──静かに佇むセイルの姿。
無表情の奥に、かすかな焦りと苛立ちがにじんでいる。
「アリシア様、お迎えにあがりました。さあ、帰りましょう。王国へ」
「帰る……って、でも……」
「今なら、まだ間に合います。あの方に、気づかれる前なら、何もなかったことにできる」
──セイル……?
まるで、何かに追い立てられているようなその表情に、わたくしの心がざわめく。
「セイル」
魔王様が低く、けれど確かな響きでその名を呼ぶ。
その瞬間──空気が変わった。
「勝手に踏み込んでおいて、“連れ出す”とは。……礼儀を欠いているな、勇者殿」
淡々とした口調なのに、そこに込められた威圧は圧倒的だった。
「アリシア様は……貴方のところにいるべきではありません。王国は混乱しているんです!」
「だが、君が決めることでもない」
二人の視線がぶつかり合う。
音もなく、火花が散るような──そんな緊張が空間を満たす。
一触即発──
わたくしの胸が、ぎゅっと痛んだ。
(やめて……)
心の中でそう叫んでいた。
どちらかを選ばなければならないなんて、そんなの、残酷すぎる──
「やめてください、二人とも……!」
気がつけば、声が出ていた。
わたくしの叫びに、二人の男が同時にこちらを見た。
「アリシア様……?」
セイルの声は、かすかに揺れている。
「わたくし……わたくしは──誰かに決められるのは、もう嫌です」
自分でも、こんなことを口にするなんて思っていなかった。
けれど、もう止められなかった。
「ずっと、従ってばかりでした。お父様に、お兄様に。セイル、貴方にも──」
その名を口にした瞬間、セイルの表情がはっきりと揺らぐ。
「……アリシア様」
「でも、今は違うんです。わたくしは、もう“王国の姫”ではないのです」
その言葉に、自分自身が一番驚いていた。
でも、不思議と怖くなかった。
「この人の隣にいて、少しずつ──自分を取り戻していくのを、感じたんです」
わたくしはそっと、隣に立つ魔王様を見上げた。
「どうして、って思いました……それでも、わたくしのことを考えてくれる心だけは、確かでした」
魔王様は、黙って、わたくしの言葉を受け止めてくれていた。
何も言わずに、ただ見つめていてくれた。
その瞳の中に映るわたくしは、誰の所有物でもなかった。
「だから、わたくしは──“この人”を、選びます」
息をのむような沈黙が落ちた。
セイルは、何も言わずにわたくしを見つめ──やがて、静かに目を伏せた。
「……アリシア様。貴方は、覚えていないのですね」
その声は、とても静かで。
「──あの夜、泣きじゃくる貴方を抱きしめて、助け出したのが、誰だったのか」
「……!」
その言葉が、胸に突き刺さった。
けれど──それでも、わたくしの足は動かなかった。
「……覚えていません。でも、忘れていない気もします」
「わたくしを“泣かせなかった”人のことなら……ちゃんと、覚えているから」
その言葉に、セイルの瞳がわずかに揺れた。
けれど彼は、すぐに背筋を伸ばして、一歩下がる。
「……わかりました。ならば、私はもう一度、貴方を迎えに来ます」
低く、凛とした声。
それだけを残して、セイルは静かに背を向けた。
黒いマントが月光をはじき、彼の姿が闇に溶けていく。
わたくしの肩に、そっと、あたたかい手が触れた。
「──これが、君の選んだ答えか」
魔王様の声音は、やさしくて……でも、ほんの少し、哀しかった。
わたくしは、小さくうなずく。
「はい。たとえ、記憶を失っていても……心は、嘘をつけませんから」
そうしてわたくしは、ようやく──
誰かの“娘”でも、“姫”でもない、ただの“わたくし”として。
この人の隣を、選んだ。
◆あとがき◆
わたくしは“王国の姫”ではなく、“わたし”として──この人を選びました。
でも、それはきっと、誰かを拒むことでもあるのですね。
セイルの言葉が、胸に残ります。
でも、魔王様の隣にいると、不思議と心が落ち着くんですの……
そして、わたくし自身も、変わってきているのかもしれません。
次回、第5話。“選んだ夜”が、動き出します。
星空の下、わたくしの未来はどこへ向かうのでしょうか──?