第3話|護衛、参上──その刃は誰のため
(……ん?)
背後から気配がしたのは、ちょうど“姫教育”の時間からようやく解放されて、逃げるように回廊へ出たそのときだった。
わたくしは振り返る。
──誰も、いない。
けれど、何かがいる。そう感じた。冷たい空気が、ひとすじ、髪を撫でていったような──
「……誰?」
小さく声を出した瞬間、背後で風が舞った。
その場にしゃがみこんだ。反射的な行動だったけれど、それで正解だった。すぐ頭上を、何かが鋭く切り裂いていったから。
(っ、今の──剣気!?)
ぞくり、と背筋が震える。ごくりと喉を鳴らしながら、わたくしはじり……と後ずさり──
そのとき。
「アリシア様──!」
その声に、思わず顔を上げた。
聞き覚えのある声音。
見慣れた髪色。
見覚えのある、そのシルエット。
「セイル……?」
王都でいつもそばにいた、わたくしの護衛騎士。
あの夜。婚約発表のパーティーには、彼の姿がなかった。
だからこそ、今この場所に立っていることが、どうしても現実と思えなくて──
「ご無事で何よりです。……姫様をお迎えにあがりました」
風のように、静かに。そして確かに。
セイルは、わたくしの目の前に立っていた。
(……でも、どうして?)
この場所は、王都ではない。ヴァルドの城の中。
そんな場所に、彼がどうやって……?
わたくしは、疑問より先に体が動いていた。立ち上がり、彼に一歩近づこうと──
「お待ちください。今はまだ、お戻りいただくことはできません」
ぴしっ、と割り込むように響く鋭い声。
出た。
赤の軍装、鋭い緑の瞳、そして完璧な立ち姿。
「……カリーネ副官」
「そのような不法侵入、看過できませんわ。仮にも“ヴァルド王城”ですのよ、ここは」
「あなたには関係のないことだ」
セイルの声が、すっと低くなる。けれど、カリーネは微動だにしない。
「関係、大あり、です。……“あの方”のお気に入りを、勝手に連れ去られては困りますので」
(え、なにそれ、勝手に“お気に入り”にされてる!?)
ふたりの間に、鋭い空気が走る。
セイルは剣に手をかけ──
カリーネは、レイピアを抜こうとする、その寸前。
(ちょっと待って、これ……止めた方がよくない!?)
本気の気配に、わたくしは思わず手を伸ばしかけ──
その瞬間。
「やめろ」
静かに、けれどすべてを制するような声が、空間に響いた。
(また……この声)
わたくしは、振り返る。
そこに──いつの間にか、彼は立っていた。
漆黒の礼装、深紅の瞳。
どこまでも静かで、けれど、誰も逆らえないほどの威圧感。
「魔王様……」
「……この場は、俺が預かる。下がれ、カリーネ」
「っ……しかし──」
「命令だ」
魔王様──レオナルトの言葉に、カリーネ副官は悔しそうに唇を噛んだものの、一礼してその場を離れた。
(……本当に、魔王様の命令には逆らえないのね)
その背中には、揺るぎない忠誠が見えた。
けれど同時に、ほんのわずか……悔しさのような、嫉妬のようなものも混じっていた気がして。
(やっぱり、嫌われてる? わたくし……)
そんなことを考えてしまう自分が、少しだけ情けなかった。
「そして君も、セイル=クレイド」
魔王様の視線が、セイルに向けられる。
けれどセイルは、表情ひとつ変えず、まっすぐに魔王様を見据えていた。
そんな彼に対して、魔王様は呆れたような声をかける。
「ずいぶんと強引な手段だな。勇者ともあろう者が、単身で城に侵入とは」
「姫様のためです。……王国から姫を連れ去った貴方に問う資格などありません」
「ふむ……言ってくれるな。連れ去ったとは、言いがかりではないのか?」
「……っ、黙っていただきたい」
わたくしは、鋭い応酬を繰り広げる目の前の二人を交互に見比べる。
魔王様の横顔は、いつもどおり静かで冷静だった。
一方、セイルのまなざしには、見慣れない影が差していて──
「アリシアは、“今はまだ”ここにいる必要がある。君が迎えに来るのは、早すぎたのだよ」
「……では、いずれは返すと?」
「時がくればな」
魔王様の答えに、セイルの眉がわずかに動いた。
「貴方の“その時”とやらが、アリシア様にとっての“幸せ”と一致するとは、限らないでしょう」
「そうかもしれんな」
あっさりと頷いた魔王様の言葉に、セイルが小さく息を呑む。
(……魔王様)
その答えに、どこか嘘が混じっているような気がして──
でも、それがわたくしにとって“優しさ”にも思えて、余計にわからなくなる。
「だが、今の彼女は……“何も覚えていない”のだ」
その言葉に、わたくしは、はっとした。
(覚えてない、って──やっぱり、わたくしには……何かある?)
言いかけて、口を閉じる。
喉の奥が、きゅっと締めつけられるようだった。
「……アリシア様」
セイルが、こちらを見た。
その目には、焦りと……少しの哀しみ、そして決意が混ざっていた。
「どうか、わたくしと共に……お戻りください」
その声が、まっすぐに届いてくる。
心が、ぐらりと揺れる。
(わたくしは……この人に、守られてきた)
過去の記憶が、ぼんやりと霞の向こうに浮かぶ。
でも──
「……」
わたくしの口は、動かなかった。
言いたいことはあるはずなのに、言葉が出てこない。
「戻りたくない、わけでは……ないんです」
わたくしは、ぽつりと呟いた。
「けれど……」
何かを言おうとして、うまく言葉にできない。
その時だった。
わたくしのすぐ隣に、すっと影が差した。
魔王様が、わたくしの傍に立っていた。
その気配だけで、心臓が跳ねる。
体温が、少しだけ上がった気がした。
「アリシア。君が自分で選ぶ日が来る。そのときに、何を選ぼうと──俺は止めはしない」
「魔王様……?」
その言葉の意味を、わたくしはうまく飲み込めなかった。
でも、魔王様の声音は、とても穏やかで、やさしくて。
「今は、“思い出す”ことが先だ。それから、選べばいい」
「……思い出す、って」
わたくしが問うと、彼はゆっくり頷いた。
「夢に、見ているのだろう?」
わたくしの喉が、ひゅっと音を立てた。
「それは、昔の記憶かもしれないし……“真実”かもしれない」
「……!」
(……わたくしの、“真実”)
その言葉が、胸の奥に深く刺さる。
「……アリシア様!」
セイルの声が、静寂を破るように響いた。
「貴女は、王国の誇りです! 誰かの策略に嵌められ、連れ去られ、こんなところで──!」
「“こんなところ”、ね」
魔王様の声が、低く、そして冷たく落ちた。
ぴしりと空気が凍る。
「……っ、失礼しました」
セイルはぐっと拳を握ると、頭を深く垂れた。
まっすぐだった眼差しに、揺らぎのような影が差して──それでも、彼は逸らさなかった。
「だが、それでも。わたくしは姫様の騎士として……もう一度、迎えに来ます」
「……好きにしろ」
魔王様は、それだけを言い残して、静かに背を向けた。
セイルもまた、こちらに一礼を残し、足音を響かせながら去っていく。
──その場に残されたのは、わたくしと、魔王様。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩んで、代わりにぽつりと静寂が落ちた。
「……セイル、来てくれたんですね」
誰に言うでもなく呟くと、魔王様がゆるやかに振り返った。
「君にとって、大切な存在なのだろう」
「……そう、だったはずです。けれど」
胸の奥が、ちりっと痛む。
懐かしいはずなのに、感情が伴わない。名前を呼ばれても、心が揺れなかった。
「今のわたくしには……わからないんです」
ぽつりとそう告げると、魔王様はそっと目を伏せて、そして──
「それでいい。“答え”は、急がなくていい」
まるで、何もかも分かっているように。
そんなふうに、言ってくれた。
その手が、そっと、わたくしの髪に触れる。
力強くも、どこまでも丁寧で、やさしい手つきだった。
(ああ、まただ──)
この人は、いつだって、わたくしを困らせる。
困らせるのに、嫌じゃない。
むしろ、少しだけ……安心するのだ。
心が、ふっと温かくなった気がした。
(……護衛が来たのに。わたくし、帰るって言えなかった)
あの手を取ることもできた。
けれど──選べなかった。選ばなかった。
だから。
その夜、わたくしは眠れなかった。
心の奥が、ざわざわして。
ただひとつ。
“今の自分は、まだ何も知らない”─それだけが、はっきりしていた。
◆あとがき◆
お久しぶりの再会──なのに、セイルと魔王様が一触即発!?
お願いですから、そこで剣を抜かないでくださいませっ!
けれど、確信しましたの。
わたくしの“記憶”が、すべてのはじまりであり、すべての鍵だと。
たしかに何ひとつ、まだわたくしには掴めていないけれど。
次回、第4話。わたくしは、もう迷わない。
誰かに“選ばれる”のではなく、“自分で選ぶ”のです──