第2話|副官、三たび現る
(わたくし、ほんとうに知りたくなっている)
あんなに胸が騒いでいたのに、体は妙に落ち着いていた。
むしろ、すっきりしている。
眠っていないのに、目が冴えているなんて不思議。
夢のこと。魔王様のこと。そして──
あの時、たしかに覚えかけた“何か”のこと。
怖くないわけじゃない。
でも、知らないままに笑うほうが、もっと怖い。
そう思ったら、もう、気づけば朝だった。
寝台の上で膝を抱えて、そっと息を吐く。
(さて。今日も始まりますわね、魔王城生活──)
気持ちを切り替えるように小さく首を回したそのときだった。
扉の外から、かつん、かつんと靴音が響いてくる。
(……この音は──)
思わず背筋を伸ばす。
そう、もう三度目。
まさかとは思ったけれど、やっぱり──
「おはようございます、“姫君”」
びしっ。
寝起きのわたくしの前に立っていたのは、あの人だった。
ぴっちりとした軍服に、鋭い緑の瞳。
「カリーネ副官っ……!」
また来た。しかも、朝から堂々と。
「……また、ですか」
「“また”とはご挨拶ですね。主より“様子を見てこい”との命を受けておりますので」
◇◇◇
朝食の席は、例によって大広間の一角に設けられていた。
天井は高く、窓から差し込む光も荘厳で、美術館と見紛うほどの静けさが漂っている。
だけど、そんな空間よりも気になるのは──
(……副官さん、また目が合った)
というか、目が合っているというより、“狙い撃ち”されている気がする。
控えているだけのはずなのに、背中に感じるあの視線の鋭さ。
わたくしの仕草一つひとつに、得点でもつけられているのではと錯覚するほどだった。
(ごはん……食べづらい……)
今朝の食事は、エルヴァンシアで慣れ親しんだような、やさしい味だった。
焼き立てのパンに、ふわりと香る卵料理。果実のジュースに、甘みのあるスープ。
(……なんだか、懐かしい)
「合うか?」
「は、はい。とても」
魔王様がちらりとこちらを見て微笑む。その仕草に、心臓がまた跳ねた。
視線をそらすのがやっとだったのに──その次に放たれた一言が、不意に胸をつく。
「君は、“この味”に覚えがあるようだな。どこかで似たものを口にした記憶でも?」
「え……」
フォークを持つ手が、ふと止まる。
(……この味、たしかに王宮で食べていた気がする。でも、もっとずっと前……幼い頃?)
そう。たとえば、祝いの食卓。節目の日の朝。
そんな、ほんの短い記憶の中にあるような──けれど、はっきりとは思い出せない。
手の中のカップが、なぜか重く感じた。
その器の手触りに、懐かしさすら覚える。どこかで、似たようなものを持った記憶が──
(……いや、でも、こんなもの……ヴァルドに来たのは初めてのはずなのに)
まるで“来たことがある”ような感覚。
でも、それは現実の記憶ではなく、夢や幻に近いものかもしれない。
魔王様はそれ以上を問わず、黙ってパンに手を伸ばした。
そして、その静けさの中で──副官カリーネが、前に出た。
「では、お食事の後は礼儀作法の復習とまいりましょうか」
「……え?」
「宮廷における所作は、国によって微細な差異がございます。陛下のおそばに立つ方として、“ヴァルド式”の礼儀作法を把握しておくことは必須ですわ」
「そ、そんな……!」
「“主命”ではありませんが、教育指導の裁量は、わたくしに一任されておりますので」
(……逃げられないやつ!)
前回もそうだった。
「軽く立ち居振る舞いの確認を」と言われて始まった稽古は、結果として全身筋肉痛をもたらす事態に発展した。
ちらりと魔王様に助けを求めるも──
「……任せてある」
「はっ」
(い、いつもこのパターンですわ……!)
あの無駄のない返事、どれほどの希望を打ち砕いてきたことか。
そうして、わたくしの“宮廷作法指導”が、またひとつ加わったのだった。
◇◇◇
訓練が終わるころには、肩と背筋がぱんぱんで、指先までぎこちなくなっていた。
(これ、貴族令嬢の訓練じゃありませんわよね……?)
寝台に倒れ込みたいという衝動をこらえて椅子に座ったとき、
カリーネ副官がすっと姿勢を正し、静かに口を開いた。
「もう結構。午後はわたくしの予定にて、お引き取りを」
「……どういう意味です?」
カリーネ副官の言葉に、わたくしは思わず身を引いた。
まるで背後から氷水をかけられたような心地。さっきまでどうみても鬼教官だった彼女が、まるで別人のように──淡々と、冷ややかに。
けれどカリーネは、わたくしの困惑など意に介さぬ様子で、背を向けた。
「主からの命令です。そろそろ“別の刺激”も必要とのこと」
「べ、別の……!?」
(なにそれ、なんの地雷……!?)
魔王様が言ったの? “別の刺激”って、どういう意味……?
まさか、また何か“試される”の……? いや、でも──
そのとき──
「やぁ、お目覚めのお姫様。ご機嫌麗しゅうございますか?」
やたら軽やかな声が、部屋の扉の向こうから届いた。
(え……この声……)
入ってきたのは、奇抜な帽子に金の刺繍のローブ、そして……笑顔が胡散臭い、あの人物。
「おやおや、そんな顔をなさらずとも。宰相とはいえ、私は単なる案内係。今日は“散歩”の付き添いにまいりました」
「え、散歩……?」
(っていうか、なに? この人、また変なテンション……!)
「わたくし、グリム=カーヴィス。魔王様の信頼厚い──“変人”宰相と評されております」
「そこ、自分で言うんですか!?」
「言いますとも! 最近ではもう、“そういう人”で通っておりますので」
(……この人、前からちょっと危険なにおいしてたけど、やっぱりヤバい……!)
堂々たる自称“変人”っぷりに、もはやツッコミすら追いつかない。
そんなやり取りをしている間にも、カリーネ副官は背筋をぴんと伸ばしたまま、ひとつの言葉だけを残した。
「グリム。過度な干渉は控えろ。陛下からの伝達は、それだけだ」
「はーい。心得ておりますとも。わたくし、そこは空気読む派ですので!」
(嘘だ。絶対読んでない)
けれど……どこか、“読めない人”というより、“読まれたくない何か”を隠しているようにも見える。
言葉遊びの裏に、底の知れない“本音”を潜ませるような、そんな空気。
「では参りましょう。まずは──“庭園”などいかが?」
「て、庭園……」
そうして私は、なぜか変人宰相と手を取り合い(いや無理やり連れ出され)、
“魔王城の外”──塔の中庭へと、足を踏み出すことになる。
(……外、か)
足元の石畳の感触が、どこか懐かしい。
その先に広がるのは、静謐な緑と、花々が彩る魔界の庭園。
けれどその景色を前にして、胸の奥がまた、妙なざわめきに包まれた。
(……ここ、どこかで……)
誰かと、手をつないで歩いたような。
銀色の光の中で、笑ったような──そんな、記憶のひとかけら。
「……思い出しそうですか?」
隣のグリムが、唐突に問いかけてきた。
「え……?」
「記憶。わたくしは“封じられている”と見てますが──」
グリムの声は淡々としていたけれど、わたくしの中では言葉が弾けるように響いた。
(やめて。そんな簡単に、言わないで……)
心がざわつく。だれかを思い出しそうで──でも、怖くて。
(なんなの、この人……全部知ってるような顔して……)
「……あなた、わたくしに何を期待してるんですか?」
グリムは一拍置いて、ふっと目を細めた。
「それは、“陛下にお聞きください”」
にこり、と笑ったその顔は──どこまでも胡散臭かった。
(……ぜったい、何かある)
けれど今はまだ、その答えを受け止める準備は、整っていなかった。
◆あとがき◆
朝の目覚め、即カリーネ副官! そのまま優雅に(?)朝食かと思いきや、まさかの“礼儀作法講座”開講!?
いや、そんなつもりで起きたわけじゃありませんのに!
さらに宰相まで現れて、やたら意味深な“庭園”に連れ出されて……これ、ただの散歩じゃありませんわよね!?
次回、第3話。ついに、護衛騎士が登場──けれど、そこで始まるのは“救出”ではなく、“対立”……?