第1話|記憶が、動き出す
(また……夢を、見ている)
目の前に広がるのは、見覚えのない風景。
花畑。
それも、異様なほど鮮やかで、現実離れしている。
金や銀、そして夜空のような青──夢にしか存在しない、色の洪水。
夜空のような青に、星のような白が舞い、足元には光を帯びた花々が咲いている。風が吹くたび、花びらが音もなく宙を舞い、まるで“時間”そのものが止まっているようだった。
(ここ、どこ……?)
ふわり、と風が吹いた。
金色の髪が、視界の端をかすめる。
(あれ……髪……?)
伸びた前髪をかきあげて、目を凝らしたそのときだった。
「……また、ここに来たのか」
声がした。
低く、優しげで──でも、どこか懐かしい。
振り返る。そこにいたのは、銀髪の少年だった。
年の頃は、わたくしと同じか、少し年下くらい。
けれど、その瞳はとても穏やかで、まるで世界のすべてを受け入れるような、そんな深さがあった。
(この人……誰?)
「……あなたは?」
そう口にすると、少年は少しだけ目を細め、そして言った。
「思い出すのは、まだ早い。けれど……もう、すぐだろう」
「え……?」
「君は、選ぶことになる。“真実”と、“愛”を」
唐突な言葉に、心臓が跳ねた。
(──え、なに? それって……どういう──)
「目を覚ますんだ、アリシア」
「……えっ」
その声が、どこか悲しそうだった。
伸ばしかけた手は、空をつかんだまま──届かない。
少年の姿が、霧のように遠ざかっていく。
「ま、待って……! あなたは……誰──っ」
その瞬間、ぐしゃりと、世界が崩れ落ちた。
視界が、白く、そして黒く──
(ま、待って、まだ、何も……!)
「アリシア」
今度は、はっきりと現実の声が、耳に届いた。
「……っ!」
跳ねるように目を開ける。
天蓋付きのベッド。見慣れた、魔王城の寝室。
(ゆ、夢……?)
額にうっすら汗がにじんでいた。
胸の奥が、ちりちりと痛む。
「今の……夢……じゃなかった、ような……」
──銀髪の少年。
夜の花畑。
あの、やさしい声。
(わたくし……知ってる……あの子を)
でも、どうしても名前が出てこない。
夢で交わしたはずの言葉が、音のように抜け落ちていく。
「……あの人は、誰……?」
声に出した、そのときだった。
「──気になる夢でも見たか?」
背後から、低くよく響く声がした。
肩がぴくりと跳ねる。
(えっ)
振り向くと、そこに座っていたのは、漆黒の礼装に身を包んだ男──
「ま、魔王様っ!?」
◇◇◇
「……どうして、ここに?」
思わずそう口にしていた。
……まだ外は暗い。どうやら、夜明け前のようだった。
そして窓際の椅子に、当たり前のように腰かけている魔王様。
「見張り……ですか?」
「失礼な。見守っていたんだ」
「同じじゃありませんかっ!」
ぴしっと毛布を引き上げて、身を隠す。
でも、魔王様はふっと笑って──
「目覚めたばかりの君が、夢で何を見たのか……気になってな」
「っ……それは、わたくしの、個人の問題です」
「だが、その“個人の問題”が、俺たちの未来に関わることなら?」
「……え?」
魔王様は、まっすぐにわたくしを見つめた。
(この人、また……)
こういう時の、魔王様の目が苦手だった。
優しくもないのに、冷たくもない。
冗談でもないのに、真剣すぎるわけでもない。
どこか、すべてを見透かしているような──
「君が今朝見た夢。それは、ただの記憶の断片ではない」
「……どういう、意味ですか?」
「いずれ、君自身が思い出す。その時、選ばなくてはならない。過去か、現在か。表か、裏か──」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
情報が多すぎる。
「わたくし、ただ夢を見ただけですっ。銀髪の子が出てきて、何か言ってたような気がするけれど──それが何なんです!?」
「銀髪の少年……か」
魔王様が、ほんの少しだけ、目を伏せた。
その表情が、妙に寂しげだったのが、胸に引っかかる。
「……もしかして、知ってるんですか? あの子のこと」
「いや、何も」
「嘘です。いま、絶対、何か──」
「言いたくないこともある。今は、それで済ませてくれ」
「……っ」
また、それだ。
問いかけても、かわされる。
核心には触れさせてもらえない。
それって、わたくしが子どもだから――だから話せない?
それとも、わたくしが覚えていないから──信じてもらえない?
そんなの……ずるい。
わたくしだって、知りたいのに。
心の中で、抗うような声が小さく響いた。
(なにを、隠してるの……?)
わたくしは、じっと魔王様を見つめた。
けれど、その顔は──あまりにも整いすぎていて、ずるいくらいに感情が読み取れなかった。
(夢の中のあの子と、魔王様。わたくしの中で、何かがつながっている気がするのに)
──思い出せない。
記憶が、もどかしく絡まり、霧の中に溶けていく。
◇◇◇
「アリシア」
名前を呼ばれて、びくりとする。
魔王様は、そっと立ち上がり──
ベッドの傍に歩み寄ってきた。
(ちょ、ちょっと、近いです……!)
「記憶を思い出すことは、必ずしも幸福とは限らない」
「……それは、どういう──」
「たとえば、失った誰かのことを思い出すことで、心が裂けるような痛みを覚えることもある」
「……」
「だが、それでも、真実を知ることを、君が望むなら──」
その手が、そっとわたくしの頬に触れた。
「俺は……君の選択を尊重する」
(なにそれ。そんな顔で、そんな声で言われたら──)
その目が、少しだけ、どこか遠くを見ていた気がした。まるで──何かを見送るように。手のひらに残った温もりが、妙に切なくて、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。
「……やっぱり、知ってるんですね。夢の中のあの子のことも、わたくしの記憶のことも」
「……」
魔王様は、静かに目を伏せたまま、何も言わなかった。
でも、それが何よりの答えのようで。
わたくしは、小さく、深呼吸をした。
「それでも、知りたいです」
「……アリシア」
「だって、わたくし──知らないままでは、前に進めないから」
その瞬間、魔王様の目がほんのわずかに見開かれた気がした。
けれどすぐに、柔らかな笑みに変わる。
「……強くなったな。君は」
「えっ?」
「初めて会った時とは、大違いだ」
「いえ、初めてじゃありませんよ。わたくしたち、何度も顔を合わせて──」
(……あ)
わたくしは、そこで口をつぐんだ。
さっきまで夢の中の出来事だと思っていたことが、
魔王様の言葉と、わたくしの中の直感で、現実だったのかもしれない──と、思い始めていたから。
「……魔王様と顔を合わせたのって、初めてでしたよね?」
魔王様は答えなかった。
けれど、すっとわたくしの手を取り、指先に口づけを落とした。
「……焦らずにいい。君が“すべて”を思い出すその日まで、俺は傍にいる」
「──っ」
胸が、また変な音を立てた。
鼓動が、速い。
なのに、不思議と落ち着くのは──きっと、この人が、傍にいてくれるから。
「……ありがとうございます」
そうして。
わたくしの“過去”と“現在”が、少しずつ、つながり始めていく──そんな予感がした。
忘れていたことにすがるのではなく、思い出すことで、“今のわたくし”を見つけたい──
そんな気持ちだけが大きくなっていく。
──過去に何があったのか、それを知ったからといって、すべてが変わるわけじゃない。
でも、それでも。
知らないまま、笑っているだけのわたくしじゃ、きっと、いつまでも同じままなんだ。
だから──
何も知らないままで、誰かの背を追いかけるだけなんて、もう嫌だった。
そのまま、わたくしはしばらくベッドに座ったまま、時間がたつのを待っているだけだった。
(……朝が、来る)
もう、目を閉じることはなかった。
◆あとがき◆
また、夢を見ました──って、なんでわたくし、あんな“意味深な少年”と花畑デートしてるんですの!?
しかも「真実」とか「愛」とか、唐突すぎますわ!
こちとら目覚めたら隣に魔王様、しかも真顔で「それは記憶の断片」とか言われてますのよ!?
でも……夢の中のあの子、知ってる気がするんです。
この胸のざわめき、きっと──何かを思い出しかけている……のかも?
次回、第2話。朝から副官に煽られ、宰相に連れ出され、なんだかいろいろ振り回されます!?