第5話|副官、再び登場
「……っは」
まるで水面から飛び出すように、息を吸いこんで目が覚めた。
胸の奥が、まだじんわりと痛い。
夢の余韻が、くっきりと残っている。
(また、あの夢……)
誰かがわたくしの手を取ってくれた。
銀の髪。優しい声。小さな手のひらの温かさ。
なのに──
顔が、思い出せない。
「……どうして、こんな夢ばかり……」
寝台からそっと降りて、カーテンを開ける。
目の前に広がっていたのは、相変わらずの“ヴァルドの空”。
瘴気が渦を巻いているのが見える。
空気は澄んでいるのに、空は決して青くならない。
漆黒の山脈が、雲の切れ間から鋭くのぞいている。
(昨日までなら、これを見ただけで震えてたのに)
わたくしは、ゆっくりと胸に手をあてた。
ほんの少しだけ、慣れてきている自分がいる。
怖いはずなのに、昨日よりも心が落ち着いている。
「……でも、思い出せないのは変わらないまま、ね」
まるで、何かが欠けているような。
意図的に“封じられている”ような──
そんな感覚。
子どものころの記憶の一部が、ぽっかりと抜けている。
「お目覚めですか、姫君」
突然、背後から声がして──
「ひゃっ……!?」
思わず、飛び上がった。
そこにいたのは、赤い軍服に身を包んだ、あの人。
「……カリーネ副官」
昨日、魔王様の隣に控えていた“副官”。
冷たい目と、ふふんと笑う口元が印象的すぎる、変わった女性。
「昨日は、どうもご無礼を。改めて、陛下直属の副官──カリーネ・グライゼンでございます」
ぺこりとお辞儀をした彼女は、一見丁寧な態度。
けれどその瞳の奥には、鋭い観察の光が宿っていて……
やっぱり、ちょっと怖い。
「……お迎えにあがりました」
「え、迎えって……?」
「本日、陛下との昼食が予定されております。姫君のご準備を、と」
「なっ……!」
胸が跳ねる。
(ま、また魔王様と……食事を!?)
「で、ですが、わたくしまだ準備が──」
「お時間、差し迫っておりますゆえ。着替えはこちらにご用意しました」
そう言って差し出されたのは──
「……これ、ドレス?」
「はい。陛下のお好みの色で選ばせていただきました」
(なんで、知ってるの!?)
しかも──妙に、肌の露出が多い。
肩が出てるし、胸元のカットも深い。
ウエストもきゅっと絞られてて、ドキドキするようなシルエット。
「えっ、これを着ろと!?」
「お気に召しませんか? 姫君の魅力が、たいへん引き立つかと」
にこりと笑うその顔は、まるで──
(マウント、取りにきてますわね……!)
◇◇◇
「……なんで、こんな立派な食堂で……」
わたくしが案内されたのは、とんでもなく豪華な部屋だった。
天井が高く、壁は黒曜石に金の彫刻。
シャンデリアもきらきらしていて、どう見ても王宮以上の重厚感。
そして、中央にあるのは──
(な、長い……っ!)
まるで戦略会議用みたいな、果てしなく長いテーブル。
それでも、中央にはぴったり向かい合う形で、二人分の食器だけが並べられている。
「姫君、どうぞおかけくださいませ」
「あ、はい……」
椅子に腰を下ろすと、すぐに料理の香りがふわりと鼻をくすぐった。
「……この匂い、どこかで……?」
ふと懐かしさを覚えた、そのときだった。
「待たせたな」
重厚な扉が開き、現れたのは──
「っ……!」
黒衣の魔王、レオナルト=アルセイン。
完璧な礼装と、風に揺れる前髪、絶妙なタイミングの登場。
(な、なにこの演出……毎回すごすぎません!?)
もう慣れたはずなのに、思わず心臓が跳ね上がった。
「お早いですね、陛下」
「たまたまだ」
さらりと返して、わたくしの向かいに座る魔王様。
その仕草ひとつで、空間が静かに引き締まる。
「……この料理は?」
「エルヴァンシアの王宮風に寄せておいた。少しでも落ち着けるかと」
「っ……ありがとうございます」
そんなに気遣われて、どうすればいいのかわからなくなる。
(こんな人が、なんでわたくしを攫ったの……?)
もやもやとした疑問が、また胸の奥に浮かび上がってくる。
「ふぅん。味は、どうです?」
「……っ!?」
そのとき、不意に真横から聞こえた声に、フォークを取り落としそうになった。
「……カリーネ副官」
「お気に召しましたか? それとも、味付けが“貴族向け”すぎましたか?」
「いえ、そんなことは……!」
「それはようございました。──で、姫君?」
「はい……?」
「まさか、ナイフとフォークの使い方もご存じない、などとはおっしゃいませんよね?」
「っ、使えます! 王女ですから!」
「まぁ。それは頼もしい」
ふふ、と笑う副官の顔が、なぜかやたらと“勝ち誇って”見えるのは気のせいかしら。
「カリーネ」
そこで、魔王様が静かに口を開いた。
「余計な挑発は控えろ。客人だ」
「……はい。心得ております」
そう言いながらも、カリーネの瞳は、少しも和らいでいなかった。
◇◇◇
「──で、結局」
食事が一段落し、わたくしがお茶に口をつけたそのとき、カリーネ副官がさりげなく話を切り出した。
「陛下は、この姫君を“どうなさる”おつもりで?」
「それは、君が問うべきことではない」
魔王様は、静かに、でも決して揺らがない声で応じる。
けれど、カリーネは一歩も引かず、むしろ目を細めて問い詰めるように口を開いた。
「私は陛下の剣です。判断のための材料は、できるだけ多く欲しいだけですわ」
「アリシアは……“客人”だ。今は、それ以上でも、それ以下でもない」
「……ふぅん?」
(い、いまは……ってどういう意味!?)
その一言が、胸に妙なざわつきを残していく。
わたくしはそっと視線を落とし、グラスの水面に映る自分の顔を見つめる。
(……少しだけ、強張ってる)
「……わたくしは、ただの囚われの姫なのですよね?」
「そう思っているのか?」
「……ちがうんですか?」
「君は“ここにいるべき存在”だ。少なくとも、俺にとっては」
「……っ!」
目が合った。
真っ直ぐに、逃げ場もなく、でもどこか優しくて。
(ま、魔王様……そろそろイケメンの規格違反で訴えますわよ!?)
そう心の中で叫んだはずなのに、顔が熱くなっていくのはどうして?
「姫君」
ふいに、今度はカリーネの声が静かに響いた。
「貴女が、何を思い、何を忘れているのか──
それは、陛下とてご存じない部分もあるでしょう」
「……忘れている、こと……」
「ですが、“知っている者”はいるはずです。記憶の中に」
「記憶……」
その言葉に、夢の中の“銀髪の少年”がふっと浮かぶ。
小さな手、あたたかい笑顔。
──でも、その顔は、思い出せない。
(あれは……誰……?)
「“問い”は、いずれ“答え”を呼びます。焦らず、ゆっくりと進めばよろしいのです」
カリーネの声が、さっきより少しだけ優しかった。
「だから、少しずつでいい」
魔王様が、そう重ねて言った。
「この場所に、慣れていけ」
その声に、わたくしは思わず頷いていた。
「……はい。頑張って、みます」
そのとき、魔王様の瞳が、ふっと緩んだように見えた。
(──ああ、やっぱり)
この人の声は、どこかで聞いたことがある。
懐かしくて、優しくて。
きっと、わたくしは──
「わたくし、ほんとうは……あなたのことを──」
でも、その言葉の続きを告げるには、まだ心の奥が、ざわついていた。
夢と現のあいだ。思い出せない記憶。
けれど。
(少しずつ、思い出せばいい──のよね?)
魔王様と、カリーネ副官と。
少しずつ変わっていくヴァルドの日々が、確かにわたくしの中に根づき始めていた。
◆あとがき◆
魔王様との食事会──のはずが、なぜわたくし、
あんなに攻めドレス着せられて、カリーネ副官に煽られてるんですの!?
でも、あの人の言葉が、また心に残ってしまって……
「君は“ここにいるべき存在”だ」って。
いったい、わたくしは何を忘れていて、
魔王様は──何を覚えていて、わたくしに言わないの?
第3章、これにて完結です。
次回より、第4章が始まります。
ますます深まる記憶と、ついに触れ始める“あの真実”。
引き続き、お楽しみに!