第2話|なに者ですか、魔王様?
塔から降りた中庭は、意外にも静かで、穏やかだった。
──灰色の空。だけど、どこか落ち着く。
(……思っていたより、全然怖くないかも)
ひんやりとした風が肌をなでていく。
その風に混じって、なんとも言えない香りが漂っていた。
甘くもなく、苦くもなく、でも、なんだか落ち着く匂い。
王都のどんな庭園よりも、“整っている”。
「……ここがヴァルド?」
「どうした、拍子抜けか?」
隣で、魔王様がゆったりと歩いている。
(近い……っていうか、絶対これ、ふたりきりになるための“お散歩”ですよね!?)
わたくしの問いに、魔王様はふっと目を細めた。
「ヴァルドと言えば、もっとおどろおどろしい場所を想像したか?」
「……ヴァルドって、もっと、こう……瘴気が渦巻いて、正気じゃいられなくなるような場所だと……」
「どこの伝承だ、それは」
「ずっと、そうだと信じていたんですっ! 瘴気の谷に、棘の山、溶岩の大地、空にはドラゴン! まともな人間は一歩も入れないって……!」
「偏見だな。それは百年前の戦争時の情報だ。今は違う。ヴァルドとエルヴァンシアは、距離はあれど繋がっている」
(ほんとにそうなの? そんなこと、聞いたこともない……)
つい、ちらりと横目で魔王様をうかがう。
……けれど、彼は歩みを止めるでもなく、淡々と前を見ていた。
「……なにか、聞きたいことがあるのだろう?」
「えっ」
「そういう目をしている。──ずっと、こちらを見ている」
「…………っ」
(うわ、見透かされてる……!)
けれど、ここで黙るのもずるい。
わたくしは思いきって立ち止まり、彼の前へ回り込んだ。
「では、伺います!」
びしっと指を立てて、詰め寄る。
「あなたって……いったい、何者なんですか!?」
風が止んだ気がした。
冗談のように投げた言葉のはずだった。
けれど、魔王様の表情が、ほんの一瞬、翳ったのだ。
(……やっぱり。なにか、ある)
わたくしの直感が、静かに告げる。
そのとき。
「アリシア。お前は、“ヴァルドの魔法”をどう思う?」
「へっ?」
……いきなりすぎますっ!?
「……いきなり、なんですか、その質問」
わたくしは目をぱちくりさせた。
「どう思うって、何を基準にです?
わたくしの知っている魔法とヴァルドの魔法って違うんですか?」
「……エルヴァンシアでは、魔法は技術として学ぶものだろう?
だがヴァルドでは、“血”が力を呼ぶ」
「……は?」
その言葉に、わたくしの思考が一瞬で止まった。
(ち、血が力を呼ぶ……?)
魔王様は一歩、こちらへ近づいてくる。
「俺は、ある意味で“混血”だ」
「…………」
その瞬間、わたくしの脳裏に浮かんだのは──銀色の髪。夜のような瞳。
(……え? まさか)
「父はエルヴァンシア。母はヴァルド。
もっとも、エルヴァンシアで生きた時間など、ほんのわずかだったがな」
「どうして……?」
「語れることは多くない。
ただ……お前が本当に知りたいのは、“なぜ俺が魔王になったのか”──そこだろう?」
図星だった。
けれど、それ以上に衝撃的だったのは、魔王様の言葉の続き。
「答えはひとつ。“必要だった”からだ」
「必要、って……」
「“王”が必要だった。
誰にとってかは──まだ言えない。だが、いずれ分かる日が来る」
(またそれ……! いずれって、いつ!?)
焦れったくて、けれど聞き返せなくて。
そんなわたくしを見下ろしながら、魔王様はふっと目を細めた。
「アリシア。お前は、自分の世界が“正しい”と思っているか?」
「そ、それは……」
「政略のために婚約させられ、義務として振る舞い、感情すら押し殺す。
──それが“正しさ”か?」
「…………」
答えられなかった。
お父様の命令。
お兄様の言葉。
婚約者の微笑。
全部、“わたくしのため”だった。
けれど、そのどれもが、わたくしの気持ちを聞いては──くれなかった。
「俺は、正しさを疑った。そして、奪った」
「……!」
「“魔王”という名も、“王”という座も……欲しかったからではない。
必要だったから、力で奪い取った。それだけのことだ」
静かな声。
なのに、なぜだろう。胸の奥が、きゅっと苦しくなった。
「わたくしには……まだ、よくわかりません」
震える声でそう言うと、魔王様はふっと口元を緩めた。
「分かる日がくる。その時まで──そばにいろ」
「えっ……?」
どくん、と心臓が跳ねる。
(ま、また……この距離……!)
「そばにいて、“知れ”。この世界の形を。そして──俺という男を」
「な、なにを言って……!」
「お前は、“思い出す”はずだからな」
(……また、それ)
“思い出す”。わたくしが、何かを?
けれど、その答えを求める前に、魔王様は静かに背を向けた。
「戻れ」
その一言だけを残して、黒の外套が風に揺れ、遠ざかっていく。
◇◇◇
「……ずるい」
背中越しに、思わずそう呟いてしまった。
だって、あんなふうに言われたら──心が、ついていってしまいそうになる。
攫われたのに。
“魔王”なのに。
こんなふうに、言葉で、視線で、距離で──揺さぶってくるなんて、反則じゃないですか。
「……ったく。わたくし、なにを考えてるのよ」
むくれて一人ごちていたそのとき。
「……アリシア」
「きゃっ!?」
すぐ後ろから声をかけられて、思わず跳び上がりそうになった。
振り返ると、そこにはさっき去っていったはずの魔王様。
「な、な、な……! なんで戻ってきたんですの!?」
「ああ、ひとつだけ。渡しそびれていたものがある」
「……は?」
「これを、お前に渡しておこうと思ってな」
そう言って差し出されたのは──一本の小さな鍵だった。
「な、に……これ」
「お前の部屋の“外鍵”だ」
「……へ?」
「塔の扉。外から閉じられていたら、客人とは言えないだろう?」
カチャッ、と手の中で小さく鳴るその鍵に、わたくしは言葉を失った。
(……自由を、くれる? ヴァルドで?)
「使うかどうかは、お前次第だ。だが、“閉じ込める”つもりはない──信じてくれるなら、だがな」
「…………」
手のひらの上の鍵が、ぽかぽかと、妙に温かく感じられた。
「……どうせ、いずれ逃げても、すぐ見つかるんでしょう?」
「逃げられたら、それはそれで追う楽しみがある」
「……! どこまで本気なんですの!?」
「お前の頬が、また赤い。……やはり、熱があるんじゃないか?」
「もおおおおっ、いい加減にしてくださいませっ!!」
思わず手にした鍵でぺしぺしと彼の胸元を叩いたけれど、魔王様はまったく動じなかった。
むしろ、楽しそうに口元を緩めて──
「そうやって、怒ってる顔も、悪くない」
「~~~~っっっ!」
もうダメです! この人、ほんとに魔王様なんですか!?
「では、俺はもう行く。夜はまだ長い。……良い夢を」
軽やかな笑みとともに、今度こそ本当に彼は去っていった。
……と思ったのに。
「お前の夢に、また俺が出るかもしれんがな」
「~~~っっっ、出ませんっ! ぜったいに、出ませんからぁっ!」
叫んだその声は、もうすっかり静まり返った中庭に吸い込まれていった。
◇◇◇
──カチャッ。
扉を閉めて、鍵を手の中で見つめる。
(……ほんとうに、自由を、くれるの?)
思い出す、という言葉。
魔王になった理由。
わたくしが“駒”ではなかった理由。
そして──この胸の奥の、妙なざわめき。
(……なんなのよ、もう)
顔を覆いながら、ベッドの上にごろんと転がった。
柔らかな布団に包まれたその瞬間。
(あ……)
なぜだろう。
この場所が、“檻”ではなく、“避難所”に感じた。
魔王様がわたくしを“保護した”と言った理由が──
ほんの、すこしだけわかった気がして。
──そしてその夜、わたくしは夢を見た。
銀の髪。夜の瞳。
闇の中、わたくしに手を伸ばす、その少年の姿を。
◆あとがき◆
え、何その出自。ハーフ? 混血? そして“王が必要だった”?
魔王様、いきなり世界観をぐらぐらさせてきましたわね……!
しかもこの人、“正しさを疑った”とか、“力で奪った”とか……
かっこよさと重さをさらっと投げてきて、読者の心がついていきません!
そして、まさかの「君は、思い出すはずだからな」宣言。
……って、わたくし、何を!?
次回、「夢に見た、銀髪の少年」
それって、夢だけの存在なんですの……?