第1話| 魔王様、近いです!
(──あれ?)
朝だと思っていたのに、目覚めたのは夜だった。
窓の向こうには、星がきらきらと瞬いている。
ヴァルドの夜空は、不思議なくらい静かで、美しかった。
(こんな場所で目を覚ますなんて……)
部屋はもうすっかり馴染んでしまった。
最初は怖かったベッドも、今では妙に落ち着く。
(……それが逆に怖いって思うのは、気のせい?)
ガチャッ。
「起きてるか?」
「っ!」
扉を開けて入ってきたのは、漆黒の礼装に身を包んだ──魔王様だった。
(また、この人……)
「もう夜だ。身体はもう大丈夫か?」
「……まあ、はい。一応」
わたくしはベッドの端に座り直しながら答える。
そのときだった。
すっ──と、魔王様がわたくしの前まで来て、ひざを折った。
「え、えっ?」
「念のため、顔を見ておこうと思ってな」
「い、いいですっ、わざわざっ!」
「そうか?」
その目が、まっすぐにこちらを見てくる。
夜の静けさに包まれた室内。
距離、近い。
(……いや、ほんと、近いんですけど!?)
「顔色も悪くない。熱もなさそうだ」
「ですから、離れてくださいってば!」
「こういうのは、近くで確認しないと分からない」
「わからなくて、いいですっ!!」
わたくしは思わずベッドの上で、ずるずると後ずさった。
でも──
「逃げても、無駄だぞ?」
魔王様が、にやりと笑った。
(ちょ、こわっ! というか、なんでそんな楽しそうなの!?)
「そう怯えるな。俺は、別に食べたりはしない」
「その台詞、説得力ないですっ!」
魔王様はわたくしの抗議にも全く動じず、ベッドの端に腰を下ろした。
(うそでしょう……この広い部屋で、わたくしのすぐ隣!?)
「そ、それで、何のご用ですか?」
できるだけ冷静を装って尋ねると、魔王様はふっと視線を外し、天井を仰いだ。
「……アリシア。お前は、ここで何をしたい?」
「え?」
「客人として迎えた以上、自由に過ごして構わない。
外には出られないが……中での行動には制限を設けないつもりだ」
「……幽閉、じゃないんですか?」
「違うな。監禁、でもない」
「じゃあ……?」
「保護だ」
「え?」
「連れ出した責任は、俺が負う」
魔王様はごく自然に、そう言った。
「お前は“俺の客”だ。
あの場で、俺が攫わなければ──どうなっていたと思う?」
(それは……)
ゼノの顔が、お兄様の、そして……セイルの瞳が、脳裏をよぎる。
「アリシア。お前が何を恐れていたのか……全部は知らない。
ただ、あの時のお前の顔は──“助けを求めていた”」
「……っ」
「だから俺は、手を伸ばした。それだけのことだ」
「……そんな、理由で」
「理由が必要なら、つけてやる。俺が、お前を気に入ったからだとでも言えば納得するか?」
「なっ……!」
「姫抱っこで攫ってきたのだから、そういう方が“お約束”だろう?」
(な、なんなんですかこの人……!)
「お前は、何者なんだ?」
「わ、わたくしは……!」
「“第一王女”としての答えは、いらない」
魔王様はわたくしの肩にそっと手を置き、言った。
「“アリシア”としての、お前自身を──知りたい」
(……やっぱり、距離が、近すぎますっ!)
「……なぜ、わたくしなんですか?」
思わず、口にしてしまった。
「わたくしは、ただの王女で……いえ、ただの“駒”でしかなかったんです。
婚約も、お父様の決めたことで……」
「“ただの駒”なら、お前はあのとき、泣かなかった」
「……っ」
「本当に諦めていたなら、あんな顔で、助けを求めたりしない」
(……わたくし、そんな顔……してた?)
「アリシア。人の目に映る姿は、仮面だ。俺は、そういう“笑顔”を見慣れてる」
「なに、それ、魔王特有の能力ですか?」
「いや、俺の“勘”だ」
「勘かいっ!」
思わずつっこんだら、魔王様はほんの少しだけ笑った。
くすぐったいような、あたたかいようなその笑みに、心臓がまた跳ねる。
(……この人、ずるい)
でも、なんだろう。 気づけば、最初の恐怖は少しだけ遠のいていて──
「そうだ」
魔王様が立ち上がる。
「そろそろ、こっちの暮らしにも慣れてきたころだろう。散歩にでも出るか?」
「え? お散歩……?」
魔王様が立ち上がる。
「中庭がある。塔を降りれば、すぐだ」
「塔……やっぱり、ここって……!」
「高所は、外からの侵入を防ぎやすいからな。
“客人”にはふさわしいだろう?」
「まるで、姫を閉じ込めるための場所みたいですわね」
「否定はしない」
(否定しないって、何考えてるのよ)
「では、案内させよう。……もちろん、俺も同行する」
「えっ」
「当然だろう? 俺の“客人”だ。丁重に扱わねばな」
(……ああ、もう……)
「……勝手についてくれば、いいでしょう!」
ぷいっと顔を背けたら、また、ふっと魔王様は笑った。
──そうして。
わたくしと魔王様の、ほんの少しだけ不思議な距離感は、その日もまた、じわりと縮まったようだった。
◇◇◇
「……あの、魔王様」
歩きながら、ふとわたくしは尋ねた。
「ん?」
「ヴァルドって……夜が長いんですの?」
「ヴァルドでは、日が落ちてからが“本番”だ。活動する者も多い」
「じゃあ、これから……」
「“デート”の時間だな」
「でっ、デート!?」
「違うか?」
「違いますっ! ちが……ちがいませんけどっ!」
わたくしは思わず口ごもって、バサッとローブの裾を払った。
どうしてこの人は、いちいち一言多いんですの!?
「顔が赤いな。熱か?」
「違いますっ!!」
そう言った瞬間、またしても、魔王様の手がわたくしの頬に触れた。
「っ!」
「ああ、やっぱり……」
「な、なんです!?」
「少し熱い。……風邪でも引いたか?」
「それ、絶対わざとですよね!?」
「さてな」
そうやって、とぼけたような笑みを浮かべているけれど──
まっすぐなその目は、やっぱり、どこか優しかった。
(……この人、ほんとうに魔王様?)
外の廊下へ出ると、ひんやりとした風が肌をなでる。
空には、先ほど見たよりももっと大きな月が、静かに浮かんでいた。
「わあ……」
「どうだ、“ヴァルドの空”は?」
「……綺麗。思ったより、ずっと」
「だろう。お前が“夢で見た空”と、似ているか?」
「っ、どうして……!」
魔王様は少しだけ目を細めた。
「お前の“匂い”が、そう言っていた」
「……もう、またそうやって……!」
「冗談だ」
(うそです、絶対うそです!)
けれど──
「でも、本当に。わたくし、こんな空を夢に見たような気がして……」
「なら、運命かもしれんな」
「……そんな、都合のいい」
「俺はそう信じる」
その一言に、どうしてだろう。胸の奥が、ふっとあたたかくなった。
ふと、魔王様がわたくしの手を取った。
「ひゃっ……」
「……冷たいな。まだ、緊張してるのか?」
「ち、ちが……!」
「なら、少し歩こう。怖くないように、俺がそばにいる」
(……ずるい。そう言われたら、手、放せないじゃない……)
でも──ほんの少しだけ、
ぎこちない足取りのまま、
わたくしは魔王様と並んで歩いた。
──こうして、ヴァルドでの“お姫様生活”は、また一歩、進んでいったのだった。
◆あとがき◆
……いやいやいや、近すぎますってば魔王様⁉
お姫様生活、はじまったかと思えば初手がこれ。
なんで保護の名のもとにベッド横で診察されるんですの!?
優しいけど、謎も多くて。そもそも魔王様、なにしに来たんです?
「“夢に見た空”と似ているか」って、その一言が引っかかって仕方ありません。
次回、「なに者ですか、魔王様?」
……それ、わたくしが今いちばん聞きたいんですけど!?