第5話|え、この人……昔の……!?
(──夢?)
柔らかな風が、頬を撫でた。
草の匂い。鳥のさえずり。あたたかな陽の光。
(……ここ、どこ?)
見覚えがあるような、でも思い出せない景色。
木漏れ日の中、わたくしは、小さな手で──誰かの袖を、ぎゅっとつかんでいた。
「……また、会おう。姫君」
長い銀髪、赤い瞳。
あたたかくて、でもどこか悲しげな微笑み。
その人がそう言った瞬間──
──ぱちん、と。
「……っ!」
夢が、霧のように消えた。
(な、なに……今の)
夢? 記憶? それとも、幻……?
「お目覚めですか、姫君」
「ひゃっ!?」
聞き覚えのある声に、肩が跳ねた。
見ると──窓辺に腰かけていたのは、あの白髪眼鏡の変人。
「グリム宰相……!」
「ご挨拶を省いていただけるとは、ずいぶん親しくなったものです」
「違いますっ!」
「ふふ。今朝方、うなされておられましたので」
彼は、淡々とそう言って、白磁のカップを差し出した。
「薬湯を。
体にやさしい調合です。
どうぞ」
「…………」
(なんか、すっごく怪しい……!)
「……何か入ってるんですか?」
「そんなに信用がありませんか。
悲しいですね」
「だって……!」
「睡眠薬など使わずとも、姫君は驚くほどよく眠られますので」
「ちょ、ちょっと! なんでそんなに知ってるんですか!?」
「宰相ですから」
「答えになってませんっ!」
グリムはくす、と笑いながら、立ち上がる。
「さて。
本日は少々、お付き合いいただきたく」
「また何か、ですか……?」
「記憶というものは、刺激がなければ動きません。
ですが、適切な“触媒”があれば──
ふふ、面白いですよ」
「もう、その“意味深な言い回し”やめてくださいっ!」
「わたくしは誠実なつもりですが?」
「わたくし基準では、信用ゼロですっ!」
(この人、絶対なにか知ってる……)
だけど、今のわたくしには、それを拒む権利は──
たぶん、ない。
(逃げられないのは、もう、わかってるから……)
◇◇◇
グリムに連れられ、わたくしは部屋を出た。
──といっても、階段を下るとかではない。
「こちらです」
「え、ここって……」
足元に描かれた魔法陣が、ふわりと光を放つ。
(な、なにこれ!?)
「少々、揺れます。お気をつけて」
「ちょ、ま──っ、きゃああっ!」
瞬間、体がふわりと浮いた。
重力も床もない空間。視界がぐるりと回って──
「つ、着いた……?」
「はい。
塔の地下、記録区画です」
(地下!?
っていうか今の、絶対乗っちゃダメなやつだった!)
たどり着いた先は、
図書館のようで、
書庫のようで、でもどこか異様な空気。
壁にはびっしりと古い本。
宙に浮かぶ文字列。
黒曜石の床に、薄く光る紋章。
「……ここ、なに?」
「王城“旧記録庫”。
かつてヴァルドとエルヴァンシアの境が曖昧だった時代、
双方の協定が記された場所です」
「協定……?」
「簡単に言えば、“契約”ですね。血と力と記憶にまつわる、古き盟約」
そう言って、グリムは棚から何冊かの本を抜き出す。
『王国記録』
『禁呪と血統』
『古き盟約』
(……物騒なタイトルしかない)
「姫君。
失礼ながら、あなたの出生には、いくつかの“特異性”がございます」
「と、言いますと……?」
「たとえば、“どこの誰の血を引いているのか”──
あるいは、“どんな力を封じられているのか”」
「えっ……?」
グリムの声は穏やかだったけれど、背筋がひやりと冷えた。
「昨夜の夢、覚えていらっしゃいますか?」
「……!」
(あの、銀髪の人……赤い目……)
「“昔の夢”です。記憶の封印がゆるんだ証拠ですね」
「じゃあ、あれ……本当に“記憶”だったんですか!?」
「断定はできませんが、“可能性は高い”」
「う、うそ……」
「あなたは、かつて“この瘴気に似た空気”の場所に滞在していた。
その記憶が呼び水となって、夢に姿を見せたのでしょう」
「……っ!」
「それは、ここヴァルドではありません。
もっとも、それが重要かどうかは問題ではないですがね」
(わたくしが……? 瘴気に似た、空気の場所?)
「姫君。あなたの中には、“人”ではないもう一つの血……魔の系譜が、確かに存在しています」
(ど、どういうことなの?)
「それは“魔力が強い”というだけの話ではありません。血の由来そのものが、異なっているのです」
「なっ……!」
「それゆえに、王国でも特異な存在として扱われ、“記憶”を封じられた可能性がある」
「でも……わたくし、そんなの、知らなくて……!」
「当然です。“そのように育てられた”のですから」
グリムは、懐からそっと何かを取り出した。
「……これは、かつて姫様が、かの場所で落とされたものです」
差し出されたのは、小さな金枠のミニアチュールだった。
「っ……!」
表面は細かく装飾され、蓋を開けると──
中には、青年と少女が、微笑んで寄り添っている。
極細の筆で描かれたその絵は、まるで生きているように繊細で。
「……っ……!」
(この人……この少女……わたくし……!?)
心臓が、どくんと跳ねた。
胸の奥で、何かがざわめいている。
「陛下は、“君が戻ってきた”と仰いました」
「……っ」
「ようこそ。再び、魔王陛下のもとへ──“アリシア姫”」
◇◇◇
(……わたくし、ここにいたの? 本当に……)
信じたくない。でも、否定もできない。
わたくしの中の“何か”が、この空間を“知っている”と、確かに言っていた。
「そろそろ、戻りましょうか。姫君」
グリムの言葉に、ただ黙ってうなずくしかなかった。
塔に戻ると──
そこには、彼がいた。
「……帰ったか」
「きゃっ!?
ま、魔王様!?」
またもや、当然のようにソファでくつろいでいる。
(なんで、毎回、いるんですの!?)
「……どうして、ここに?」
「お前が“戻ってくる”と思ったからだ」
「それって……
まさか、待って──」
「待っていた」
「即答っ!?」
魔王様は静かに立ち上がり、すっとわたくしの前に来る。
(この人、ほんと……距離感ってものが……!)
「……顔色が悪いな。
夢でも見たか?」
「え……っ」
(……また、その話)
「“昔の夢”だ。見たか?」
「……いえ、見てませんっ」
「そうか。“まだ”か」
その“まだ”の言い方が、どうしようもなく気になって──
「……魔王様。
あなた、何か、知ってるんですの?」
「全部とは言わない。
ただ──俺は“忘れていない”」
「……っ」
「お前が誰で、
なぜここにいて、
何を願っていたのか」
「な、なにそれ……」
わたくしの言葉に答えず、
魔王様はふわりと手を伸ばし──
また、わたくしの頬に触れた。
「っ……!」
(やっぱり、この距離……ずるい……!)
「……時間は、まだある。
焦ることはない。
“今は”それでいい」
「……“今は”って……」
「お前が、思い出すその時まで」
魔王様は、どこか切なげに目を細めた。
「俺は、待っている」
その一言が、胸の奥に、ぽたりと落ちた。
ずるい。
優しすぎて、ずるい。
(そんな顔……そんな声……されちゃったら)
なにも言えなくて、
わたくしはただ、視線をそらした。
「……もう、寝ます」
「そうか」
魔王様はそれ以上、何も言わず。
でも、扉を出る間際に、ふと振り返って──
「“あの夢の続き”が、見られるといいな」
そう言って、静かに去っていった。
わたくしは、ふらりと寝台に倒れ込む。
(……あの夢の、続き)
思い出そうとすれば、
すぐそこにある気がするのに。
でも、指先で触れようとすると、
するりと逃げていく。
(……ねえ、誰……?)
あの声。
あの笑顔。
あの赤い瞳。
ずっと、ずっと前から、
わたくしの中にあった気がするのに。
──その夜、わたくしは、また夢を見た。
草の香り。
風の音。
小さな手を握っていた、大きな掌。
「また、会おう。姫君」
その声が、胸の奥に、確かに残っていた。
◆あとがき◆
読んでくださって、ありがとうございました。
……え、何この展開。ついさっきまで記録庫にワープしてたのに、今度は記憶の封印ですって!?
逃げようとすれば即バレ。問い詰めれば、はぐらかされ。
誰に何を聞いても、肝心なことだけ“いずれ”と濁される。
──なのに、魔王様だけは、迷いなく「覚えている」と言ってくる。
優しくて、ずるくて、なにもかも知っているようなその目が、いちばん怖くて──
……いちばん、気になってしまう。
夢の中の声は、誰だったのか。
そして“思い出す”とは、いったい何を──
第2章、ここで完結です。
ただいま感想欄オープン中です。
「記憶、戻るの?」「魔王様、優しすぎない?」
などなど、思ったこと・感じたこと、どんな一言でもお気軽に。
(※感想欄は**7月17日(木)**までの期間限定です)
次回より、
第3章|封じられた記憶と、魔王の横顔
がスタートします。公開は少し間をあけて、**7月17日(木)**から。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。