レリスタン王国の暗躍
蝋燭の灯が、細長く揺れていた。
レリスタン王宮の奥深くにある謁見の間。高窓から差し込む月の光が、暗い石造りの床に冷たい影を落としていた。
「フィルクレスの貴族議会ではなく、ヴァリスの娘が帝国と交渉を結んだ、か」
低く呟いたのは、レリスタン王国の宰相、アルベリク・グラードだった。
蝋燭の炎が、その皺深い顔に陰影を作る。目を細め、報告を終えた密偵を見下ろしている。
「面白い」
指先で軽く机を叩いた。不規則なリズム。
「これは共和国の政局を大きく揺るがすな」
長い沈黙が落ちる。
密偵の男は、重い空気に耐えるように、ひたすらじっと膝をついたままだった。口を開くのは許されていない。
アルベリクは、机の上の地図に視線を落とした。帝国と共和国。その間に挟まるレリスタン王国。長年の均衡を保ってきた三国関係が、ついに歪み始めた。
ヴァリスの娘――エリザ・ヴァリス。
名前だけは知っていた。父親は共和制の理想を信じた愚直な政治家。結局、その信念のために死んだ男だ。
その娘が、何を思って帝国との交渉に臨んだのか。
「アルベリク様」
声がした。
傍らに控えていた側近のリリアン・セラフィスが、月の光を背に立っていた。黒衣の裾が床を這う。
影のような女だった。
彼女は言葉を継いだ。
「帝国軍の陣営に潜伏していた密偵からの報告によれば、交渉の場でエリザ・ヴァリスは『共和国の正式な交渉人ではない』と明言したとのことです。共和国政府の承認なく帝国と取引を行った以上、これは共和国への裏切りと見なせます」
アルベリクは頷いた。
「共和国はどう動く?」
「まだ情報が伝わっていません。ですが、伝えればどうなるかは火を見るより明らかでしょう」
リリアンの唇が、微かに歪んだ。
「共和国の貴族議会にとって、ヴァリス家の名はもはや厄介な遺物です。エリザ・ヴァリスは、彼らにとって“処分すべき駒”となるでしょう」
「つまり、我々が手を下さずとも、共和国自らがヴァリスの娘を排除する」
「その可能性が高いかと」
アルベリクは、椅子の背もたれに深く身を預けた。
この国の立場は決して強くはない。帝国と共和国、そのどちらにも飲み込まれないために、外交と謀略を駆使して均衡を保つしかない。
そして均衡とは、敵を作らず味方も作らず、ただ冷たく状況を操ることで成り立つ。
ヴァリスの娘が交渉に成功すれば、共和国の混乱は深まる。失敗すれば、それもまた共和国の力を削ぐ。
どちらに転んでも、レリスタンの利益となる。
「リリアン」
「はい」
「情報を共和国に流せ」
側近は無言で頷いた。
アルベリクはゆっくりと目を閉じる。
エリザ・ヴァリス。
彼女の決断が、どういう形で共和国に返るか。
――それを見るのもまた、面白い。
だが、その時ふと脳裏をよぎった考えがあった。
(帝国もまた、揺らぎつつある)
最近、帝国の中枢で派閥争いが激化しているとの情報が入っていた。貴族派と軍部、中央と辺境。今はまだ水面下だが、いずれその対立は表に出る。
レリスタン王国が生き残るには、どちらにつくべきか。あるいは、どちらにもつかず、ただ動乱の果てを見届けるべきか。
アルベリクは椅子の肘掛けを指で叩いた。
静かに、ゆっくりと。
長年培ってきた外交感覚が告げていた。
まだ、動くべき時ではない。
帝国と共和国が揺らぐ今、レリスタンはしばらく静観する――安全圏で。
そう考えたことを、誰にも言うつもりはなかった。
その判断が、やがて大きな波紋を生むと知りながらも。
宰相の独白
風が吹いていた。
高窓の外、雲は重たく垂れこめ、灰色の影を宮廷の壁に落としている。
アルベリク・グラードは静かに椅子の背にもたれ、卓上の地図を指でなぞった。
フィルクレス共和国。
ザハルヴァル帝国。
そして、両国の狭間にあるレリスタン王国。
地図の上では小さな国にすぎないが、この王国が存在する限り、帝国と共和国の均衡は崩れない。
崩させてはならない。
共和国の混乱が続くことが、この国の存続を保証する。帝国が完全勝利を収めることも、共和国が一枚岩になることも、レリスタンにとっては同じほどの脅威なのだ。
だからこそ――
ヴァリスの娘は排除せねばならなかった。
共和国の混乱を維持するため
フィルクレス共和国は、貴族派と共和派、商業ギルドと軍部、そのすべてが内輪で対立し、常に不安定な状態にある。
それが、レリスタンの安全を守っていた。
共和国が団結することは、この国にとって不利益にしかならない。
だが――エリザ・ヴァリスは、帝国と直接交渉し、共和国をひとつにまとめる可能性を持っていた。
彼女が講和を成立させ、食糧供給を確保し、貴族議会と軍の亀裂を埋めることができれば、共和国はまとまる。
そして、まとまった共和国は、帝国にとってもレリスタンにとっても、脅威になりうる。
共和国は、混乱していなければならない。
エリザ・ヴァリスの行動は、それを覆しかねなかった。
――ならば、彼女の動きを封じるまで。
共和国の対帝国交渉を阻止するため
アルベリクは唇の端をわずかに歪めた。
帝国と共和国の交渉は、常にレリスタンを介して行われてきた。
帝国は、レリスタンの仲介なしに共和国と話を進めることはなかったし、共和国もまた、レリスタンを通じてのみ帝国と取引をしていた。
それが、外交の均衡を保つ仕組みだった。
だが――
ヴァリスの娘は、帝国と直接交渉を行った。
それを許せば、今後共和国はレリスタンを経由せず、帝国と取引をするようになる。
そうなれば、レリスタンの影響力は一気に削がれる。
共和国にとって、もはやレリスタンを頼る理由はなくなり、帝国との和平は直接進められるようになる。
そして、その均衡が崩れたとき、レリスタンの価値は――なくなる。
だからこそ、ヴァリスの娘は潰さねばならなかった。
その存在が、この国の立ち位置を揺るがす前に。
共和国の貴族議会と商業ギルドを味方につけるため
レリスタン王国の貴族は、共和国の貴族と深い関係を持っている。
そして、商業ギルドは、レリスタンを経由して帝国と交易を行っている。
彼らにとって、レリスタンは必要な存在だった。
だが――
ヴァリスの娘は、その仕組みすら崩す可能性を秘めていた。
彼女の動きが成功すれば、帝国と共和国は直接貿易を行うようになり、商業ギルドの利権は失われる。
貴族議会にとっても、「帝国と勝手に交渉を進める女」は危険な存在でしかなかった。
彼女が成功すれば、共和国は貴族議会を通さず、帝国と直接交渉できるという前例が生まれる。
貴族たちがそれを許すはずがない。
ならば――
彼らにとって都合の良い物語を与えればいい。
「ヴァリスの娘は、共和国を裏切った。」
それだけで、共和国の貴族も商人も、彼女を敵と見なすだろう。
帝国に恩を売るため
レリスタンは中立国だが、それは表向きの話だ。
裏では、帝国とも繋がりを持ち、互いの利害を調整している。
帝国にとって、ヴァリスの娘の交渉は不確定要素だった。
彼女が共和国をまとめ上げることは、帝国にとっても好ましくなかった。
レリスタンが彼女を潰したことで、帝国はより有利な条件で交渉を進められる。
その見返りに、帝国はレリスタンの影響力を認めざるを得ない。
つまり――
ヴァリスの娘を陥れることは、レリスタンにとって、共和国・帝国・商業ギルドの三方向すべてに利益をもたらす策だったのだ。
ヴァリスの娘が消えれば、それで終わるのか?
アルベリクは、指を組んだまま目を閉じた。
エリザ・ヴァリスは、もはや共和国に戻れない。
彼女を受け入れる場所は、もうどこにもない。
――はずだった。
だが、戦場に居場所を失った者は、次にどこへ向かうのか?
その問いが、脳裏を離れなかった。
共和国には戻れない。帝国にもいられない。
ならば、彼女が次にすがるのは――
レリスタン王国。
「……さて」
アルベリクは静かに息を吐いた。
彼女がどう動くか。
それを見るのもまた、一興かもしれない。
共和国が崩れるのを、もう少し見届けるのも悪くはない。
いや、エリザを向かい入れたほうがいいか検討するのも一興か?