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帝国との交渉

 風が止んでいた。


 灰色の雲が空を覆い、光を鈍く屈折させる。空気は湿り気を孕み、地面に広がる土の匂いを濃くしていた。


 帝国軍の幕舎の中は、静まり返っていた。


 正面の椅子に、ライハン・アーゼルが腰掛けている。鎧を纏ったまま、長身を背もたれに預け、組んだ指を見下ろしていた。


 エリザはその前に立っていた。


 冷たい視線が向けられる。


 試すような目だった。


 交渉の席はすでに用意されていた。机の上には何も置かれていない。ただ、剥き出しの木の質感が、無言のうちに「ここは戦場の一部なのだ」と告げていた。


 エリザは椅子に腰掛けることなく、まっすぐにライハンを見た。


「共和国の貴族議会は交渉の席につかない。彼らには決断する意志もない」


 低く、静かな声だった。


 ライハンは微かに眉を上げた。


 表情の動きはわずかだったが、エリザはそれを見逃さなかった。


 面白い。


 そう言わんばかりの反応だった。


「ならば、お前が共和国の代表というわけか」


ライハンの問いに、エリザは即座に否定した。


「違います。」


ライハンの口元が、わずかに歪む。


「ならば、何だ?」


「私は、共和国の民を代表してここにいる」


 今度はライハンの表情が動かなかった。


 沈黙。


 幕舎の外で、兵士が足音を立てた。重い鎧の擦れる音が響く。だが、ここにいる二人の間には、何の波紋も生まれない。


 ライハンは組んでいた指をほどいた。


 音はしなかった。ただ、手のひらが机に触れる。


 それだけで、場の空気がわずかに変わる。


「共和国を救うために来た、と?」


ライハンの声は、まるで刃のようだった。


エリザは微かに息を整える。


(試されている……。)


ここで言葉を誤れば、交渉は潰える。


「そうだ」


即答した。


一瞬の沈黙。


ライハンの口元がわずかに歪む。


それは、わずかに嘲るような笑みだった。


「共和国を救うため……ね。だが、奇妙だな」


「何が?」


「お前は共和国を救いたいと言う。だが、共和国はすでにお前を裏切り者として見ている。つまり、お前がここで何をしようと、共和国はお前を受け入れない」


(分かっている……そんなことは。)


だが、それをライハンに認めさせるわけにはいかない。


エリザは冷静に答えた。


「共和国の支配者たちが私をどう見るかは、問題ではない。私は共和国の『民』を守るためにここにいる。」


「ほう?」


「重要なのは、民の命が救われるかどうか。それ以上のことは、あとで考えればいい」


ライハンの指が机を軽く叩く。


(この反応……悪くない。)


彼は考えている。


「共和国が滅びれば、辺境は混乱する。帝国にとっても、決して利益にはならない」


「ほう」


 ライハンは片肘をついた。


 手元の机を指先で軽く叩く。一定のリズムではなく、不規則な、考える者の動作だった。


「ならば、貴族議会はそれを理解していないのか?」


「理解している。だが、動かない」


 その瞬間、ライハンの手が止まった。


「……なるほど」


 言葉は低く、わずかに笑みが滲んでいた。


「つまり、お前は貴族議会の意思ではなく、自らの判断でここに来たわけだ」


「そうだ」


 また即答。


 ライハンはエリザをじっと見た。


 その目には、探るような光があった。


 沈黙が落ちる。


 長い時間、何も言わず、ただ互いに視線を交わした。


 そして、ライハンは指を組み直し、微かに息を吐いた。


「共和国の命脈をつなぐために、帝国と取引をしに来た、というわけだな」


ライハンが指を組みながら問いかける。


エリザは首を横に振った。


「違う。私は共和国の体制ではなく、民のために交渉している。」


ライハンの指が机を軽く叩く音がした。


 その言葉に、ライハンの表情がわずかに変わる。


 笑ったわけではない。


 だが、何かが動いた。


「……民のため、か」


 ライハンは椅子の背もたれに体を預け、目を細めた。


「共和国の民は、お前を代表として認めているのか?」


「認めるかどうかは、結果次第だ」


 エリザは静かに答えた。


「私は、ここで何かを勝ち取らねばならない」


 ライハンはまた沈黙した。


 エリザはその沈黙を待った。


 焦らない。言葉を重ねない。


 言葉を尽くせば、かえって軽くなることを知っていた。


 長い沈黙後、やがて、ライハンが重い口を開いた。


「いいだろう。話を聴こう。」


 エリザは目を逸らさなかった。


「即時停戦。食糧供給。そして、貿易封鎖の一部解除をお願いいたします。」


 しかし――


 それだけではない。


 ライハンの瞳がわずかに細まった。


「お前が、共和国に戻ったときにどうなるか――気にならないか?」


 エリザは答えなかった。


 ライハンはわずかに笑みを浮かべた。


「貴族議会が、お前をどう見るか」


「……」


「お前は、共和国の命脈をつなぐために、帝国と取引をしに来たのではない。ならば、共和国が何をするか、分かるはずだ」


 エリザは微かに息を吐いた。


 分かっていた。


 すでに、交渉の席についた時点で――


 彼女は、共和国の中では異端なのだ。


「共和国が何をするか、分かるはずだ。」


ライハンの低い声が幕舎に響いた。


エリザは一瞬だけ目を伏せ、それから、はっきりと言った。


「それでもいい。私は、自分がすべきことをする。」


ライハンは目を細めた。


ライハン・アーゼルは静かに椅子に腰掛け、目の前に立つエリザ・ヴァリスを見つめた。彼女の瞳は炎のように燃えている。その決意、その誇り――愚かしいほど真っ直ぐな正義感。その姿を見ていると、ふと遠い昔の記憶がよみがえりそうになる。だが、それはライハンにとってとうに捨てたものだった。


彼女の言葉がまだ空気の中に漂っている。「帝国がこの条件を受け入れれば、共和国との戦争は終結し、無駄な消耗を避けられるはずです。」


ライハンは目を閉じた。


(戦争を終わらせる、か……。)


その考えは帝国にとって無意味だった。戦争とは、終わらせるものではなく、支配の道具として用いるものだ。今、帝国が求めるのは勝利ではなく、徹底的な制圧でもない。ただ、共和国を完全に無力化し、二度と脅威とならぬよう仕向けること――それだけだ。


共和国はすでに崩壊寸前だった。貴族派、共和派、商業ギルド、軍部――それぞれが異なる利害を抱え、互いを疑い、牽制し合っている。この状態で下手に圧力をかければ、一時的に彼らが団結する可能性もある。だが、もし帝国がエリザの提案を受け入れたなら?


(貴族議会はどう動く?)


彼らがこの取引を認めるとは思えない。いや、認めるはずがない。帝国と直接交渉したエリザは、共和国にとって裏切り者となるだろう。そして、その裏切り者が帝国との交渉をまとめた瞬間、共和国は内部から崩れ始める。エリザを排除しようとする勢力が現れ、議会は内輪もめに奔走し、誰も帝国と向き合う余裕などなくなる。


(共和国を攻めるより、内部崩壊させる方が遥かに効率的だ。)


エリザは己の正義を貫くためにここにいるのだろう。だが、その正義はあまりにも純粋で、もろい。彼女は帝国と取引することで共和国を救うつもりかもしれないが、皮肉なことに、その選択が共和国を内部から腐らせることになるのだ。


ライハンは薄く目を開けた。エリザはまだまっすぐに立ち、帝国の決断を待っている。


(……面白い。)


彼女の覚悟は本物だ。その純粋さが、かえって共和国の命運を狂わせるのだから、皮肉というほかない。


ライハンは彼女を見据えながら、心の中で静かに呟いた。


(貴様はまだ何も知らぬ。だが、それでいい。その愚直さこそが、帝国にとって最も利用価値のあるものなのだから。)


ライハンはゆっくりと手を挙げ、側近に命じた。


「……停戦の準備を進めろ。」


エリザの肩がわずかに揺れる。


ライハンは彼女を見据えながら、心の中で静かに呟いた。


(貴族議会はこれを受け入れられまい。だが、それがいい。)


「戦争を続ければ帝国も無傷では済まない。ならば、一度手を引いて混乱を見守るのも手だ。」


停戦は単なる休戦ではない。これは、共和国を内部から崩すための布石だ。


 その瞬間、幕舎の外で風が動いた。


 雲間から、わずかな陽が差し込む。


 エリザはその光の先を見た。


 これが、終わりではないことを知っていた。


 だが、今はこの場で勝った。


 その手応えを、確かに感じていた。


幕舎の後に残るもの


 エリザ・ヴァリスが去った後、幕舎の中には微かな静寂が落ちた。


 風が吹き込む。軍旗がかすかに揺れ、幕の端がたなびく音がする。


 ライハン・アーゼルは、しばらくそのまま椅子に背を預けていた。


 机の上には何もない。だが、目の前には確かに何かが残されていた。


 言葉の余韻か、それとも――


「……本当に停戦を認めるおつもりですか?」


 低い声が、沈黙を破った。


 傍らに立つ副官が、目を細めてライハンを見ている。鎧の隙間からこぼれる熱のこもった視線には、警戒の色が滲んでいた。


「一時的なものだ」


 ライハンは淡々と答えた。


「そのつもりで交渉した」


 副官は口を引き結んだ。


「共和国は崩壊寸前。あの女の言葉など、どれほどの価値があるか……」


「お前は彼女の言葉を信じなかったか?」


 ライハンの問いに、副官はわずかに眉を寄せた。


 答えに詰まる。


 ライハンはその反応を見て、薄く笑った。


「言葉ではない。あの女が本当に持っていたものは――決意だ」


 副官の表情が険しくなる。


「しかし、決意など戦の勝敗を左右するものではありません」


「そうだな」


 ライハンはゆっくりと立ち上がった。


 椅子の軋む音が、沈黙の中に響く。


「だが、あの女が共和国を動かす可能性はある」


 副官は鋭い視線を向けた。


「共和国を?」


「ああ」


 ライハンは、机に手を置いた。


 指先で軽く叩く。その動作は先ほどと同じ。不規則なリズム――考える者の動きだった。


「共和国はもはや腐りきっている。貴族議会は何も決断できず、軍部は足並みが揃わない。だが、そういう時こそ、時代は奇妙な動きを見せる」


「……まさか、あの女がその“動き”を生むと?」


「可能性の話だ」


 ライハンはわずかに口角を上げた。


「だが、もし彼女がそれを成し遂げるなら――それは、共和国のためではない」


 副官が息を呑む。


「帝国のため……ですか?」


「あるいはな」


 ライハンは淡々と答えた。


 幕舎の外から、また風が吹き込む。


 彼はその風に目を向けながら、低く言った。


「たとえ失敗しても、共和国の力は削げる」


 ライハンは、机に指を滑らせながら静かに言った。


 部下がわずかに眉をひそめる。


「つまり、成功しても失敗しても、我々にとって損はないと?」


「ああ」


 ライハンは短く答えた。


「それに――今後のエリザ・ヴァリスの動向を監視しろ」


 その言葉に、部下は一瞬、動きを止めた。


「ですが、彼女はもはや共和国には戻れません。いずれ、追い詰められるでしょう」


「そうだな」


 ライハンは幕舎の外を眺めた。


 風が、帝国の軍旗を静かに揺らしている。


 この戦いの行方はまだ決まっていない。


(今、帝国で起こりつつあることを、もう少し安全圏のここで見ておきたいとは言えないな……)


 ライハンは小さく笑った。


 軍旗がはためく音が響く。


 エリザ・ヴァリスが動く時、帝国もまた動く。


 それがどのような形で訪れるのかは、まだ分からない。


 だが、たとえエリザが失敗しても何かが変わる。


 確実に。

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