帝国の陣営にて
風が吹いていた。
湿った空気が肌にまとわりつく。灰色の空の下、フィルクレス共和国の紋章が刻まれた旗が風にはためき、鞍の上のエリザ・ヴァリスはそれを見上げた。
ここは帝国の陣営の前だった。
遠くには帝国軍の軍旗が並び、規律正しく立ち並ぶ兵士たちが、こちらを見ている。全員が無言だった。その無言の圧が、彼らが今この場に剣を振るう意思がないことを示していたが、決して友好的というわけではなかった。
敵陣のど真ん中にいる。それを痛感する。
「……行くぞ」
低く呟くと、エリザは手綱を引き、馬を降りた。
馬の蹄が砂を噛み、かすかな音を立てる。後ろに控えていた兵たちが、わずかに身じろぎした。誰も言葉を発さない。エリザが命じぬ限り、彼らは動かないつもりなのだ。
エリザは一歩、また一歩と前へ進んだ。
「共和国の使者として、帝国軍の指揮官と話がしたい」
その声が陣営に響いた。
一瞬の静寂。
次に来たのはざわめきだった。
兵士たちが何事かをひそひそと交わし、誰かが奥へと駆けていく。やがて、重い鎧の音が近づいた。
現れた男を見た瞬間、エリザはわずかに目を細めた。
「――ライハン・アーゼル将軍」
口にした途端、男の瞳がわずかに光る。
父の言葉が脳裏に蘇った。
『帝国の刃だ。決して侮るな』
エリザは微かに唇を引き結んだ。
侮るつもりはない。
ここで、彼を説得しなければならないのだから。