五 猫だろうが、人だろうが
刑事で上司で恋人の楡松明希警部が猫になってしまった、突然の事に嘆き悲しむ関根環巡査部長。果たして明希は人に戻れるのか?
翌朝、大変な寝不足であたし達は出勤した。
「おはようございます……」
ぐったりとした顔で、明希はカバンをデスクに置いた。
「おはよう……ございます……」
あたしも、倒れ込むように椅子に座る。
居眠り運転で事故を起こさなかったのは、奇跡に違いない。
「に、楡松君! 君、人じゃないか!」
課長が驚きを隠さずに、飛んできた。
「ええ、昨晩、人に戻りました」
明希は、眠気を隠さずに答えた。
「眠そうだね、大丈夫かね?」
「ええ、まあ、猫になった影響です」
明希は、あたしをチラリと見るとそう答えた。
あたしといえば、良かった良かったと喜んでいる課長に罪悪感を感じながら、カバンからエナドリを取り出すと、明希に手渡した。
明希はエナドリを受け取ると、無言で飲み干した。
あたしも、明希にならってエナドリのプルタブに指をかける。プシュっと、エナドリ特有のなんとも言えない甘い匂いが漂って来た。
グビグビと甘ったるいエナドリを飲み干しながら、あたしは昨夜の事を思い出した。
明希が人に戻ったのは、昨夜の事だ。
「明希ぃ、お風呂入れたから先に入ってくれる?」
あたしは台所で、洗い物をしながら明希に声をかけた。
「昨日も言ったが、この体はあまりお湯にはつかりたくないようだ……」
「猫だからね」
あたしは、明希のために開け放している浴室のドアを見た。
何せ猫では開けられない。
「でもさ、今日もお外にいたワケだし、ダニとかノミとか持ち込みたくないでしょ?」
「……わかった……」
明希は不満そうにのっそりと立ち上がると、のっしのっしと浴室に向かった。
どうも猫になった影響が強くて、水に濡れるのが嫌らしい。日が経つにつれて、ますます猫っぽくなるような、そう言えば昔から猫っぽかったから素でそうだったような。
艶のある長くて黒い尻尾が浴室に消えて行くのを見ながら、あたしは人としての明希の印象が消えそうになっている事を恐れていた。
「本当に人に戻れるの?」
あたしは心が不安で押しつぶされて、思わず弱音を吐いた。
このまま猫でいても、明希は明希だ。猫でも人でも、あたしの恋人には違いない。でも、あたしよりずっと寿命が短いのは嫌だ。
夕食のお皿を洗いながら、あれこれと思い悩んでいると明希の悲鳴が聞こえた。
「お、溺れる!」
驚いて、振り向くと明希が素っ裸で飛び出して来た。
「風呂桶のフチを歩いていたら、足が滑って」
なぜそんな所を歩く。
「もう、危ないから……明希?」
あたしは頬をつねった。
「痛い……夢じゃ……ない?」
「どうした? 環?」
明希はそんなあたしを、不思議そうな顔で見ていた。
「あなた、人に戻ってる!」
裸で飛び出した明希。それは、艶やかな毛皮の代わりに素肌を露わにした姿だった。
「え?」
いわれて初めて気がついた明希は、自分の手をまじまじと見つめた。
「手だ……人の手だ……」
あたしは、呆然としている明希に駆け寄ると、びしょ濡れなのも構わず抱きしめた。
「おヒゲも無くなってる、戻ったの! 明希人に戻ったの!」
「環……」
「明希……おかえり」
「ただいま、環」
あたしは嬉しくって、涙で明希の顔がよく見えなかった。あんなにも見たかった明希の顔なのに。
「心配かけたね」
明希は爪先立ちで、あたしのおでこにキスをした。
「うん、いっぱいした」
「ごめんね」
明希はそのまま、私を抱き寄せると唇にキスを一回、二回そして三回。
長い長いキスをすると、あたしはすっかり膝の力が抜けて明希に寄りかかるようにひざまずいた。
あたしを見下ろす格好になった明希は、じっとあたしを見つめた。
「環。好きだ、大好きだ」
「あたしも。明希、大好き」
覆い被さるように、明希がキスをした。
あたし達は、そのまま……その……夜遅くまで二人で楽しんだ。
そして、気がつくと、朝になっていて。
二人とも慌てて寝不足のまま、出勤する羽目になった。
「関根君も、疲れているようだか」
「ええ、まあ、ちょっと驚いたもので、よく眠れなくて」
課長の悪意のないお言葉が痛い。
「とにかく、申し訳ないが人に戻った経緯を聴取させてくれ」
「え、あ、ハイ」
流石の明希も、狼狽えて答えた。
「関根君も一緒にだ、すまなないね」
「ハイぃ」
あたしも、思わず声が裏返った。
『お風呂で戻って、疲れて寝た。』
寝不足の中、二人で口裏をなんとか合わせていたので、そのあたりは大丈夫なはずだ。 大丈夫だよね?
あたし達は互いに目配せをしながら、しどろもどろで同僚の質問に答える羽目になった。
次回は12/20火曜日の8時更新予定です。
次回更新で誤字等の修正が全部の章に入ります。