一 猫の手も借りたい
刑事で上司で恋人の楡松明希警部が猫になってしまった、突然の事に嘆き悲しむ関根環巡査部長。果たして明希は人に戻れるのか?
「関根君、ちょっといいかね?」
お昼休みが開けた頃の事だ。
誰もいない明希のデスクを見ながらため息をついていると、課長から呼び出された。 あたしは、明希のデスクに置いていたリュックを手に取ると、課長が手招きする会議室に向かった。
ざわざわ。
どう言う訳か、今日は署内のどこに行ってもざわざわされる。
やはり、行く先々で猫の寿命が二十年と泣いていたのが原因だろうか?
あたしは関根環。刑事課所属の巡査部長だ。
上司で恋人の楡松明希警部とは、席を並べて働いているが、その彼女は今や猫だ。
猫になってまったのだ。
仕事上の都合で同居している事にしているが、実際は恋人同士の同棲生活だ。
仕事のリズムがほぼ同じなので、生活のリズムがすれ違わないので最高なのだが、いくら世間が進んでいても、同性カップルは敬遠されがちだし、第一付き合ってるのがバレたら異動させられかねない。
異性のカップルでも職場を離す仕事なので、あたし達の事は絶対に秘密だ。
「失礼します」
会議室に入ると、課長は困惑しきった顔で待っていた。
「まあ、座りたまえ」
「はい、失礼します」
なるべく殊勝に見える顔をしながら、あたしはリュックを抱いて座った。
「楡松警部の事だが、残念と言うか何というか……気を落とさないで欲しい」
「はい、え、いや猫の寿命は二十年ぐらいだそうですし。最近は、三十年ぐらい生きられるかもしれないと言われてますし」
あたしは、しどろもどろで答える。
「そ、それに単に同居している上司ですよ、こうアレです、あの人ほら性格が悪いから、ね、猫になった方が、つ、付き合うの楽ですよ」
自分で言いながら、泣きそうになる。人の方が良いに決まってるじゃん。
課長は無言でハンカチを取り出すと、あたしに渡した。
心なしか、リュックも慰めるようにモゾモゾ動いた。
「あ、ありがとうございます。ど、同居人でも猫になるとショックですね」
あたしは、いつの間にか流れた涙を手渡されたハンカチで拭う。
「……その、なんだ……」
「はい」
課長は何とも言えない、複雑な表情で言った。
「私は、部下のプライベートには関わらない。基本的に犯罪に関わらない、反社とかとの交友関係が無ければ自由だと思う」
「はい?」
「しかし、君のその泣き腫らした目を見るに耐えがいものがある」
「はあ?」
課長はしばらく瞠目すると、深呼吸してから言った。
「君たちは恋人同士なんだね?」
バレた!
気をつけていたはずなのに、なんで、何でバレた。
「あわわ、いやいやいや、ち、ち、ちがいますう」
バレたバレた、ここは誤魔化さないと。まずい、まずい。
「そんな事ないですよ、あたしと明希、楡松警部がそんな関係な訳ないじゃないですか!」
あたしは、思わず立ち上がる。
「だ、だいたいその、あんな性格破綻者ですよ、わああわ、あたしならゴメンです」
抱えているリュックが、抗議するように揺れる。
「もう少し優しい人がタイプですよ、いやそのもう少しと言うか……」
あたしの言い訳を聞きながら、課長は難しい顔をした。
「もしかして、君はバレてないと思っているのかね?」
「へ?」
ふーっと課長はため息をつくと、左右に首を振った。
「隠しているつもりなら、署内で帰りに手を繋いで帰るとか、署内で楡松警部の世話を焼いたり、管轄区域でデートするのはよした方がいい」
「あ、あ」
全部思い当たる節がある。
「ナンというか、君ら署内でも有名なカップルだよ」
「え、え」
オロオロするしかないあたしを見ながら、課長は困った子供を見るようにあたしに言った。
「別に、今後慎むようにと言う気はないが、あまり職場にプライベートの揉め事を持ち込まないように」
「あ、はい」
バレるどころの話ではなかった。
「それで、楡松警部はどうしてる」
「明希ならここに」
あたしは、そう良いながらリュックを開けた。
のっそりとリュックから、黒猫が顔を覗かせた。
「おはようございます」
明希の口から、憮然とした声で場違いな挨拶が出た。
「お、おはよう」
流石の課長も動揺したのか、若干引き気味に挨拶を返す。
「職場で名前を呼ばない」
それから、亜希は振り返ってあたしに言った。
「バレていたようだね」
「うん」
亜希は、うーんと伸びをした。優雅に体を伸ばすその姿は、猫そのものだった。
「で、どうします? どちらかを異動させますか?」
明希は、課長に向き直った。
「さっきも言った通りだ、ウチの署には二人とも必要だし。そもそも、君を受け入れてくれる部署はここしか無いぞ?」
「それはまた、ありがたいことで」
亜希は気のない返事をした。
「とりあえず、バレていようがいまいが、我々の事は他言無用で」
「私にも、それくらいの常識はある」
「それなら、結構」
亜希は、満足そうに前脚の毛繕を始めた。
あたしも、課長の答えを聞いてほっとした。
いいふらす人とは思ってないが、だからと言って他言しないとも限らない。
「ところで、楡松警部」
課長は、何か思いついたように、ニヤリと笑った。
「それくらい元気なら、職場に復帰してくれないかね?」
「猫ですよ」
亜希が間髪入れずに反論した。
「警察犬がいるんだ、猫が捜査会議にいて悪いかね」
「……猫で良ければ」
「決まりだな、何せ猫の手も借りたいんだ」
課長は軽く頷くと、あたしに向かって言った。
「関根巡査部長、楡松警部の……何というか、手助けをしたまえ」
「了解しました!」
そう答えると、あたしは明希を抱き上げた。
「そういう意味じゃないと思うぞ」
ボソリ、と明希があたしの胸の中で呟いた。
次回は12月4日の月曜、8時更新予定です