プロローグ 猫の時間、人の時間
「朝起きたら、明希が猫になってたの!」
このバーを始めて……いや、店と言った方が良いか。とにかく、この店を始めてもう何年になるか分からない。
二十年……、三十年……。
アタシは七海、この同性愛者専門のバー『プラム』の店主兼バーテンダーだ。
もう思い出せないほど昔から、色々な悩みを聞いてきた。
「ビアンだからって、猫にならなくてもいいじゃない?」
「え! そうなの? 猫なの?」
「違う! いや、その、そうとか、そうでないとか、そんな話ではない!」
こんな珍妙な悩み方に出会ったのは、初めてかもしれない。
この娘、これでよく警官やってるなあ。
先ほどからカウンターで、ハラハラと泣いている娘——関根環は、この町で刑事として日夜市民の安全を守っている……はずだ。
「でも、猫の寿命は二十年ぐらいだから、明希があたしより早く死んじゃう!」
そう言いながら、さめざめ泣いていた環はとうとうカウンターに突っ伏してワンワンと号泣し始めた。
「人に戻れないと、決まったワケじゃないから」
カウンターに腰掛けた黒猫は、困ったようにそういいながら前脚を環の頭に置いた。
この黒猫が、楡松明希だ。
人の時と同様に、長い毛がビョンビョンとあらぬ方向に行っている。
それでも、黒く艶やかな毛は美しく、ペルシャ猫のようだった。
「そうそう、最近は寿命が三十年ぐらいに延びるかもって」
アタシはそう言いながら、黒猫になった明希を撫でた。
「結構良い手触りね」
「気安く触らないでくれ」
爪を出しながら威嚇する姿は、猫そのものだ。
「でも、でも明希が先に死んじゃう」
「人でもそうじゃない?」
「いやあ!」
アタシの答えが気に食わないのか、環はカウンターに突っ伏して泣きはじめた。
「あまり、いじめないでくれないか?」
いつもは冷静な明希だけど、この時ばかりは身体中の毛を逆立てて怒った。
「私の恋人だぞ」
「あら、怖い」
シャー、と威嚇する姿は猫そのものだ。
「珍しいじゃない? あなたが環の事を恋人って認めるの」
「人をからかうのは、やめたまえ」
黒猫はそう言うと、そっぽを向いた。
「コレは、魔法の類だと思うかね?」
黒猫はそっぽを向きながら、最初に聞くべき事を言った。
「魔法ね、決まってるじゃない? それに、あなた恨みを買ってそうだからね」
この町には、魔法が生きている。
かつては魔法少女が町を守っていたが、今はお休み中。それでも、町のあちこちには魔法が息づいていて、何かと騒動を起こす。
「恨みを買わない警官がいるのかね?」
「そういう問題かしら?」
明希は、これでも敏腕刑事で通っている。性格に難があるので、出世とは縁がない。
それでも捜査手腕に優れた彼女の階級は、警部殿だ。
彼女が解決した事件の犯人から、恨まれている事もあるだろう。
「で、アタシに何の相談だったの?」
「この界隈には魔女がいる、そう聞いた」
「アタシに教えろと?」
黒猫は鋭い目つきで頷いた。
「教えてほしい」
「知らない、ごめんなさいね」
我ながら、『にべもない』返事だなと思いながら答えた。
黒猫は目を一段と細くすると、軽く首をひねった。
「なるほど」
彼女は、ぺろぺろと前脚を舐めたり、爪を噛んだりして何か思案していたようだ。
「何か聞いたら教えてくれ」
そう言うと、黒猫は優雅にひと伸びした。
「わかった」
アタシは、軽く手を振ると答えた。
「何かわかったら、連絡する」
「ありがとう」
そう言うと、黒猫はとてとてと彼女の恋人に近寄った。
「帰ろう」
そう言いながら、明希は環の顔をぺろぺろと舐めた。
その姿は薄暗い店内でも美しく、恋人を亡くした飼い主を慰める猫を描いた、絵みたいだ。
アタシはガラにもなく、二人に見惚れていた。