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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章七話 至純の涙 * 元治元年 九月
99/212

逸らされぬ目

「あああ、まじに申し訳ない……」


 河上を逃がしてしまったことを報告すると、祇園社外周の脇にある岩に腰かけていた愁介が呻くように言って自身の顔を覆った。


「いえ、逃したのはこちらですから……それよりも、先ほどはどうなさったのですか。どこか怪我か、具合でも?」

「怪我っていうか、まあ」


 斎藤の問いかけにかぶりを振って、愁介は深々と溜息を吐く。


「ものっすごい情けない話なんだけど、河上がオレの頭上を飛び越えてった時、捕まえようとして腕伸ばしたでしょ。あの瞬間、ちょーっと足の筋まで捻っちゃったみたいでさ」

「念のために軽く診させていただきましたけど、傷めたというほどではなかったようですから、少し休めば大丈夫だと思いますよ」


 愁介の隣に並んで腰かけていた沖田が、心配と安堵を足して二で割ったような苦笑を浮かべながら眉尻を下げる。


「はあ……誰が足手まといだっつって勢い勇んでたくせして、結局オレが足引っ張っちゃったじゃん。ほんと申し訳ない」

「いえ、さすがに河上のあの動きは本当に予想外でしたから、今回ばかりは逃がしたのも仕方がないんじゃないですか」


 ねえ斎藤さん、とぼんぼり髪を揺らして首をかしげる沖田に、斎藤は肩をすくめ返す。


「まあ、そうですね。愁介殿お一人の責任とは言えないかと。事実、私も沖田さんもろくな反応ができなかったわけですし」

「そうまで言われると、立つ瀬ないんですけどね!」


 斎藤の答えに、沖田は不服そうに膝の上で頬杖をついてぶすくれる。


「でも悔しいなあ。私達三人がかりで捕らえられなかったのもそうですけど、あんな曲芸師みたいな動きをされるなんて、思ってもみませんでした」

「道場剣術じゃ絶対にしない、実戦一辺倒の剣って感じだったね」


 もう一度深い溜息を吐いてから、愁介がようやく顔を上げた。沖田の見立て通り既に足に痛みはないのか、顔色も悪くなく、ただ沖田と同じく不服そうに眉根を寄せている。


 見ている限り、どうやら二人とも逃げられた云々以上に、立ち合いの中で己の予想外を衝かれたことのほうが余程悔しいらしい。顔を突き合わせながら再戦の時はどうのこうのと話し始めるので、斎藤はつい半眼を向けて水を差してしまった。


「……深手と言えないまでも、こちらも愁介殿が河上に手傷を負わせたわけですから、しばらくは身を潜めて現れないと思いますよ。場合によっては京から出る可能性もあるかと」


 途端、二人とも揃って口をつぐみ、玩具を取り上げられた子供のような顔で立ったままの斎藤を見上げてくる。


 斎藤は顔をしかめつつ、二人を交互に見やって言葉を続けた。


「……御用できなかったのは落ち度ですが、もし河上が京から出るようなら、一応のところ幕府側としても最低限の面子は保てるのではないですか」

「それはそうかもしれないけど、そうじゃないんだよなあ!」

「そうですよ斎藤さん、このままじゃスッキリしないじゃないですか! 第一、やっぱり悔しくないですか?」

「悔しいというより、この面子で揃って出て逃がすはずはないと驕っていたところがあるから、そういう意味で現状の結果に羞恥を感じる部分はある」

「冷静極まってて、恥ずかしがってる顔に見えない……」


 何故か愁介に呆れた目を返され、沖田もそれに同調するように深く頷いては胡乱な視線を投げかけてくる。


 答えるのも面倒になってきて、斎藤は二人から視線を外し、空を仰いだ。


 何とものどかな薄青い秋空が、境内脇に植えられた木々の上に広がっている。


 斎藤に答える気がなくなったと見たらしい二人は、再び顔を突き合わせながら河上対策についてああだこうだと話し出し、何なら軽い手振りで模擬戦まで交わし始めた。


 半ばつられるように、もしも斎藤自身、河上と一対一で対峙を続けていたらどうなったか――……と考えかけて、しかしすぐさまそれを止めた。勝っても負けても複雑な想いが湧き出てきそうで、考えても詮無いのだと思考を振り払う。


「――ねえ」


 話の区切りがついたのか、不意に愁介が再び呼びかけてくる。


 視線を返せば、愁介は何の気ないような、しかしどこか探るような、妙に真っ直ぐな目で斎藤をじっと見上げていた。


「斎藤はさぁ、立ち合いで勝てなくて悔しいって思ったりすること、ある?」

「……質問の意図がわかりかねるのですが」

「いや、別に意図もへったくれもないんだけど、単純にそういうのあるのかなぁって」


 首を捻られるが、斎藤はただ静かに目を瞬かせて「さあ」とゆるく首を捻り返す。


「どうでしょうね。子供の頃はそんなこともあったかもしれませんが」


 当然と言えば当然かもしれないが、満足のいく答えではなかったようで、愁介は「そっか」と曖昧な苦笑いを浮かべた。


 ――また何か、斎藤の生きる気力の有無を確かめようとでもしているのだろうか。


 ああ、嘘でも生きる活力を取り戻したふうを装ったほうが、(かづら)の情報を得られただろうかとふと思う。が、下手な取り繕いをしたところで散々失態を見せている愁介相手に通用するとは考えられず、すぐに諦観が湧いて目を伏せる。


「まあ、愁介殿ほど何でもかんでも熱くなれないことは確かですね」

「お? 微妙に棘を感じるな。もっと落ち着けってことかな? 言い換えればオレが子供っぽいって言いたいのかな? うん?」

「ご随意に受け取っていただいて結構ですよ」


 受け流すと、愁介は妙に悔しげに「この野郎、誰も彼もお前みたいに大人でいられると思うなよ!」と居直ったようなことを言う。


 まったく無邪気な――と、無意識に口の端に薄い苦笑いを滲ませた時。


 今度は、愁介の隣からも視線を感じた。


 見やれば、いつぞや見たような冷めた表情の沖田と目が合う。


 しかし数日前とは異なって、沖田は斎藤と視線が重なっても己の表情を取り繕うことをしなかった。愁介が隣に目を向けるまで、数拍の間、沖田は感情の読めない目をひたりと斎藤に向け続けていた。

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